感想:原典講読『天界と地獄』から その3

 

95(no.185) ibi atem in sua arte esseについて


 ut dicas(あなたが言うように)とあるのであまり有名でない「ことわざ」だったのであろうか? 動詞が省略された文なので、どのようにでも解釈できそうである。「そこに術を(対格)」となっているから、略された動詞として「見いだす」が考えられる。すなわち、文を後ろから捕えて「術の存在する中に、そこに術を見いだす」、意を汲んで、ちょっとことわざらしく変えれば「(芸)術のあるところ、そこに(芸)術あり」といったところであろうか。


 このようなことをじっくり考えていると翻訳のペースは落ちる、しかしこれこそ「遅読」の味わい。


 


913 長島訳の本章(23)の題名(見出し)について


 長島訳の本章の表題を見て、びっくりし、あらためて愕然とした。


 私の直訳は「天界の形について、それにしたがってそこに交わりと伝達〔がある〕」、


  長島訳は「第23章 天界の〈かたち〉―その交流と社会形成の規範」である。


 全然違う、どうしてこのような訳となるのであろうか? その章の中の各記事を見れば、私が「伝達」と訳しているcommunicatioを長島氏は「交流」と訳していることがわかる。communicatioは英語のcommunicationであり、「伝達手段、伝達、連絡」の意味である。交際の意味合いをもつ「交流」とは違う、『霊魂と肉体の交流』の著作で名高い「交流」はcommerciumであり、これには「交際、相互作用」という意味がある。


 さて、問題なのは「社会形成の規範」の部分である。表題を原文とまったく異なって訳すなら、その章の内容を長島氏が解釈し、それを要約したものとみるのが普通であろう。しかし、この章の内容はどうか。「天界の形にしたがって、霊的なものであるそれぞれの天使の知性と知恵が、またより一般的には真理と愛が伝達すること」が述べられている。この内容のどこを捉えると「社会形成の規範」となるのか? この題名では誤訳どころではなく、自分の「思い込み」を述べており、とうてい「翻訳」とは言えない。翻訳とは、なにはともあれ著者の言わんとするところを忠実に伝えることであろう。


 


918(no.216) 思い出:柳瀬訳の「ホゼア」について


 静思社に初めて行き(891)、柳瀬師より授洗し(3)、礼拝以外でも足しげく通ううち、校正のお手伝いをするようになった(6月中旬から)。当時翻訳中だった『黙示録講解』第9巻であるその後、第10巻も、さらにその他の品切れになったいくつかの訳書を改版ついでに校正した。


 これは今から19年前のことであり、その際、「校正の仕方」また現代仮名遣いなど「表記の仕方」を独学しながら、校正し、そのことが今でも役立っている。ありがたい機会であった。


 静思社の訳書を読まれた方なら、お気づきと思うが、預言者ホセアが全面的に「ホゼア」となっている。これはミスプリではない。私もホゼアをホセアと直し、その訂正原稿とともに、柳瀬師に「ホゼアはホセアではありませんか?」と質問したことがある。師は「ホゼアというのもあるんだよ」と答えられた。当時は雲の上の存在とも思えた師に、あえて「その根拠は?」とは恐れ多くて質問できなかった。それで、静思社の出版物は「ホゼア」のままである。


 しかし、以来、他の書物で「ホゼア」なる表記に出会っていない。師が何を根拠にこのよう言われたのか、疑問のままである。薄弱ながらもその根拠を推測するに、ドイツ語読みすればHoseaはホゼア、しかしこんなのは無意味。ヘブル語ではホーシェーアである。


 私はここに師の意固地な一面を見る思いがした。


 


921(no.219) 「主の王国は役立ちの王国である」


 これはスヴェーデンボリの思想の根幹の一つであり、天界がどのようなものか理解する鍵でもある。私たちが満足や幸福を感じるのは、何か人のために役立った、と思えるときである。このことはときどきしか感じない。そしてこれが天界の、そしてよく見ればこの世の「原動力」である。


 この世に存在するものには「何かしらの役立ちがある」(逆に言えば、役立たないものは存在できず、消える)。そして、もちろん私たち一人ひとりにそれぞれの役立ちがある。これが生きる原動力。「役立たない」との思いに囚われる時、生きる力を失う。


 「ただ生きているだけだ、何の楽しみも、希望もない」と思うかもしれない、でも、生きて、存在するかぎり、神の節理のもと、何らかの役立ちを果たしている。その摂理が見えないだけ、今はわからないだけである。このことは「いのちを大切にしよう」につながっている。


 


924(no.227) 「主の神的人間性を認めること」


 天地の神、主がどのよう方であるか理解すること、これが天界での教えの本質である、と言われいるる。この地上でもそうだ。結局のところ、「神をどのような方と思うのか」、これのことにすべてが尽くされる、といっても過言でないかもしれない。


 主はご自分の「神性」に「人間性」をまとわれた。その人間性をまとうために、このように来られ、地獄と戦い、十字架刑にあわれた・・・スヴェーデンボリの教えの繰り返しであり、長くなるのでやめよう。


 人間性とは「真の人間であること」である。卑近な例で言えば、悪行に対し、「そんなの、人間のやることじゃない」とか、卑劣な者に向かって「おまえなんか、人間じゃない」と叫ぶときの「人間」である。愛に満ち、わけ隔てなく、心底、人を思いやる人間である。


 


925(no.228) 第26章「天界の天使たちの力について」


 やはり違和感「長島訳」:この章の題名が長島訳で「天界における天使たちの力」となっている。「おける」のことばが付加されているが、原文のどこにもない。「天界における」では、「天界の中で」天使たちが力を発揮することになるが、229番からわかるように「霊界で」力を発揮する。特に悪や虚偽に対してである。天界に悪や虚偽はないので、その力を発揮することもなく、ごく普通に、穏やかに生活していると思う。231番には、力の象徴として「腕」が天界に現われることはある。


 ここからこの見出し「おける」は、余計な付加どころでなく、章の内容と異なる「誤訳」である。


 


930(no.236) この個所は興味深い


 ここには興味深いことが述べられている。


(1) 天界の言語は一つであって学ぶ必要がないこと。「創世記」第11章の「全地は一つのことば(原語は「くちびる」)、一つの話しことばであった」世界である。しかし、互いにことばが通じなくなった(11:7)。この世が多言語に分かれていることにどのような摂理があるのだろうか?


(2) 話し方に2つの要素「音と言葉」があり、そこに情愛と思考が現われていること。この世でも(外国語など)言葉がわからなくても、声色から相手の「感情」は、喜怒哀楽はわかる(もちろん顔つきも見ます)。感のよい人は話し方から相手の心を読み取る。


(3) さまざまな情愛があり、状況に応じてその情愛は入れ替わるが、それらの中に「支配愛」があること。「支配愛」はうまい訳語とは言えないかもしれない。「主調愛」と訳した人がいる。音楽で言えば、曲想はいろいろ変わっても基調となる「ハ長調」「イ短調」などの「調」である。人によって「ハ長調」や「イ短調」などの人がいるのである。


 いろいろな愛がある中で、その人が一番大事だと思う、そのためなら何でもする、いのちすらかける、それがその人の支配愛であって、すべての情愛の上方にこの愛が「支配するかのように」君臨しているのである。この「支配愛」の概念はスヴェーデンボリ思想の特徴の一つである。


 


101(no.237) ヘブル語は印象的


 ヘブル語が天界の天使たちの言語に似ていることは、ここの個所から知っていた。また、スヴェーデンボリが『天界の秘義』の著述を始める前にヘブル語を学んだことも知っていた。私は柳瀬訳『天界の秘義』を読み始めた849月から、ほぼ並行してヘブル語を学び始めた。


 『天界の秘義』二度目の通読の際は(871月~889)「ヘブル語聖書」とともに読み進めた。


 最初は海のものとも山のものとも見分けのつかなかったヘブル語も、よい参考書に恵まれて、読めるようになった。「急がば回れ」を実際に味わった。すなわち、ヘブル語の学習は非常な「回り道」に思える。しかし、内意に迫りたい私にとって避けることのできない道だった。そして、結局これが「近道」だった。ヘブル語を学んだ利点は何と言っても聖書(旧約聖書の部分)が原典で読めることである。原典で読めるほどありがたいものはない(この『天界と地獄』でも原典で読めばこその発見がある)


 それ以外にもよいことはいっぱいある。まるで異なる体系の言語を学んで、「言語とは何か」について思索が深まった。日本語以外には英語しか知らなかったが(他の言語もかじってはいた)同じく学び始めたギリシア語などと比較して「言語の特長」なども理解できるようになった。


 長くなるのでこの辺でやめたい、ヘブル語の印象を二つ紹介しておこう。


(1)まさにこれが聖書の書かれた言語だ! との印象である。そしてこの個所の「ヘブル語に一致するものがあること」を単に「へぇ~、そんなものなのかな」でなく、「そうだ、そのとおりだ」と心からから思えることである。(旧約)聖書の一つ一つの文は短い、複雑な構文はない。しかし、その短い文を、淡々と並べ立て、積み重ねた文章から、圧倒的な迫力を感じる。


(2) 意外と日本語と似ている! 一つ述べればともに「時制」がないことである。英語を学び始めたとき、日本語に時制の概念がないので、その学習に戸惑った人が多いのではなかろうか。


 そしてその学習を通して日本語にも「時制」があると勘違いしてしまっている人もいるのでなかろうか。日本語「あった」とは「完了」である。何かを見つけたとき「あった、あった」と言う。本来なら「ある、ある」と言ってもおかしくない。でも、見つけるという行動が「完了」したので「あった」となる。未来時制もない。「~だろう」は「推量」である。未来のことは不明なので、「推量」する、それで未来時制を訳す時に推量をあてはめている。ヘブル語にも時制はなく、あるのは「完了形」と「未完了形」だけである。時制は文脈からわかる、これは日本語と共通である。


 


108(no.248) 霊による話しかけは舌にまで伝わること


 ここには興味深いことが書かれている。また、スヴェーデンボリ以外のだれかが語っているとも思えない。霊視とともに、「霊に語りけられた」ことはよく聞く話しである。霊から話しかけられることは(その姿が見えないことと)、他人には聞こえない〔ここに書かれている〕ことなどから、それとわかるのであろうが(私には経験がない)、それが空耳でなく内側からのものである証拠として、「舌」をかすかに振動させることである。


 


109(no.249) 霊と話すことは危険であること


 霊能者とは何か、考えたことがあるだろうか? テレビに登場する俗な霊能者である。私は霊視を否定しないし、霊(多くは亡くなった肉親)からの話を取り次ぐ能力を持った人もいるだろうと思う。


 しかし、その霊が肉親の霊であるとどうしてわかるのであろうか? 偽り装う霊はいくらでもいる。肉親を装って、その人間を支配できるなら、その霊にとってこんな好都合な話はないだろう、ひそかに滅びの道へ誘導されるかもしれない。このような番組を制作しているテレビ関係者は、こうした危険についてわかっていないのだろう、だから放送している。


 


1021」 訳語「派遣霊」について


 原語subjectusは「霊界のある共同体からの使者または代表者の霊に与えられた名前」である。スヴェーデンボリ独自の概念と思えるので、訳語も新しいものとしたい。長島氏は「代霊」、柳瀬氏は「被派遣者」(他の箇所では「被術者」ともしている、これは英語のsubjuctをそのまま訳した)としている。


 私は「使者霊」も考えたが、使者にはemissariusがあるので、使者でなく「派遣」とした。うまい訳語が思い浮かんだなら教えてもらいたい。


 


1013(no.257) 霊が普通の人にとりつくことはない、ということか?


 ここに「今日(こんにち)では霊が人間にとりつく(憑依)はない」と書かれているが、それでも、憑依現象は聞くところである(私は多重人格などとされる「宮崎勤」は霊が憑依していたとみる)


 それで、これは一般論であって、特定の条件(霊を呼び寄せる儀式など)のもとで、今日でも起こることと思っている。それでも、普通に生活する人は厳然と主により守られているのであろう。 

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