JSA大会講演資料(続き)

 4. レキシコンについて


(1) レキシコンは本格的研究に不可欠なもの


 定義は 辞書・辞典類のうち特に、ヘブル語・ギリシア語・ラテン語などの古典語のもの。


     特定の題目・分野・作家の語彙、語集。


 この後者であり、例として「シェークスピア・レキシコン」があり、そこではその作家の語彙が網羅され、また使用個所が載っている。ある言葉を、どのような文脈で、どのように用いているかがわかる。


 まさにそのスヴェーデンボリ版である。ここでブログに載せた記事を紹介する(少し修正)


 


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チャドウィックの『レキシコン』:必要十分な語彙 (ブログ掲載20091019)


 ・・・60歳で定年退職し、その後、定職を持たなかったのは「レキシコン」を完成したかったから。60過ぎたら人生の残り時間などわからない。「あれをやっておけばよかった」と後悔したくない、すると一番やりたいことを先にやるべきだろう、それも人のやっていないことのほうが望ましい。となれば私にとってそれは「レキシコン」であった。


 このすばらしい辞書に出会ったことが、本腰を入れて原典を読み始めた私の出発点であり、浅学も顧みず私が「原典翻訳」に踏み出すことができたのは、この辞書があったればこそである。


 チャドウィックの『レキシコン』がなかったら、私は決して翻訳をしなかった。泳いで大海を横断しようとするようなものであって途中で水没は必至、そこに「船」が与えられた。これで、スヴェーデンボリの原典である大海に挑むことができる、と思った。


 


 そのすばらしさの一つが「必要にしてかつ十分な語彙・語義」である。


 高校の数学では「必要条件」「十分条件」「必要十分条件」を教える。このようなこと学ぶのが数学であり、他の教科ではなかなか学べない。不幸なことに多くの生徒はこれをちゃんと理解しないまま卒業してしまう。厳密な定義は数学の時間ではないからしない。次のような理解でよい。


 翻訳には語学力が「必要」である。他の要件ももちろん必要であるが、たとえばその一つとして語学力である。このとき翻訳の「必要条件」が語学力である。


 また、何かの出費に50万円が見込まれるとする、そのとき60万円用意すれば「十分」であろう。すなわち、その支出に対し60万円は「十分条件」となっている。十分ならそれでよいかというと、そうもいえない。


 50万円の支出に対し40万円では足りない、あと10万円必要である。60万円あれば十分だが10万円は不要である。50万円ぴったりならば、それが「必要十分」となっている。


 さて、この予備知識をもとに『レキシコン』に話を戻そう。


 スヴェーデンボリの著作を読むための辞書で理想的なものはどんなものか? まずはスヴェーデンボリの使用した言葉が載っていなくちゃ話にならない。これが必要条件である。載っていればそれでよいかとなれば、ここにも重大問題がある。普通の辞書と異なる意味で使用しているかもしれないのである。


 私は最初、研究社の『羅和辞典』で読もうとした。そしたら、全然だめだった(必ずや同じ思いをした人がいると思う)。まずは載っていない言葉がある、そして載っていても「どうも(辞書の語釈とスヴェーデンボリの使用している)意味が違うな」と多々感じた。それで暗礁に乗り上げたままだった。


 そこで、「スヴェーデンボリがどのような意味で使ったか」まで含めた語義の載っている辞書が「必要」となってくる。


 さて次に、では何でも掲載してある「大辞典」なら用が足りる、となるであろうか、すなわち十分条件。私はこれを否定する。すなわち、スヴェーデンボリが使用しなかった言葉がいくら詳しく載っていても何の足しにもたたない。また、語義も、スヴェーデンボリの念頭になかったもの、使用しなかったものはじゃまなだけ。「著作」を読むとき、適切な言葉を見いだすのに時間・労力がかかり過ぎてしまう。


 ある言葉の語義は一つではなく、いろいろと派生した意味がある。それでもある個人がその全部の意味を用いることはまずない。それでスヴェーデンボリが使用した語義だけ載っていればよい。十分であることはこの場合、決してよいことではない。


 この二つの条件を満たしている辞書がチャドウィックの『レキシコン』である。スヴェーデンボリ(の神学著作)を読むためだけに特化した辞書であり、私はこの辞書を近ごろのスヴェーデンボリ研究の金字塔と思っている。この訳書が日本で出版されたとき、日本のスヴェーデンボリ研究の水準が一段階アップすると信じて疑わない。


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(2) レキシコンの翻訳(現在していること)


 この11月上旬に一応終了した。現在「校正」中である。ここで全体像がわかった。体裁はA4版で各頁58(見本参照)、辞書本体が641頁。見出し語12893、用例文24772、成句722(微増の予定)


 


 これまでを振り返ってみる。20008月から辞書作りに向けて「ワープロ」にポツポツと見出し語や語形変化を入力し始めた。本格的には「パソコン」を入手して、そこへこれまでワープロに入れていたものを入れ替えてからであり、それが2004年の11月。以来、見出し語、語形変化、用例を入力するのに1年間、用例を4年間かけて翻訳して、ここ200911月に至った。丸5年かかった。


 ある項目を完成させ、それをアウトプットしたものを用いながら、翻訳を続ける、そのことが校正にもなっている、というジグザグした作業であった。その未完成の私製辞書を使いながら、原典翻訳をしている、やはりこれも原文に即した校正となっている。辞書は「使用しながら」手直しするのが最善と思う。


 すなわち、これからは「使用しながら完成させる」のであるが、それではいつ終了になるのか? きちっと行なおうとすればエンドレス。適当なところでやめるしかない。今後、約1年間で見直したい。


 


(3) 辞書とは地図のようなもの


 どこかへ旅行に行く。案内書を読むだろう。道の土地を訪問するのに何をたよりにするのか? 地図である。地図がなければどこをどう歩いているのか見当がつかない。著作を読むのに辞書がなければ読めないのと同じ。


 地図は正確なほどよい。私は地図をつくっているような気がする。日本の地形はどんなものか、スヴェーデンボリの使用した言葉の全体像はどんなものか、一望する思いである。


 これから私の作成するであろう地図を使って、スヴェーデンボリの著作を旅してほしい。ありがたかったと思えるような地図にしたい。


 


(4) ジョン・チャドウィックとは


 John Chadwick(1920-1998)博士は、ケンブリッジ大学の名高い講師であり、早期のギリシア語である線文字Bの解読で有名である。大戦中は、ドイツ軍の暗号解読のためブレッチリーで働き、また『オックスフォード・ラテン語辞典』の編集者として数年間仕えた。スヴェーデンボリ協会の中心人物であり、翻訳『結婚愛』、『真のキリスト教』、『宇宙間の諸地球』『最後の審判』も行なっている。


  


(5) 雑談:辞書作りは「バカ」のやること


 「辞書作り」はバカにならないとできない、どこがバカか、まずは莫大な時間がかかって一銭にもならない(私の場合)。辞書はほとんどの場合「あって当然」とされ、感謝されない。皆さん、辞書を引きながら、辞書をつくった人に感謝していますか? してない、私もしていない。いわゆる「割が合わない」ので「バカ」。


 しかし、そのバカがいなくちゃ、辞書はできない。「私もそうとうなバカだな」と感慨深いものがある。


  


 5. スヴェーデンボリのラテン語について


(1)『ニューチャーチライフ』にスヴェーデンボリのラテン語についての記事が掲載されたことがある。「ネオリサーチ」というスヴェーデンボリの著作のラテン語の検索索引作りをしている人の記事だが、全部で67,175のラテン語が使われているという。そのうち22,355(およそ3 分の1 )はたった1 回しか使用されていない。そして抽象名詞のあるものは飛び抜けて使用頻度が高い――繰り返し使われる――善・真理・仁愛・信仰・愛・知恵・主・神、その他である。当然ながら、私たちも感じていたことである。


 


(2) スヴェーデンボリの文章はむすかしいか?


 賛否両論かもしれない。ただ、悪訳の結果、理解しがたく感じるなら、それは割り引かなくてならない。


 次の主張がある


 「スヴェーデンボリの文体は、親しみやすさとは正反対のものであり、最新の情報を取り入れ、言語の特徴を生かした翻訳ですら、私たちは、容易に読書できることを期待してはならない。私たちは当時の論理学、形而上学、神学の知識をいくらか持つことなしに、完全に理解することはできない。


 誤解のないようにしておこう。スヴェーデンボリは、最初の段階から、限定された読者へ向けて書いた。同時代のヨーロッパの学問ある大衆、学者、高位聖職者、神学者たちである。彼はアリストテレス学派で育った者たちに――自分の議論を原因、目的、結果だけで考えようとする者――速やかに認められる概念を常に繰り返した。さらに難解にも、『神の愛と知恵』200番では、vires〔力〕とformae〔形〕の段階を区別しているが、ここからは直ちにアリストテレス哲学のdynameiseide〔エイドス、形相〕が示唆される。この個所は、平易で庶民的な説教ではなく、最高の水準を保った神学的な議論である。


 普通の人は、その教えが自分に把握できるよう常に翻訳者を必要とする。スヴェーデンボリ協会の第一の任務は、卑見ながら示唆したいが、「著作」を保ち、それらをラテン語でも翻訳でも両方で全世界の教養ある人々に入手できるようにすることであろう。このことは、スヴェーデンボリの文体から暗に意味される目的である」(「文章家としてのスヴェーデンボリ」から引用、ただし、最後はスヴェーデンボリ協会の役割を論じている)


 


 これは「むずかしい」としている。しかし、私は、「ある程度の素養があり、論理的展開についてゆける能力があるなら、スヴェーデンボリの文章はやさしい」と思う。「書き方が(文学的表現でなく)単純明快である」から。むだな装飾などなく、味気ないほどである。


 この単純明快さを原典から自分自身で味わう人がひとりでも多く現われてほしい。そのためにサイト「スヴェーデンボリのラテン語」がある。


  


 6. まとめ 目的と手段


 最初に述べた、最初から「原典翻訳」を目指していたのではない。いろいろとやってきた。そして「ある段階を終える」と次の目標や、やらなければならないことが見えてくる。これは連続の段階なのか、分離の段階なのか?


 人は努力し続けていると、いつかは自分に最も適していることをしている、という。そうした境遇に落ち込むのか、追い込むのか。


 今は、翻訳物ではあるが「レキシコンづくり」をやっている。そしてこのこと満足している。これが終わると次にやるべきことが、今は見えないが、見えてくるだろう。またインターネット上に「原典で読む」ための講座があることなど数年前にはまったく考えられなかった、しかも私自身が行なっている! スヴェーデンボリが現代に生きていたら、インターネットをどのように評価し、用いたのか、と思う。


 


 しかし、これら翻訳、辞書作りなどはすべて目的のための「手段」、あるいは方法にすぎない。それでも、手段がなければ目的は達成されない。何かを作るための道具でもあり、その道具がよくなければ、よいものは作れない。


 目的はスヴェーデンボリの真意を知ること。そしてさらにその目的はそれを生活で生かすこと。


 


(20091121)

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