原典講読『生活』 105, 106, 107

(1) 原文
105. Quoniam illud reciprocum et vicissim, et inde mutuum, est apud hominem a Domino, ideo homo reddet rationem operum suorum, et illi retribuetur secundum illa; nam dicit Dominus,
“Venturus… est Filius hominis,… et reddet unicuique secundum facta ejus” (Matth. xvi. 27).
“Exibunt qui bona fecerunt in resurrectionem vitae, et qui mala fecerunt in resurrectionem judicii” (Joh. v. 29).
“Opera illorum sequuntur cum illis” (Apoc. xiv. 13).
“Judicati sunt omnes secundum opera illorum” (Apoc. xx. 13).
“Ecce venio…, et merces mea Mecum, ut dem unicuique secundum ejus opus” (Apoc. xxii. 12).
Si reciprocum non foret apud hominem, nulla imputatio esset.
(2) 直訳
Quoniam illud reciprocum et vicissim, et inde mutuum, est apud hominem a Domino, ideo homo reddet rationem operum suorum, et illi retribuetur secundum illa; 往復するもの(相互関係)とお互いのもの(交互)、そしてここから相互のものが、人間のもとに主からあるので、それゆえ、人間は自分の働きの勘定書きを支払わなければならない☆、そして彼はそれ〔働き〕にしたがって報いられる。
☆ reddeoは「戻す、報いる」という意味です。「勘定書きを戻す(に報いる)」とはどういうことでしょうか? reddeoには「(約束など)果たす」という意味もあるので、ここからより積極的に「勘定書きを支払う」としました。これには異論があるかもしれませんが、原意を踏み外しているとは思いません。
nam dicit Dominus, なぜなら、主は言われているから、
“Venturus… est Filius hominis,… et reddet unicuique secundum facta ejus” (Matth. xvi. 27). 「人の子は・・・来ようとしている。それぞれの者にその行ないにしたがって報いる」(マタイ16:27)。
“Exibunt qui bona fecerunt in resurrectionem vitae, et qui mala fecerunt in resurrectionem judicii” (Joh. v. 29). 「善を行なった者はいのち(生活)の復活の中へ、悪を行なった者は裁きの復活の中へ出て行く☆」(ヨハネ5:29)。
☆ 異様な表現ですがギリシア原典も同じです。「出て行く」のは28節の「墓の中」からです。このような箇所は意訳しないほうがよいと思います。
“Opera illorum sequuntur cum illis” (Apoc. xiv. 13). 「彼らの行ないは彼らに従う」(黙示録14:13)。
“Judicati sunt omnes secundum opera illorum” (Apoc. xx. 13). 「すべての者は彼らの働きにしたがって裁かれた」(黙示録20:13)。
“Ecce venio…, et merces mea Mecum, ut dem unicuique secundum ejus opus” (Apoc. xxii. 12). 「見よ、わたしは・・・来る、わたしの報いはわたしとともに〔ある〕、それぞれの者にその働きにしたがって与える☆ために」(黙示録22:12)。
☆ 「与える」はギリシア原典では「報いる」です。
Si reciprocum non foret apud hominem, nulla imputatio esset. もし往復するもの(相互関係)が人間のもとにないなら、転嫁は何も存在しない。
(3) 訳文
 往復するものとお互いのもの、そしてここから相互のものが人間のもとに主からあるので、それゆえ、人間は自分の働きの勘定書きを支払わなければならず、その働きにしたがって報いられる。なぜなら、主は言われているから、
 「人の子は・・・来ようとしている。それぞれの者にその行ないにしたがって報いる」(マタイ16:27)。
 「善を行なった者は生活の復活の中へ、悪を行なった者は裁きの復活の中へ出て行く」(ヨハネ5:29)。
 「彼らの行ないは彼らに従う」(黙示録14:13)。
 「すべての者はその働きにしたがって裁かれた」(黙示録20:13)。
 「見よ、わたしは・・・来る。わたしの報いはわたしとともにあり、それぞれの者にその働きにしたがって報いる」(黙示録22:12)。
 相互関係が人間のもとにないなら、転嫁は決して存在しない。
(1) 原文
106. Quoniam receptio et reciprocum sunt apud hominem, ideo ecclesia docet quod homo explorabit se, confitebitur sua peccata coram Deo, desistet ab illis, et novam vitam aget: quod omnis ecclesia in Christiano orbe id doceat, videatur supra (n. 3-8).
(2) 直訳
Quoniam receptio et reciprocum sunt apud hominem, ideo ecclesia docet quod homo explorabit se, confitebitur sua peccata coram Deo, desistet ab illis, et novam vitam aget: 受け入れ(ること)と往復するもの(相互関係)が人間のもとにあるので、それゆえ、教会は教える、人間は自分自身を調べなければならないこと、神の前に自分の罪を告白しなければならない、それらから離れ、新しい生活を送らなければならない。
quod omnis ecclesia in Christiano orbe id doceat, videatur supra (n. 3-8). キリスト教世界のすべての教会はそのことを教えていることは、上(3-8番)に見られる。
(3) 訳文
 人間のもとに受け入れることと相互関係があるので、それゆえ、教会では、人間は自分自身を調べ、神の前に自分の罪を告白し、それらの罪から離れ、新しい生活を送らなければならないことが教えれらている。キリスト教世界のすべての教会がそのことを教えていることは前に見られる(3-8番)。
(1) 原文
107. Si non receptio ab homine foret, et tunc cogitatio sicut ab illo, nec aliquid dici potuisset de fide; nam fides nec est ab homine: alioquin foret homo sicut palea in vento, et staret sicut inanimatus, ore aperto et manibus remissis exspectans influxum, nihil cogitans et nihil agens in illis quae salutis ejus sunt: est quidem nihil agens in illis, sed usque est reagens sicut a se.
Sed haec in adhuc clariorem lucem mittentur in transactionibus de Sapientia Angelica.
(2) 直訳
Si non receptio ab homine foret, et tunc cogitatio sicut ab illo, nec aliquid dici potuisset de fide; もし、受け入れ(ること)が人間になかったなら、そしてその時、彼からのように思考が〔なかったなら〕、信仰について何らかのものが教えられることもなかった。
nam fides nec est ab homine: なぜなら、信仰も人間からではないから。
alioquin foret homo sicut palea in vento, et staret sicut inanimatus, ore aperto et manibus remissis exspectans influxum, nihil cogitans et nihil agens in illis quae salutis ejus sunt: そうでなれば、人間は風の中の籾殻のようになったであろう、そして生命のない☆かのように立っている、口を開けて、手をゆるめて、流入を待って、それらを何も考えず、何も働きかけないで、それらは彼の救いのものである。
☆ inanimatus(形から否定を表わすinがanima(魂)についた形容詞とわかります)は「生命のない、死んだ、活気のない」という意味です。これを「植物人間のような」とする長島訳について(4)を参照。
est quidem nihil agens in illis, sed usque est reagens sicut a se. 確かに何もそれらに働きかけないが、しかしそれでも、自分自身からかのように反応するのである。
Sed haec in adhuc clariorem lucem mittentur in transactionibus de Sapientia Angelica. しかし、これらはさらに明るい光の中に送られる、『天使的な知恵』についての論文の中で。
(3) 訳文
 もし、人間に受け入れることがなかったなら、またその時、自分からのような思考がなかったなら、信仰についても何らかのものが教えられることはなかった。なぜなら、信仰も人間からのものではないから。そうでなれば、人間は風の中の籾殻のようになり、自分の救いについて何も考えず、何も働きかけもせず、口を開け、手をだらちとさせ、流入を待って、生命がないかのように立っているであろう。確かに、自分の救いについて何も働きかけないのであるが、しかしそれでも、自分自身からかのように反応している。しかし、これらについて、『天使的な知恵』についての論文で、さらに明るい光があてられるであろう。
(4) 長島訳「植物人間」について
 ここの「植物人間のようにして立ち・・・」の訳に違和感をもつ人は私だけではないと思います。素朴に「植物人間」が「立つの?」と思うのではないでしょうか。
 「植物人間」とは脳死でベッドに横になったままの人を指します。自力で動くことはできず、ましてや立つことはできません。長島さんは「植物人間」の言葉の意味を知っているのでしょうか? または別の意味で捕らえているのでしょうか? 翻訳するなら正確な日本語を使ってほしいです。私は「長島さんの日本語は腐っている」と評することがあります。ここもその一例でしょう。
 さて、「植物人間」は現代医療の生み出したものです。スヴェーデンボリの時代に存在しません。それで、この言葉を持ち出すことには大反対です。たとえば、昔話で「計算機」の代わりに「コンピュータ」を持ち出したら、おかしすぎるし、意味も汲めなくなります。意訳したいならanimaを生かして「魂が抜けたかのように」とでもするなら許容範囲です。
 長島さんは翻訳する上で「読者にわかりやすいこと」を心がけた、と聞いています。しかし、ここは「やりすぎ」を通り越して、私にとっては上記の二つの理由で「誤訳」です。

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