花の都:フィレンツェ
まず対岸のアルノ川の中腹ミケランジェロ広場からフィレンツェ市街を一望する。続いて「ウフィツィ美術館」、有名な「ヴィーナスの誕生」など名画の宝庫! 同美術館の「ウルビーノのヴィーナス」が今、東京にきていて、高田馬場駅にはその巨大な宣伝絵が掲げられている。
その後、すぐに行ったのは「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(これは訳して「花の聖母寺」)。巨大なクーポラ(円蓋)をもつイタリアを代表する美しい建物であり、旅行のパンフレットなどによく使われる。約20分かけ、迷路のような狭い石段を一汗かいてそのクーポラを登る(足場を使わないで建築したという)。眼下には美しい町並み。
それから、散歩しながら川を渡りピッティ宮そばのリストランテ(食堂)を探すが見つからず、時間を食ってしまい、スヴェーデンボリも訪れたピッティ宮はその外側を見るだけで入らず、目の前のバールに入った。貧乏旅行にはバール(BAR)がよいところだろう。それでもやはり本場のピザはうまい。
ポンテ・ヴェッキオ(ヴェッキオ橋)を渡って「フェラガモ本店」へ。しかし、貧乏旅行じゃ入れませんね。隣の「フェラガモ博物館」へ入った。へップバーンやディートリッヒの木製の足型、また直筆の注文書などが展示してあり、興味深い。もちろん靴も展示してあり、さすがに美しい。超一級の感がした。日本の靴製作の歴史は100年ぐらいでしょ。片やローマ時代からサンダルを履いていて、2000年を越える歴史がある。日本の着物に伝統があるように、靴は(イタリアファッションに)まだまだかなわないな、と思った。「フェラガモの靴は履いたらやめられない」という(履いたことはないけれどもっともの気がしてきた)。
街もきれいで、ぶらぶら歩きが楽しかった。
翌日は聖地:アッシジ
ペルージャ(サッカーの中田を思い出すね)を通過して行くのだが、このあたりの田舎の景色が抜群!左右になだらかな起伏の丘陵にオリーブの樹の植えられた中をどこまでも行く。アッシジ見物の後は、丘陵はすこし緩やかとなり、こんどは羊の放牧の平原を行く。目の前に「オリーブ」「羊」となると対応の知識から第三の天界が思い起こされる。
訪れたのは聖フランチェスコを讃えて建てられた「サン・フランチェスコ大聖堂」(本人はそんなもの造らないよう、そんな金があるんなら、貧しい者に施すよう、遺言を残したらしい、がずっと後になって、崇拝者たちが建ててしまったとのこと)。白亜の美しい外観、内部もすばらしく、地下の聖フランテスコの墓所の前ではわき目も振らずに祈る人たちが多い、単なる観光地ではなく、聖地であった。
上手広場(前庭)は広い芝生、そこによく剪定された潅木が植えられており、その三文字が「P」「A」「X」。(すぐさま「パークス・ロマーナ」の言葉が浮かぶ)。この言葉でアッシジの印象が深いものとなった。ついでながらこのサイトの「著作からのことば」にもPAXがでてくる。次のもの――「平和には、この中に、主がすべてを治められ、すべてを備えられ、そして善い終わりへと導かれるという、その方への信頼がある」(『天界の秘義』8455番、ラテン原文については、何回かホームページ(表紙のページの意味)を見ているうちにでてくるでしょう)。
その後は、中世の雰囲気を保った(観光のためでしょう、日本で言えば景観は全然違うが「妻籠・馬篭」てなところでしょうか)町並みをぶらついた。
ツアー・バスに乗り込み、ローマへ向かう。
投稿者: yasubee
新版『レキシコン』とチャドウィック
SPI(Swedenborg Publishers International)の「会報」(2007年秋号)に、『レキシコン』がロンドンのスヴェーデンボリ協会から来る4月中旬に出版されるニュースが載っていた。(以下そこの記事から)
この近代ラテン語の「レキシコン(辞書)」は故ジョン・チャドウィックの編集によるものである。この古典語の学者は古代ミノア語の文書である線文字B解読の仕事で世界中に名高かった、今だにそうである。また彼は、何年もの間『Oxford Latin Dictionary』の編集者を務めてきた辞書学者であったことも忘れてはならない。
〔注釈:ミノア語とは、古代クレタ(紀元前3000-1100頃のクレタ島での青銅器文化)言語。線文字Bとは、紀元前15-12世紀頃、クレタ島とギリシア本土で用いられていたギリシア語を表記する音節文字。1952年にヴェントリス(英)が解読した〕
ロンドンでは4月17日に出版記念の集会が開かれる。そこではチャドウィックから後継者とされたジョナサン・ローズ師など3名の同僚や仲間が、①「辞書学について」②「近代ラテン語学の最近の事情について」③「新版について」の講演を行なう。
この「レキシコン」は一人の著者〔スヴェーデンボリ〕の著作を扱ったものであるが、単語の一覧表などではなく、近代ラテン語とその用法の最初の辞書と考えられる。本書がスヴェーデンボリや近代ラテン語の研究者だけでなく、神学者、哲学者、歴史家、その他この数世紀の間にラテン語で書かれた文書に関わる者の助けになることを願う。
権威について(出版社と辞書)
私には若いころから野心があった、今もある。「何かの権威になりたい」というものである。振りかざすような「権力」ではなく、「あの人の言うことを聞きたい」「あの人のそう言うなら、なにかわけがあるにちがいない」といふうに、その人に耳を傾けたくなるような権威である。
その「何か」が何であるかはわからなかった。20歳の頃、「60歳ぐらいになったら、何らかの分野でひとかどの人物になっていたい」と思った。
30代後半で、スヴェーデンボリに出会った。その思想を「むずかしくて、よくわからない」という人もいるが、私には砂地に水が吸い込まれるようによくわかった。毎日読み続け、『天界の秘義』を読み出してからはヘブル語の知識も必要だとわかり、すぐさまその勉強も始めた。
全日制高校で教えていたが、勉強時間がほしくて40歳で定時制に移った。これとともに「サラリーマンで(教員もその一類)昇進・出世を望まない者はいない」と言われるが、「いずれ校長になるだろう」との望みは捨てた(自分のやりたいようにやらしてもらえる点で、いつもながら女房には感謝している)。この世の栄達よりも、ほんとうのことを知るほうがはるかに重要とずっと思っていたからである。
ヘブル語に遅れてギリシア語も学んだ。遠回りのようだが、聖書に原語ではどうか書かれているのか、知っておくことは「内意を探る」ために必要不可欠と思った。そして、学んでおいてよかった。
以来20年余りが経過した。ずっといろいろやってきた、語り出せばきりがない。私は「権威者」となれただろうか? まだまだと思う。脱線すれば、少しは権威者らしく見えるかなと思い「ひげ」を伸ばしたが、じじくさいだけで、評価されなかった。ここで剃った(また冬場に伸ばします)。
本論へ移ろう。私の「権威」はさておき、出版社の権威はどこから生じるだろうか。良質な図書を発行し続けることなどが上げられるだろう。しかし、私にとっては「その出版社が辞書を出しているかどうか」である(株式会社で言えば、辞書を出すことが、一部上場のようなものだろうか)。
発行部数の多寡は問題とならない、テレビ番組で言えば、視聴率の高い番組が内容の良さを物語っていないのと同じ(関心を持つ人間の多さの指標にはなる)。
ちょっとやそっとの労力や採算を考えていたら出せないのが辞書。それだけに、辞書を出している出版社は尊敬する。
さて、ネット上に立ち上げただけで何も出していない「あおい出版」。私なりにこの出版社に「権威」を持たせたいと願った。(売れることなど考えず)良質な図書を出そう、そして何よりもその象徴たる「辞書」を必ず出そうと思った。
需要を思えば、「レキシコン」など次のまた次に出すものだろう、しかし、私にとっては出版社の権威に関わる重大問題。そして、この「レキシコン」、いつかは、だれかが、出版すべきものと思う。
レキシコンの編集方針
チャドウィックの『レキシコン』をそっくりそのまま翻訳することもありえるが、しかし、何のために和訳するのかといえば、日本語使用の読者が原典を読むためのものである。
するとそのために、(1)極めてわずかな見出し語(『草稿』からのもの)と訳語では省いたものでてくる。これについてはそのことをいちいち表記するのを省略した、あまりに煩瑣であり不要と思えたから。
(2)つけ加えた見出し語、訳語もでてきた。こうしたものには「*」をつけた(しかしその記号を省いたのも少数ある)。
(3)どうしても補足や解説事項がでてくる。それらは〔〕の記号で、その中に記述した。
(4)もちろん、ミスと思えるものは訂正したが、そのことはいちいちことわらない。
原著に「用例」は掲載してあるが、その英訳文はない。辞書の機能としてやはり必要と思えるので和訳を付けることにした。これに莫大な労力を要している。その際、英訳書、和訳されている「柳瀬訳」と「長島訳」を参照した。
参照する中で両訳書の誤訳を多数見いだしている。そのことを少し触れておこう。柳瀬訳は英訳に忠実である。それで、彼の誤訳はやや意訳と思える英訳を、さらに和訳して、原意と離れてしまった、といえる。長島訳は、勘違い(意味の取り違え)が多い、そして、何よりも彼独自の「意訳」の精神が強すぎて、私には「そこまで意訳したら、誤訳になってしまいますよ」と思える。
よろしかったら、掲載されている私の訳文を長島訳と比較してほしい。その違いに驚くかもしれない。そして翻訳に対する姿勢の決定的な違いがわかるだろう。私は直訳派である。
ローマの休日:12月8日 サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会
前日7日にローマに着いた。宿はテルミニ駅近く。8日は一日中フリー(自由見物)の日である。
昔から12月8日には因縁のようなものを感じていた。イタリア旅行の予約では、第一希望の日が希望多数でうまっていて、第二希望のこの日程となった。結果的に「大正解」だった。
12月8日といえば、日本では真珠湾攻撃による「太平洋戦争の始まった日」。イタリアは休日である。マリアの「受胎告知日」であり(こうしたことは現地に入るまで知らなかった!)、それで休日、さすがカトリックの国であった。
朝の天気はあいにくの小雨(そのうち止んだ)。傘をさし、てくてく歩き始める。ローマはいたるところに見所があり、それらがちょうどうまい距離にあり(10分ほど歩けば次の観光スポット)、歩くのに絶好、歩いていて全然飽きないし、一番よくわかるのが歩いてみること。
まずは(最初だけ方向に迷ったが)近くのサンタ・マリア・マジョーレ教会。壮大。(当然ながら)礼拝していた。この礼拝にぶつかったのが最大の収穫。他の日程では不可能、建物を見るだけになってしまう。途中から加わり、聖体をいただく。
次が本日のメイン「サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会」。ジョヴァンニとはヨハネのこと(洗礼者ヨハネと、弟子のヨハネを祭っている)。カトリックの大本山サンピエトロ大聖堂(前日訪れた)ができる前まではずっとここが大本山の由緒ある教会。サンタ・マリア・・・とともにローマ四大聖堂の一つ。
礼拝の終わりごろ中に入ったので加わらず、壮麗な建物内を眺めているうち(観光客も少なく、日本人は皆無だった。そのことがうれしい、自分たちのことは棚に上げて)、次の礼拝の準備が始まった。絶好の機会、すぐさま参列した(そのときの式文は今もある)。式はもちろんイタリア語だが式文があるので聖書のどの個所を朗読しているのかなど、よくわかった(式そのものも大体見当がついていた)。
そのうち聖歌隊の合唱が始まった。高校1年の時、音楽の時間に、近代音楽の始まる以前の音楽としてグレゴリオ聖歌を習い、歌った。「キリエゾン・・・」というものである(その他数曲、レコードも聴かされた)。よく覚えている。以来40数年たって、なんと本場で、大聖堂の中で響き渡るこの曲を聴くこととなった! この日のために習ったのか! 遠い昔に習っていなかったなら、単なる聖歌でしかない。人生の奥深さを感じる。そのうち男声テノールの独唱が始まった。なんと甘美な声なのか! 感涙。これまでのどんな音楽会よりも感激した(しかも無料である)。
ここでもやはり聖体をいただいた。式そのものでは参列者同士が握手したりした。カトリックの礼拝を最初から最後まで初めて経験した、それも本場の由緒ある教会で。これで私も立派なカトリック信者なのか?
たまたま偶然にこの休日にローマを訪れることになった。出発前は教会の建物を見るだけしか思っていなかった。現地についてから、教会に着いてから、礼拝に参加することになった。
スヴェーデンボリの著書に「偶然はない」という。こうしたことは私にとって必然だったのか?
満たされた気持ちで教会の前の広場に出たら、入るときは気がつかなかった次の目的地「コロッセオ」がまっすぐな通り(名前はサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ通り)の先に見えた。