(3) 訳文
17. 主は世におられたとき、対応によって、したがって自然的にとともに霊的に話されたことは、個々のことばの中に霊的な意味が内在するその方のたとえから明らかにすることができる。その例として十人の娘のたとえで、そこに言われている、
「天の王国は、自分のともしびを取って、花婿を出迎えに出た十人の娘に似ている。彼女たちの五人は賢かった、けれども五人は愚かだった。愚かだった者らは、自分のともしびを取って、油を受けなかった、けれども賢い者たちは自分のともしびの中に油を受けた。けれども花婿が遅れて、すべての者がうとうととし、眠り込んだ。しかし、夜中に、叫び声が起った。見よ、花婿が来る、彼を出迎えに行け。その時、そのすべての娘たちが目を覚まし、自分のともしびを整えた。けれども、愚かな者らは賢明な者たちに言った。「私たちにあなたがたの油をくささい、私たちのともしびは消えてしまう」。けれども、賢明な者たちは答て、言った。「ことによると私たちにまたあなたがたに十分でないかもしれない。むしろ、売る者のところに出かけ、あなた自身で買いなさい」。しかし、彼女らが買いに出かけているとき、花婿が来て、用意のできた者たちはその方とともに婚礼へ入り、入口は閉ざされた。またついに、残りの娘たちがやって来て、言った、「主よ、主よ、私たち〔のため〕に開けてください」。けれども彼は答えて、言った。「まことに私はあたながたに言う。わたしはあなたがたを知らない」(マタイ25:1-12)。
[2] 霊的な意味があり、それがどんなものかを知る者でないなら、これらの個々のものの中に霊的な意味があり、またここから神的な聖なるものがあることを見ない。霊的な意味で、「神の王国」によって天界と教会が、「花婿」によって主が、「婚礼」によって愛と信仰の善によって天界と教会との主の結合が意味される。「娘たち」によって教会の者が、「十人」によってそのすべての者が、「五人」によってそのある者が、「ともしび」によって信仰の真理が、「油」によって愛の善が、「眠ること」と「目覚めること」によって世の中の人間の自然的な生活と死後の霊的な生活が意味され、「買うこと」によって自分自身に得ることが、「売る者に行くことと油を買うこと」によって、死後、他の者から自分自身に愛の善を得ることが意味される。また、その時、もはや得られないので、それゆえ、たとえ油を買って、ともしびともに、婚礼のある入口へ来たとはいえ、それでも彼女らに花婿から、「私はあなたがたを知らない」と言われたのである。その理由は、人間は世の中の生活の後、世の中で生きたようにとどまることである。
[3] これらから、主は対応そのものによって話されたこと、また神的なものがその方の中にあり、その方のものであったので、神的なものから話されたことが明らかである。「花婿」は主を、「天の王国」は教会を意味し、また「婚礼」は愛と信仰の善による教会との主の結合を意味し、「娘」は教会の者を、「十人」はそのすべての者を、「五人」はそのある者を、「眠ること」は自然的な状態を、「買うこと」は自分自身に得ることを、「入口」は天界へ入ることを、そして「知らないこと」は、主から言われるとき、その方の愛の中にいないことを同様のことを意味する預言者のみことばの中の多くの個所から明らかにすることができる。「娘(処女)」が教会の者たち彼らを意味するので、それゆえ、こんなにもしばしば預言者のみことばの中に、シオンの、エルサレムの、イスラエルの娘と処女とが言われている。また「油」は愛の善を意味したので、それゆえ、イスラエル教会のすべての聖なるものは油を注がれた。主が話され、また「福音書」に書かれた、他のたとえの中で、またすべてのことばの中でも同様である。ここから、主はそのことを言われている、
わたしのことばは霊であり、またいのちです(ヨハネ6:63)。
[4] 主のすべての奇跡も同様である。それらは、主により設立されるべきものであった教会の者たちのもとのいろいろな状態を意味したので、神的である。例えば、「目しいが視力を受ける」ことは、真理の無知の中にいた者が知性を得ることを意味した。「耳しいが聴力を受ける」ことは、主とみことばについて以前に何も聞かなかった者が聞き、従うことを意味した。「死んだ者が生き返った」ことは、そうでなければ霊的に滅ぶ者が生きるようになったことを意味する。その他。このことが、主が「やって来るべき者」であるかどうかたずねられて、ヨハネの弟子たちに答えたことよって意味される―
「あなたがたが聞き、見ていることをヨハネに報告しなさい。目しいが見、足なえが歩き、らい病人が清められ、耳しいが聞き、死者が生き返り、貧しい者が福音を聞く」(マタイ11:3-5)。
さらに、みことばの中に記されたすべての奇跡が、それ自体の中に主の、天界のものまた教会のものであるようなものを含むのである。そのことによって、それらは神的な奇跡であり、また神的でない奇跡から区別される。これらは、霊的な意味とは何か、また、それがみことばのすべてと個々のものの中にあることのわずかな実例である。