前日の4月4日の礼拝後、松本さん指導のもと、勉強会があった(ジェネラルチャーチ東京グループのサイト参照)。学んだのは「マタイ」25:35「あなたがたはわたしが空腹であったとき…」である。ここには仁愛の働きが六つ述べられている。
さて、そこの「裸のとき、着物を与える」の部分。ここですぐに思い出すのは「創世記」第9章、ノアがぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていたことである。
そのときカナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って…父の裸を見なかった。
酔いからさめたノアは(ハムでなく、その子の)カナンを呪い、セム(とヤペテ)の神をほめたたえた。
これを今の自分への教訓と読む。すなわち、「裸」とは「恥」であり、私にとっては「誤訳」である。他人の誤訳を見つけて、それを公言する。これは社会的に正しい(松本さんの弁)。私もそう思っていた。すなわち例えとして極端ではあるが「車に欠陥があるのを見つけたら、そして黙っていたら、犯罪に加担することになる」という意味で正義である。
しかし、仁愛の働きとしてはどうなのか。確かに、批判しながら気分がよくない、良心のとがめのようなものを感じてはいた。また、「こんな翻訳、許せない」という怒りがこみ上げ、そこに自分ながら「地獄の流入かな」と思うこともあった。
私のしていることは正義かもしれないが、「裸のときに、着物を与えないで」「裸を告げている」。仁愛の働きに反する。
今はハムかもしれないが、そのうち呪われたカナンとなってしまうかもしれない。
ここは悔い改めて、もう批評はしないでおこう。後は、読者の方々が興味あれば訳書の比較をすればよい。私自身が裸なのだから(すなわち、恥知らず)。
イエスさまは互いに愛せよとおっしゃってます
イエスさまのことを常に考えるなら我々は僅かな意地もはらずに仲良く仲良くしたいですね
YasuBeeさんのコメントを支持します