丸一年掛かって、無事終えた。いろいろな思いが浮かんでくる。それをだらだら述べてみよう。
まずは「読者」の支えに改めて感謝申し上げる。一つの物事を丸1年続けるのは自分の力だけではない。私はけっこう「あく・くせの強い」人間かもしれない。それでも、毎日、私の言いたいほうだいの「原典講読」を読んでくれている人がいる。
「真理を求めているんだな」と思うとき、たいした器でもない私であるが、やはりその求めに答えようという気になる。これが丸一年続けたことの大きな原動力だと思う。よくプロ野球の選手がヒーローインタビューで言う、「ファンの皆様の後押しでホームランが打てた」「これからもご声援、よろしくお願いします」と。その通りだな。バッターボックスに立って、ファンの声援が「ワー」と湧き上がれば、「やってやる」という気になる。同じだ。
さて、自分の勉強・研究の足跡としてもほぼ納得できる。スヴェーデンボリの著作で始めて出会ったのがこの『天界と地獄』(同時に購入したのが『神の摂理』)。36歳のときだった。以来ずっとスヴェーデンボリに没頭してきた。40歳で勉強時間がほしくて定時制に移ったのはそのためだった。
教員稼業を続けながらも、スヴェーデンボリを学び続け、いわば「二足のわらじ」をはいていた。教員としては失格かもしれない。一つだけ弁解したい。教育だけの世界にはまりこんだ教員だけから成り立つ教員集団は魅力があるのか? 別の世界に興味をもった人間がいても、そのほうがいろいろな意味でよいだろう(これ以上は弁解はやめよう。ともかく周囲にはユニークな教員として認められていた)。
英訳書をアルカナ出版から入手したのがその6年後、しばらくて2度目の読書としてその英訳を読んだのが91年の秋、44歳だった。そのため、英語の勉強をしなおした。
今回が3度目の読書となった。原典を訳しながら読んだ。61~62歳。繰り返す、自分の勉強の軌跡として納得。どのように納得かといえば、私は「しつこい人間だ、それに似合っている」ということである。ひとつのおもちゃを与えられたら、あきもせず、いつまでもいじくっている子供だった。
さて人にはだれしもプライドがある。プライドとは何か、簡単に言えば「自慢」だ。この原典講読『天界と地獄』は画期的ではなかろうか。スヴェーデンボリが現代に生きていたら、その得たものをどのように公表しただろうか? インターネットを利用することは間違いないだろう。
これまでスヴェーデンボリの著作の翻訳は、「本」により公けのものとなっていた。今はインターネットがある。こうして、長島訳に続き、日本でラテン原典から翻訳が、最も有名で、これまで世界各国でいちばん翻訳されることの多かった『天界と地獄』が、このようにネット上に毎日連載された。それも「直訳」という形の「講読」として。この「直訳」は、どこかの勉強会以外で行なうことは無理であろう、まして印刷物にはとうていできない。でもネット上なら可能である・・・。時代の流れではあるが、繰り返えそう、画期的だ。
以前、研究誌『荒野』を発行していたことがある。毎月50部ほど作成し、20~30名に頒布していた。そのことと比較することがある。機関紙が手元に毎月郵送されてくるのは、それはそれで味があると思う。しかし、労力・費用がかかる・・・。インターネットの利点は、多くの人間に瞬時にほぼ無料で発信できることである、機関紙という形式はむずかしくなってきていると思う(ややわき道)。
このような画期的なことを自分がやるとは思っていなかった。ずっと続けていたら、自然とこうなった。そしてこのことが私のプライド。そしてこのようなネット上での場を整備している仲間の林道夫さんにも改めて感謝する。
読者の気持ちになってみる。鈴木のやつめ、いい気になって他人の訳にけちをつけている。でもまあ、「人の訳を鵜呑みにしないで、しっかり読め」という善意のメッセージと受け止めてやろう。でも、おまえの訳だってけっこうあやしいぞ(と、これくらいの批評精神をお持ちなら、うれしい。私は、人の意見に左右されず、自分の見解を持つことが重要だ、と思うから)。
このごろ掲載が深夜を通り越して、明け方近くなっている、できたら、一定にしろ。その他不満はあるが、原典にどのように書いてあるか知りたいから、まあ、我慢するか・・・。
いろいろとあるだろう。それでも有名な『天界と地獄』を原典から読んだのは他でもない(真理を求める)「あなた」だ。役不足ながらも私はその機会の単なる提供者。
最後に何を言いたいのか、たとえ苦労して美味しい(と思える)料理を用意しても、食べてもらえなければ、すなわち、著作をちゃんと訳したと思っても、読んでもらえなきゃ話しにならない。「これからもご声援、よろしくお願いします」