@6 consiliis pro “consilii” (vide A.C., n. 7051, 9320). 注6 「consillii」の代わりにconsillis(『秘義』7051, 9320番を見よ)。
@7 Nonne pro “Omne” (vide A.C., n. 7051, 9320). 注7 「Omne」の代わりにNonne(『秘義』7051, 9320番を見よ)。
(3) 訳文
51. [6] 主は言われた、
「あなたがたは先生と呼ばれてはならない、あなたがたの先生はひとり、キリストであるから……。
あなたがたは地上で、あなたがたの父を呼んでもならない、なぜなら、あなたがたの父は天にひとりおられるから……。あなたがたは教師と呼ばれもならない、あなたがたの教師はひとり、キリストであるから」(マタイ23:8-10)。
教えがないなら、だれかを先生、父、教師と呼ぶことは許されないことになってしまう。しかし、教えからは、自然的な意味では許され、しかし、霊的な意味では許されないことが知られる。
[7] イエスは弟子たちに言われた、
「人の子が自分の栄光の王座の上に座る時、あなたがたもまた十二の王座の上に座って、イスラエルの十二部族をさばく」(マタイ19:28)。
これらのことばから、主の弟子たちもまたさばくであろう、と結論することができるが、そのときそれでも、だれもさばくことはできない。そこで、教えにより、全知であられ、すべての心を知られる主おひとりが、さばくことになり、またさばくことがおできになるというアルカナを、そのことによって啓示されなければならない。また、その方の「十二弟子」によって、すべての真理と善に関する教会が意味され、それらの真理と善は教会に主からみことばを通してある。そのことから、教えにより、「ヨハネ」のもとの主のことばにしたがって(第3章17, 18、第12章47, 48)、それがそれぞれの者をさばくことが結論される。
[8] 教えなしに、みことばを読む者は、ユダヤ国民についてとエルサレムについて預言書に、その国民のもとの教会は、またその都の中のその場所は、永遠に続く、と言われていることが、どのように首尾一貫するのか知らない。例えば、次のものの中に―
「エホバはご自分の群れを、ユダの家を訪れ、またそれを戦いの中の栄光のようにされる。それから隅石が、それから釘が、またそれから戦いの弓が出る」(ゼカリヤ10:3, 4, 6, 7)。
「見よ、わたしは、あなたの真ん中に住むために来る。エホバはユダを相続とする……エルサレムを再び選ぶ」(ザカリヤ2:10, 12)。
「その日に、山々は新しいぶどう酒をしたたらせる、また丘々は乳を流す。……またエホバは永遠に、またエルサレムは代々に存在する」(ヨエル3:18-20)。
「見よ、その日が来て、……その日に、わたしはイスラエルの家とユダの家に人間の種を蒔く。……その日に、わたしはイスラエルの家とユダの家に新しい契約を結ぶ。……またこの契約は……わたしはわたしの律法を彼らの真ん中に与え、彼らの心の上にそれを書く。わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる」(エレミヤ31:27, 31, 33)。
「その日に、すべての言語の国民から十人の男が、ユダヤ人の男のすそをつかまえ、私たちは神があなたがたとともにおられると聞いたので私たちはあなたがたと行く、と言う」(ゼカリヤ8:23)。
他の個所も同様である(例えばイザヤ44:24, 26、第49章22, 23、第65章9、第66章20, 22。エレミヤ3:18、第23章5、第50章19,20。ナホム1:15。マラキ3:4)。
それらの個所で、主の来臨について、またその時にこのことが生じることが扱われている。
[9] しかしながら、反対のことが多くの他の個所で言われており、それらから次のものだけを提示する、
「わたしは、わたしの顔を彼らから隠す。わたしは、彼らのその後がどうなるか見る、彼らはゆがんだ世代であり、忠実さのない子孫であるから。……わたしは言った、わたしは最外部の隅に彼らを投げ出し、人間から彼らの記憶を終わりにする。……なぜなら、彼らは思慮に失った国民であり、彼らに知性がないから。……彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラアの畑からである。そのぶどうは胆汁のぶどう。ぶどうの房は彼らに苦い。彼らのぶどう酒は竜の毒、残酷なコブラの胆汁。それはわたしのもとに隠され、わたしの宝庫に封印されていないか? わたしには復讐と報いがある」(申命記32:20-35)。
これらはその国民について言われている。他の個所も同様である(例えばイザヤ3:1, 2, 8、第5章3, 6。申命記9:5, 6。マタイ12:39、第23章27, 28。ヨハネ8:44。またエレミヤ書とエゼキエル書のどこでも)。
しかし、対立するものに見えるこれらは、教えから調和が明らかとなる。それは、みことばの中の「イスラエル」と「ユダヤ」によって、イスラエルとユダヤが意味されないで、両方の意味での教会が意味されることを教えている。一つの意味は、教会が荒廃されたこと、もう一つの意味は、主により教会が設立されることである。
みことばの中には他にもこれらと同様のものがあり、それらから、みことばは教えなしに理解されないことが極めて明らかである。