原典講読『聖書』 87(続き)

 

(3) 訳文


87.  他のものも、「楽しさ」が言われているところにはまた「喜び」が言われているように、同じである。例えば、これらの中に―


 


 「見よ、楽しみと喜び。牛を殺すこと」(イザヤ22:13)


 「楽しさと喜びが追いつき……悲しみと嘆きは逃げ去る」(イザヤ35:10、第5111)


 「私たちの神の宮から喜びと楽しみは絶たれた」(ヨエル1:16)


 「終わらされる……楽しさの声と喜びの声」(エレミヤ7:34、第25:10)


 「第十の月の断食はユダの家で楽しさと喜びとなる」(ザカリヤ13:19)


 「私たちのすべての日々で私たちが楽しむように、私たちを喜ばせてきださい」(詩篇90:14,15)


 「エルサレムの中で喜べ……その中で楽しめ」(イザヤ66:10)


 「楽しみ、喜べ、エドムの娘よ」(哀歌4:21)


 「天は喜び、地は楽しむ」(詩篇96:11)


 「私に楽しみと喜びを聞かせてください」(詩篇51:8)


  シオンに「楽しみと喜びが見られ、告白と歌声がある」(イザヤ51:3)


 「喜びとなり、多くの者がその方の誕生を楽しむ」(ルカ1:14)


「わたしは……楽しみの声と喜びの声を、花嫁の声と花婿の声を終わりにする」(エレミヤ7:3416:925:10)


 「今後、この場所で聞かれる……楽しみの声と喜びの声、また花嫁の声と花婿の声」(エレミヤ33:10) (また他の個所に)


 


[2] 楽しさと同じく喜びの両方が言われていることは、楽しさは善のものであり、喜びは真理のもの、あるいは、楽しさは愛のものであり、喜びは知恵のものであるからである。というのは、楽しさは心のものであり、喜びは霊魂のもの、あるいは、楽しさは意志のものであり、喜びは知恵のものであるからである。これら表現に主と教会の結婚もまた含まれることは、次に言われていることから明らかである、


 


 「楽しみの声と喜びの声、花婿と声と花嫁の声」(エレミヤ7:3416:925:1033;10, 11)


 


 また、主は花婿であられ、また教会は花嫁である。主が花婿であられることは、マタイ9:15、マルコ2:19, 20、ルカ5:34, 35に、また、教会が花嫁であることは、黙示録21:2, 917:17に見られる。それゆえ、バプテスマのヨハネはイエスについて言った、


 


 「花嫁を持つ者は花婿です」(ヨハネ3:29)

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