ほんとの雑談となってしまうが、ついでだからその後のローマ見物を振り返って見る。
ローマの代表的観光地「コロッセオ」。この頃には人が増えていて、着いたときは大行列(1時間はたっぷりかかる)。並ぶのは嫌いだから惜しいが外回りだけ見ることにする。そのまま「フォロ・ロマーノ」へ。ここも人が多くて、古代を偲ぶ風情なし。「元老院」はちょっと雰囲気があったな。
カピトリーノの丘を下って「サンタ・マリア・コメスディン教会」へ。
この教会名でここが何で有名か知っていれば、あなたはローマ通。「真実の口」のある教会である。映画「ローマの休日」の代名詞みたいなところか。ここも人が並んでいたが、20分ほどだった。行列のところでオカリナの製作人がオカリナを売っていた、私の親友もオカリナを作っている(演奏もする)、それでお土産に買った。
「口」に手を入れ(抜けなくなるかな、と一抹の不安)、記念撮影。これでイタリア旅行の二大目的の一つが果たせた(もう一つゴンドラに乗る)
これじゃけっこう「軽い」よね。あとは付録みたいなもの。ぶらぶらと中心街をめざす。
テヴェレ川を渡りながら遠景の松を楽しむ(「ローマの松」という曲がある、ローマは松が多いし、りっぱである)。遅い、昼食をとったりしていたら「パンテオン」に着いたときは遅くて、入場できなかったのが残念。2000年以上も前の建物が、現に使われている。その頃の日本は? 石器などが残っているだけで歴史は残っていませんね。「歴史」というものを目の前に見た気がした。
昨日も来た「トレビの泉」を経由して、有名ブティックの並ぶ「コンドッティ通り」へ。フェンディ本店には入ったが、ブルガリ本店は敷居が高すぎて入れなかった。私にも遠慮というものがあると自覚した。いろいろな都市を訪問したとき「本店」を覗いてみるのはニューヨークの「ティファニー」以来、私の趣味。
今日は祝日なので法王がスペイン広場に来るという。法王歓迎の人ごみがひどかった。昨日はそんなに人のいなかった同広場は身動きがとれない。長居は無用、いろいろな建物を見ながら、宿へ戻る。
そうとう歩いたのかもしれないが、全然疲れなかった。散歩に非常に適した都市だね。小休憩し、(夕飯をかねて)東京駅ともいえる近くの「テルミニ駅」見物に行く。自由に駅構内に入れる(そのまま列車にも乗れる)。横一線にいろいろな列車が並んでいる。東京駅のように線路が入り組んで、迷路のようなことは全然ない。また「ターミナル」というのがよくわかる。全部の路線が「終点(始点)」なのである。
ちょっと前までは「おのぼりさん」をカモにするスリなどが多かったそうだが、治安がよくなったとのこと。駅付近には日本語の看板のレストランがあり、日本語で話しかけてくる店員もいた。
目的もなく、ぶらぶら歩くのは楽しい。この文もたいした目的もなく書いている。長くなったのでこの辺でやめよう。駄文におつきあい、ありがとう。
投稿者: yasubee
ラテン語の勉強歴
私(鈴木)の独学によるラテン語勉強の足跡を振り返ってみます。なにかの参考になるかもしれません。
「著作」に出会ったのが36歳。原典はラテン語と知り、和訳『天界の秘義』などにラテン語の単語がちらほら載っているので、持っていてもよいだろうと田中の『羅和辞典』を買ったのが84年10月(37歳)。文法など知らないので、「辞書を引く」ことはなく、しばらくは単語を眺めるだけだった。
時は経て89年2月:『ラテン語4週間』を買った。文法がどんなものかざっと眺めただけ。
91年6月(44歳):「ジェネラル・アセンブリー」に参加(2度目)。そこでドールの『An Introduction to Swedenborg’s Theological Latin』と『結婚愛』などの原典を入手。このとき、全然読めないし、読んでみようとは思わなかった。原典が手元にあるだけで満足だった。
ヘブル語・ギリシア語の勉強はほぼ終えていた(聖書を原語から、辞書などの助けで読解できるまでになった)が、そのことに精力を相当つぎ込んだので、これ以上新しい言語の習得に取り掛かる気力はなかった。
93年9月(46歳):原典『天界の秘義』『黙示録講解』など入手。これも参考書として、原典でどのような言葉が使われているか確認するためであった。しかし、「動詞」が問題となってくると、正確なニュアンスを知るためにはどうしても、文法知識が必要と思えてきていた。そこで、
93年12月:小林標著『独習者のための楽しく学ぶラテン語』入手。その後すぐに『LEXICON』を注文。小林の「教科書」は聖書(Vulgata)からの例文があったりして、私にぴったりだった。並行して前記ドールの「教科書」も学び始めた。やはり(1)よい教科書に出会う、のと(2)原典を手元に置く、と以前はやる気がしなかった、勉強も始めたくなる。それでもまだ、読めるようになるとは思っていなかった。
94年5月(47歳):注文してあった『LEXICON』を入手。しばらく、使っているうち、「これ(辞書)は近ごろなされたスヴェーデンボリ研究の金字塔だ」と思えてきた。以前、なぜ「読めるようになる」自信がもてなかったかは「辞書のせい」だった! 移動手段でたとえれば、自転車と自動車以上の違いだろうか。田中の『羅和辞典』では決して「著作」を読み、訳せるようにはならない! このあたりからラテン語習得に向けて本格的に取り組み始めた。
原典という素材を料理する(切れ味のよい)「包丁」を手に入れた気分がする、よい辞書を手に入れることは決定的に大きい! 原典を読むのが楽しくなった。
前後して、文法もドールの教科書で徹底的に学ぶことにした。徹底的に学ぶ方法の一つが「和訳する」ことである。それで、このようなよい教科書を紹介する意味でも、『スヴェーデンボリのラテン語』を出版した(02年1月、55歳)。これでスヴェーデンボリの著作を読むための文法事項は習得できたろう。
ここで連載中の『レキシコン』は、上記教科書の翻訳も一区切りついた2000年の8月(53歳)から見出し語などを入力し始めた。
現在61歳、まだまだ勉強中である。この辞書を翻訳し終えた時が、私のラテン語勉強一区切りのときだろう。
それで、私のラテン語の実力は?
ごらんのとおり、晩学の「独学」である(申し添えれば、ラテン語は規則的な言語であり、独学に非常に適している)。目指したことは、スヴェーデンボリの著作の原典読解のみ。
記憶力の盛んな若い頃に学んだのではないから、第一変化の名詞すら、その変化を確実には記憶していない。動詞の変化形などほとんど覚えていない。単語すらロクに覚えていない(覚えられない)。
それで、どのように翻訳しているのかといえば、有田の『文法表』を片手に、しょっちゅう辞書を引きながらである(しかし、利点がある、面倒なようでも、勘違いが防げてよい)。実力はまったくの不明、ほんとうにあるの? と疑問符がついてしまう。試験があったら「零点」の可能性が大。
では、何を学んだのか? どうして解読し、翻訳できるのか? との疑問がわいてこよう。
文法だけでなく、もっと広いと思える「文の構造や仕組み」について学んだのである。たとえば相関文「tam~quam」「talis~qualis」とか属格の用法、形容詞の特性、接続法・・・などについて知っているのである(これだとやはり文法のみの知識となってしまうが)。
そうした知識の一例として、ラテン語の特徴である「接続法」を少し述べてみよう。
「彼は親切である」と直説法で述べてあったら、「単純な事実」または「真実」を述べている。これに接続法が使われていたら、「彼が親切である」ことについて、話者のなんらかの思いなり、評価が加わるのである。すなわち(自分・周りの者は)「彼が親切」なのでよかった、(私は)「彼が親切」であってほしい、・・・等である。ついでながら、私はこのように、接続法の場合、主部を「~が」とするように訳している。それで、当然ながら「従属節」は接続法となる(もし、従属節でも直説法が使われたなら、別のニュアンスが生じる、すなわち、そのことは(永遠の)真実を意味する、など)。
では、接続法の未来時制はどのようなニュアンスをもってくることになるか? 話者の何らかの思いが反映された未来である。英語でなら「You shall die」のように助動詞(ラテン語にはない)を用いた「意志未来」ということになる。別の言い方をすれば、英語には接続法がないから、その代用を助動詞が果たしている、といえる。このことをふまえて訳すと「これから起こることや行なうことは、こうあってほしい」となる。もっと強く「~しなくてはならない」と訳すこともある。
独学なので人から見れば基本も知らない「かたわ」かもしれない。でも、自分なりに「どんな体系、どんな表現法をもった言語なのか」把握したつもりでいる。だから、語学に関する無学者の私でも「原典翻訳」という大それたことに挑戦する。(「どんな体系、どんな表現法をもった言語なのか」ということを気づかせてくれたのが「ヘブル語の学習」だった、そのうちヘブル語について述べよう)
原典を読もう(『神のみことば』) No.1
このサイトはスヴェーデンボリの原典を読むためにあります。眺めるだけでなく、実際に「学びましょう」。それには「前準備」などわきに置いて、すぐさま原典にかじりつくのが、一番よい方法だと思います。私はヘブル語をそうして習得しました。ともかく、わかってもわからなくても、実物にあたってしまうのです。やる気さえあれば、あとは何とかなります。
では今日の原典(わからなくても、ローマ字読みでゆっくり3度は眺めてください)。
(読む上での注意:qu は「クォ」、v は「ウ」です。それでVerbumは「ウェルブム」、あとは英語風ローマ字読みでO.K.)
quod postquamVerbum datum est Dominus per id solum Se manifestet, nam Verbum, quod est Divinum Verum, est Ipse Dominus in caelo et ecclesia;(AE594:3)
何か気づきましたか? ドイツ語みたいに途中に大文字がでてきますね。特殊な語だからです。
Verbum「みことば」、Dominus「主」、Se「ご自分(大文字なので「主」のこと)」Ipse「その方(大文字なのでこれも「主」のこと)。今後の学習でこの四つはよくでてきます。覚えてください。といっても、すぐ覚えてしまうでしょう。(Divinum, Verum は次回)
ここから、この文は「主とみことば」について何か書いてあるな、とわかります。今日は全訳を載せません。知りたい人は、出典個所を見てくださいそれは最後の AE593:3 です。
AE は Apocalypsis Explicata の略号であり、『黙示録講解』594:3です。
初心者にはちょっとわかりそうもないので、まずは文がどこで切れるか述べておきます(じつはこれが非常に難しく、これができれば半分わかったようなもの、この文の切れ目がわかることは、文章の組み立て、論理の筋道などがわかることであり、総合力が必要となってくる)。
manifestet と nam の間です。
この文ではじつは簡単です。接続詞が posetquam と nam の二つ使われているので、接続詞の前でいったん文意が切れるとわかります。
くわしいことは段々とやることにして、まずは quod、これは英語の that と思ってほとんど用が足ります。「それ」という意味がまず浮かびます、そしてこれが後半に出てくる quod の意味です。
「~こと」という意味もあります。文頭の quod はまずこの意味です。「(quod以下の)~のこと」。
postquam は接続詞で「~の後」の意味、ついでに接続詞 nam は「なぜなら」。
次は datum est これでひとつと思ってください。datum を辞書で引いてもでていません。いや出ていました。このサイトの「レキシコン」を引いてください。「贈り物」とありました(この語は do「与える」→与えられたもの→贈り物となったんでしょうね)。次の項目に datus があり、「do の完了分詞受動」とあります。どうやらdoの変化形だと見当がつきます。で、doを引けば、do dare dedi datum とちゃんとありました。文法を今は説明しません。意味は「与える」でよいとわかります。
ここは受動態で「与えられた」という意味です。最初のうちは厳密にやらないで、だいたいこんなものだなと把握するだけで結構。
前置詞 per は二通りの意味を知って入れば、まず用が足ります。「~によって」と「~を通って」。ここではどちらかといえば後者の訳語ですね。idは「それ」、solum は「~のみ、~だけ」。それで per id solum は「それを通してだけ」。
manifestet これも動詞なのでこのままでは辞書に載っていません。動詞かなと思ったら、近所の「-o」を探してください。動詞はほとんど「-o」の形をしています(ほかの形もあるが、今は述べない)。
manifesto「現わす」ですね。政党のマニフェスト(宣言書)はこれが語源ですね。ここは直説法・現在・三人称・単数です(今はこだわらないでください)。
ここまでで、前半終了。どんな意味でしょうか? やはり文の切れ目がわかりませんよね。est と Dominus の間で切ってください。「みことばが~後で、主は~現わされる」となります。quod は訳出しないでよい場合が多々あります。ここでも文がごちゃごちゃするので省きましょう。
もひとつヒントがないと初心者はむずかしいかもしれません。id「それ」が指す内容です。id は is の中性・単数です。急に「中性」なんて出てきても気にしないでください。名詞 Verbum は中性・単数です。
これだけ、学べばこの文章の前半の意味がなんとなくわかってきたはずです。「みことばが~後で、主は~現わされる」の「~」を補ってみてください(宿題)。
遅読の勧め
「遅読」という言葉があるのかしらない。おそらく私の造語だろう。速読に対するアンチテーゼのつもり。
世の中に『速読法』の本をよく見かける。全然興味がない。内容によって読む速度が(自然と)変わってくるのは経験済みだからだ。ものを読むとき、それに適した速さがある。どうでもよいものをだらだら読むのは時間の無駄、そして逆説に聞こえるかもしれないが内容を把握したい時も早く読む必要がある。すなわち、ある内容を一定時間のうちに把握しないと、論理の筋を見失ってしまうからである。
しかし、「これは」といったものは、じっくり読む必要があり、そうしたとき、読む速さは遅く、一定している。『天界の秘義』を読んでいる時は、ある程度以上早く読むことはできないというよりも、一定の速さで読んでいることに気がついた。そして、しばしは思索にふけり、読書は中断する(補足すれば、工事なども適した速さがあり、工事を急ぐと、どこか無理をして、そこから欠陥を生じ、結局工事をやり直さなくてはならないハメとなる)。
わざとゆっくり読むことも必要だろう。一行読むのにどれだけ多く時間をかけられるか、試してみることである。道を歩く時、目的地へ急ぐことをせず、できるかぎり「道草を食う」のである。もうこれ以上同じ場所にとどまっておれない、と思ったら、先へ進む。こんな読書があってよい。
作家の太宰治は(「イスカリオテのユダ」などキリスト教を題材にして短編を書いている)「マタイ福音書」を読むのに一年かかったとのこと。はたしてどのような読み方をしたのか。
くどくなるが速読が無意味なことをつぎのたとえで示してみよう。美術館に行った。名画が展示してある。A君はそこで50枚鑑賞した。B君は3枚しか見なかった。どちらが「鑑賞」しただろうか? 枚数が問題にならないこと、鑑賞の速さが問題にならないことは明らかだろう。
ここで「原典を読もう」を連載することにした。おそらく1回で原典の1行すら読めないかもしれない。それでもよい。翻訳物を100ページ読むよりも、原典を1行読むほうが勝っていると思う。
急ぐことはない、ゆっくり道草しよう。急いだ先に何があるというのか? ゆっくりとは今を楽しむことに通じる(だらだらではありません、念のため)。