「7月15日」(no.71) 「天界は・・・充満することで閉ざされると信じる者はどれほど欺かれているか」
「天界は満員になったら締め切られる?」というこの内容から思い出すのが「エホバの証人」である。スヴェーデンボリに出会ったあと、しばらくしてからエホバの証人の家庭訪問教育を2年ほど受けたことがある。聖書の勉強会のためにわざわざ個人の家に(無償で)出向いてくれる。布教、また聖書の勉強には熱心であった。彼らは「救われる」とは「この宗教を広めること」と思っている。スヴェーデンボリの教えがすばらしいとわかっていたので(そのときまだ日本に新教会があることを知らなかった)信者になることはなかったが、集会にも出たりし、いろいろ勉強になり、ある意味で感謝している。
彼らは聖書を字義通りに信じている。最後の審判のあと、「この世に」新しい世界が設立される。そのとき死んだ人たちの中からその世界を構成する人たちが呼び集められる。その人たちの数は14万4千人。根拠は「黙示録」7:14。
その仲間入りするために布教活動して努力している。しかし、エホバの証人の信者の数だけでもこの数をはるかにオーバーする。それで、「それじゃ少ないでしょう、加われない人が出てくるでしょう?」と問うと、「残りの者は「奴隷級」(というもの)に属する、その仲間に加わりたい」と答えた。「奴隷級」なんて聖書のどこに書いてあるのだろうか?
私がこの「聖書のどこに?」、また「聖書の原文にそんなことが書いてるあるのですか?」と問うたがこときっかけとなって、私が初めてヘブル語聖書を見せてもらったのはエホバの証人からであった(ヘブル語聖書が出版されていて存在する、と知ったことは大きかった)。
「7月21日」考察:divinunの語について
ここで通常「神的なもの」と訳されるdivunumの語をdivinum、divinitasとともに考えてみた。
最初にdivinusは、形容詞であり、「神の、神的な、神に特有の」といった意味である。通常「神的な」とすればよい。次にdivinusは、形からは、形容詞divinusの中性形である。形容詞が実詞の働きをするところが、私はラテン語の最大の特徴の一つと思っている。すなわち、形容詞の中性形は「抽象名詞」を表わすことである。中性名詞divinumの訳語は、通常「神的なもの」である。あくまでも「もの」であるが、「神的なもの」では長たらしく感じることがあり、この個所のように、より抽象的なものの言い方で「神性」と訳すことがある。
「神的なもの」と「神性」とは厳密には意味が違ってくるが、大きく捉えてよいなら、使いわけにこだわることはないと思う。これについては、このあとverusでもう一度触れる。私が「神性」の訳語を当てはめているもう一つの言葉がある。
女性名詞divinitasである。これは厳密には「神的存在の性質」である。divinumが「もの」であるのに対してこちらはより抽象性か高くて「性質」である。それで純粋に「神性」を意味する言葉はこのdivinitasである。
まとめれば、divinis「神の、神的な」→divinius「神的なもの」→divinitas「神性」。
それでも「神的な」「神的なもの」と「神性」との境界を厳密に定めるのはむずかしいだろう。
有名なDivinus Humanusは、直訳すれば「神的なもの、人間的なもの」であるが「神的人間性」と訳しているし、このときDivinusだけを取り出すなら「神性」となる。
厳密にやりたいのだが、場面に応じて「神的なもの」と「神性」にしている。
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同様のことがverus、verum、varitasで言える。やはりそれぞれ形容詞、中性名詞、女性名詞である。すなわち、verus「真の、真実の」→verum「真実であるもの、真理」→veritas「真理」。
抽象名詞どうしであるverumとveritasの違いについて、その境界を厳密に定めるのはむずかしいだろう。かつてスヴェーデンボリがverumとveritasをどれくらい意識的に使い分けているか調べたことがあった。veritasを「真理そのもの」「まさに真理」のようない意味で使っており、特に主からの真理にveritasを当てはめていることがわかった。それでこのブログの『信仰について』では、verumを真理、veritasをカギカッコをつけて「真理」と区別した。
しかし、「神性」の言葉についてそこまでする必要ないと思っている。スヴェーデンボリもこの語については厳密に使い分けているように見えないからである。
「7月29日」(no.106) theatrum(劇場)について
この「universa natura sit theatrum repraesentativum regni Domini 全自然は主の王国を表象する劇場である」は『天界の秘義』4939番の文である。同書10196番にもまったく同じ文がある(そこではsitがest)。これはスヴェーデンボリの持論ともいえる文句のようである。私は「ラテン語を学ぼう―ついでに」で取り上げたことがある。
「劇場」と訳したtheatrumは、「舞台」の意味、また何かが演じられている「場面」の意味ある。建物ではなくてこの意味が強い。この世は主の劇が演じられる「舞台」「場面」なのである。それでも、その劇を演じる入れ物と見なせば「劇場」とも言える。
この世とは何だろう? そのとき「劇」と思うのもよいかもしれない。脚本家は主なのか? 役者はそれぞれの皆さん、そしていろいろな「役」を与えられて、人生を演じている。「真の舞台」はこの世なのか、来世なのか、「どちらもあり」という気がしてくる。対応しているのだから。
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話題をやや変える。植物学者牧野富太郎は、「私に日蓮ほどの文才があれば、植物学から宗教を起こすことができただろう」という趣旨のことを語ったと言う。人間の登場しない植物界という「舞台背景」ではあるが、自然を深く観察し、そこに神秘を見いだす時、神の国が投影されていることを感じたのであろう。牧野博士はどのような世界を垣間見たのであろうか(その後、私は同博士の墓のある谷中(やなか)霊園を訪れた)。
「8月1日」(no.112) qualis homo talis vita「このような人間に、そのような生活」
この「qulis~talis・・・」の構文に出会ったとき、いかにもラテン語らしいと感じたので、ここに取り上げてみよう。ここのqulis usus tale bonumは『秘義』3049番の言葉である。柳瀬氏はこれを「用があるがままに、善もあるからである」とややラテン語らしく訳している、ここの訳「用のいかんに、善が応じている」よりもよいかもしれない。私には「善が応じている」では日本語とは思えない。なお文法上ではbonumが中性なので、talisも中性形のtaleとなっている。私の訳「そのような役立ち、このような善」はもちろん直訳である。みなさまはどのように意訳されるであろうか?
羅和辞典にはqualis dominus, talis servusの例が載っており「この主人にして、このしもべあり」と訳してあり。この訳にならえば「この役立ちにして、この善あり」。同じく田中の『引用語辞典』にはいろいろ載っている。qualis pater, talis filiusは「この父にして、この子あり」。
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スヴェーデンボリの用例を取り上げてみよう。これは名文句のような気がする。『秘義』1oo5番にある、この見出しの言葉である。柳瀬氏はあいかわらず「人間の如何にその生命が応じている」と訳しているが、これでは名文句の気がしない。田中にならって訳せば「この人間にして、この人生あり」となるのであろうか。やや名文句の気がしてくる。
直訳派の私は「このような人間に、そのような生活〔がある〕」でよいとしている。「qがtを定める」原則からは、「人間」がその人自身の「生活」を定める。
意訳すれば「人には人の人生(生活)がある」となるのであろう。
「8月6日」(no.122) 「現在する」のことばについて
私が時々使う「現在する」のことばについて読者の皆様はどのように思われているであろうか。「現在」という文字ズラを眺めれば「現にいます」と書いてあり、「現在、その場に存在する」という意味が浮かび上がる。そして辞書でも認められている用い方である。
しかしあまりにも「今の時」を意味する「現在」が広まっていて(私はこの用法が後からできたのではないかと思っている)、このような用い方に初めて出会うと、異様に感じるかもしれない。でもpraesenntiaの訳語としてはぴったりの気がするので、慣れてほしい。
「8月16日」(no.142) ヘブル語の「東・西・南・北」
天界の言語に似ていると言われるヘブル語で方位を示す言葉は興味深い。簡単に紹介しよう。
東:「ミズラー」は「日が昇ること」と「東」の意味がある(ヨシュア記12章16章など)。「ケデム」は「前・前方」の意味であり、その変化形「ケデマー」は「東へ」の意味である(創世記12章8など)。なおギリシア語でも「日の昇ること、夜明け」を意味する「アナトレー」は「東」意味する(マタイ2章1,2,9節)。
南:南を意味するヘブル語はいくつかあるが、「ヤーミーン」は「右」の意味であり、「南」意味を持つ(サムエル記Ⅰ23章19,24節、新改訳聖書の脚注参照)。
西:「海」という意味の「ヤーム」があるが(地形的に西は地中海である)、太陽の沈む方を示す「マアラーブ」は「西」として使われる(イザヤ43:5など)。
北:語源不詳の「ツァーフォーン」が圧倒的に多く使われているが、「左」を意味する「セモール」が「北」の意味で使われることがある。「創世記」14:15「ダマスコの北にある」(新改訳)は『天界の秘義』では「ダマスコの左にある」となっている。
「8月20日」(no.149) 随想:着席場所
席が定められている場合は別として、どこにでも着席が自由な場合、人はどこに座るであろうか? もちろん目的によってほぼ決まる場合もある、例えば、ゆっくり食事をしようとするなら、客や従業員の通路から離れた、景色のよいところ、といえば窓際となるであろう。音楽会ならよく聞こえるところ、観劇ならよく見えるところなどである。
私は教員をしていた。教室での着席場所はたいてい自由であった。そのとき勉強熱心な子はほど必ず前の方、中央に座る。熱心でない子の多くは離れた「窓際」。「窓際族」は会社だけの用語ではない。
会議の席ではどうだろうか? 議長が中央に座り、「着席自由として」、その右側にどのような立場の人が座るか、また議長と正対する側にどのような人が座るか考えたことがあるだろうか? その組織の責任者・執行部の面々が右側に並ぶ、当面する問題を真正面から見据えようとする人、意見を持っている人が正面に来る。意見を持たない人は隅のほうで傍観しようとする。こうしたことは心の内部の状態を反映しているのであろう。普段と違う席に着くと居心地悪い。
「8月23日」(no.156) 「外にあるものは、内にあるにしたがって定まる」こと
このことは折に触れて感じることである。すなわち、自分の周りの世界は、自分を取り巻く環境は、自分の心の世界の反映、投影であること。少し前に「席」について述べたが、自分の気持ちにぴったりする席に座ると心が落ち着く、自然とその席を選んでいる。すなわち、自分の心を反映した環境を知らず知らずに選んでいる。自分の周りを見渡せば、そこには自分の心を反映した世界がある。これは「人」にも言える。「類は友を呼ぶ」という。自分の心に合った人物に出会う。成長を願っていれば、自分の成長に資する人物が現われる。逆に言えば、願っていなければ、出会っても見過ごしている。このことは興味深いので、またの機会に述べたい。
「8月24日」(no.158) 「状態の変化とその理由」
天界の天使たちのことでなく、自分のこととして考えてみよう。状態が、状況が変わる。定年退職して、このように原典を訳している。自分の状態が変わってきている。これは周囲の状況が変わったのではない、自分がその状況の中へ突き進んで行くのである。いろいろな環境の変化は、「環境」の変化ではなく、「自分」の変化である、と気づくのは重要であろう。もう少し積極的で、月並み言い方をすれば「自分が変われば、回りも変わる」。このようなことを説明する好例が、「太陽と地球の関係」であり、よくわかる。これと逆(回りが変われば自分も変わる)ではあるが「孟母三遷の教え」も思い出す。
「8月27日」(no.167) 「永遠に」と「永遠から」
「に」と「から」ではどのように違うのか? このような場合、訳語としての日本語だけから考えることは、私にとって非常に「不安」である。原語で「に」や「から」に、どのような語が使われているのか確かめ、貧弱な語学力であっても、そこから考えないと、「考えている気がしない」。
それぞれ「in」と「ab」である。abは「状態・起源・時間・位置・原因」などからの「~から」である。ここで「永遠から」とは「永遠の状態から」と思えばよい。「in」には多様な意味がある。
私は、結論的に「神が永遠に存在される」のも「神が永遠から存在される」のも、どちらも「時間」を考えなければ同じことであり、「存在される」状態にあることを示す(in)ことと、その起源・原因を示す(ab)ことの違いと理解している。