(3) 訳文
865(第11節)「また、私は大きな白い王座を、またその上に座っている方を見た。その方の顔から地と天は逃げた。彼らに場所は見られなかった〕」は、前のすべての天界に、市民的なまた道徳な善の中にいた、また何も霊的な善の中にいない、そのように、外なるものの中でキリスト教徒を偽り装った、しかし、内なるものの中で悪魔であったそれらの者に、主により全般的な審判が行なわれたことを意味する。その諸天界はそれらの地とともに、もはやそれらが何も見られないまでも完全に消散させられた。
それらが文字のものにしたがって順に説明される前に、ここに扱われている全般的な審判について何らかのものがあらかじめ言われなければならない。
主が世におられた時、ご自身が人物(位格)の中で最後の審判を行なわれた☆その時から、市民的なまた道徳的な善の中にいた、それでも何も霊的な善の中にいない、ここから外なるものの中でキリスト教徒のように見られる、しかし内なるものの中で悪魔であった者が、天界と地獄の間の中央にある霊たちの世界の中で、他の者よりも長くとどまることが許された――また、ついには彼らに確固とした住居をそこに自分自身につくることが、そしてまた、対応の悪用によって、また幻想によって、自分自身に天界のようにつくることが許された、それらもまた数多くつくった。
しかし、霊的な光と霊的な熱を、上の天界の間と地の中の人間の間をさえぎるように、その数が増えたとき、その時、主は最後の審判を行ない、彼らの想像上の天界を消失させた。キリスト教徒を偽り装った外なるものが取り去られ、また悪魔であった内なるものが見られること、その方法で行なわれた。また、その時、本質的にどのようなものであったか見られ、悪魔〔であるのが〕見られた者は、それぞれの自分の生活(いのち)の悪にしたがって、地獄へ投げ込まれた。これは1757年に行なわれた。しかし、この全般的な審判について多くのものが小著『最後の審判』(ロンドンで1758年出版)に、また『続 最後の審判について』(アムステルダムで1763年出版)に見られる。
[2] さて、説明へ向かおう――
「白い大きな王座、またその上に座っている方」によって、主により行なわれた全般的な審判が意味される。「王座」によって、天界そしてまた審判が意味される(229番)。「王座の上に座っている方」によって、主が意味される(808番末尾)。「白い」王座が見られたのは、審判が神的真理から行なわれたからである、というのは「白」は真理について言われるから(167, 379番)。「大きい」王座が見られたのは、審判が神的善からも行なわれたからである、というのは「大きい」は善について言われるから(656, 663番)。「その方の顔から天と地が逃げた」は、それらの天界がそれらの地とともに消散させられたことを意味する、彼らはそれらを自分自身〔のため〕につくった、それらについてすぐ前に〔述べた〕。というのは、霊界の中に、自然界の中のように、等しく地があるから(260, 331番)。しかし、そこのすべてのもののように、地もまた、霊的な起源からである。また「場所は彼らに見られなかった」は、諸天界がそれらの地とともに、それらの何もないものがもはや見られないように完全に消散させられたことを意味する。
これらから、「私は大きな白い王座を見た、またその上に座っている方を、その方の顔から天と地は逃げた、また場所は彼らに見られなかった」によって、市民的なまた道徳な善の中にいた、また何も霊的な〔善〕の中にいなかった者の上にある前のすべての天界の上に主により全般的な審判が行なわれたことを意味すること、その者は外なるものの中でキリスト教徒を偽り装った、しかし、内なるものの中で悪魔であったこと、その諸天界が彼らの地とともにそれらの何ももはや見られないまでも完全に消散させられたことを明らかにすることができる。
☆ これは、「主が世に来られたこと自体が最後の審判〔の一つの要素〕である」ということです。