6月23日は何の日か?

 教員時代に修学旅行で沖縄によく行った。定時制に移ってからは、生徒はなるべく遠くに行きたいらしい、それで行き先は北海道か沖縄である。
 沖縄は梅雨がないので、この6月23日を含む期間が修学旅行であった。下見や引率のとき、新教会の那覇集会の指導者だった亀島善侑(よしゆき)さんと泡盛を飲みながら親交がもてた。現地の人である亀島さんに案内してもらえたこと、何よりも信仰を同じくする友がいるのは、ありがたかった。
 6月23日は「沖縄終戦の日」である。8月15日が「終戦の日」であるが、4月にアメリカ軍上陸で始まった沖縄戦、その組織的抵抗は島の最南部である摩文仁の丘まで追い詰められた日本軍の司令官牛島中将の自決の日に終わった。なお、中将は「最後の一兵までも戦え」と命じ、それで散発的な抵抗が続き、アメリカ軍は掃射戦を続け、最終的な決着は9月に入ってからだった(もちろん8月15日に終戦している!)。戦争のむごさを教える生きた教材が沖縄にある。この日、沖縄各地で追悼式が行なわれる。
 これまではこれだった。今は違う。私の祖先が「八王子城の戦い」の敗残兵であると言った(南高麗村を訪れた話し)。秀吉が天下を平定した年の天正18年(1590年)、その6月23日は「八王子城落城の日」である。四国・中国を平定した秀吉は「以後、領土争いなどしてはならぬ」とのお触れを出した。
 しかし、関東全域を支配下に置きたかった小田原の北条氏はその後も関東北部への侵略を続けた。そこで秀吉は上洛(顔を出せ)を命じたが、北条は従わなかった。総勢17万(?)の征伐軍が小田原を目指した。主力は東海道を進み、水軍も房総などに向かう。現在の甲州街道を前田利家・上杉景勝の連合軍が進んだ(「愛」かぶとで有名な直江兼続も付き従っている、証拠もある)。その行く手を阻んだのが「八王子城」。
 降伏してしまう城も多々あったなか、八王子城は主戦を選んだ。豊臣軍は、ここは徹底的につぶそう、とした。今後の、北條軍の士気を殺ぐためである。皆殺しに近い戦闘が行なわれたらしい。(深夜に進軍し)未明に始まった戦いは一日で終わった。そこを逃げ延びたのが私の祖先。奥多摩の奥まで逃げ、そこで自害した指揮官だった武将もいる。こうなると下っ端のほうがいい。追っ手もきつくない。かっこう悪いかもしれないが、逃げたおかげで今の私がある。
 さて、先祖の家を訪れ、そこに槍があった。前田利家を倒そうとして戦ったのかもしれない。今度行ったときには、その槍を構えたみたい。前田や上杉を目の前にしたつもりになって。
 それで先祖の戦った地「八王子城」を女房・美恵子とともに今日22日(もう23日である)に訪れた(落城とき多くの女・子供も自害したので心霊スポットとされていて23日に地元の人は行かない)。
 ついでにすぐそばにある高尾の「多摩御陵(武蔵野陵)」も訪れることにした。多摩御陵に私は何度も行ったことがあるが(最近ではヨン・ジン牧師夫妻を案内して)、美惠子は初めて。
 最初に御陵に着いたとき門前払い。「今日は催し物がある」という。後からニュースで知ったが「天皇がハワイ・カナダ訪問する」からである。天皇が海外に出かけるとき両親(すなわち昭和天皇・香淳皇后)に事前に報告するのである。「いつ終わりますか」「1時ごろ」「また、そのころ来ます」
 それで、先に「八王子城跡」。とたんに町中の喧騒を離れ、山の中。八王子城は「山城」である。麓の「御主殿」だけでなく山頂の「本丸」まで行った(そこには八王子のいわれとなった「八王子神社」もある)。往復1時間10分の山道で足にきた。なお山歩きは去年夏の尾瀬いらい。
 すぐ近くの八王子城主だった北條氏照(先祖の主君だ)の墓も訪れた。ここはまさに心霊スポットだ、その気配を感じた。夜に一人では来れない。
 さて、1時近くなって御陵に向かう道路、沿道に人だかり。「こりゃ、天皇の帰りを見送る人たちだな」と思っていたら、日ごろの心がけが良いせいか、対向車線に白バイ等をつき従えた天皇の車列。大名行列の現代版。すれ違った。なかなかできる経験ではない。着いた多摩御陵では警備も終わり、後片付けもほぼ終わり、報道車も去り、人ッ気なし。小雨の中、静かな多摩御陵、武蔵野陵であった。
 帰り道、「天へぎ」の看板を出していた蕎麦屋に寄った。てんぷらと「へぎそば」である。「へぎ」蕎麦と言われてなんのことかわかれば、あなたはそば通。むずかしいことはない、「ざる」に盛るから「ざるそば」、「へぎ」に盛るから「へぎそば」。つなぎに海藻を使っている越後そばである。
 久々にうまいそばを食べた。八王子に行く機会があったら「弥彦」のそばをご賞味あれ。

コメントを残す