(3) 訳文
294 これらに私はこのメモラビリアを付け加える――
自然界の中で、人間に外なるものと内なるものの二重の思考があるので、二重の話し方がある。というのは、人間は内なる思考から、また同時にその時、外なる思考から話すことができ、また内なるものからでなく外なる思考から話すこともでき、それどころか内なる思考に反して話すこともできるから。ここから、見せかけ、へつらい、偽善がある。
しかし、霊界の中で、人間に二重の話し方はなく、しかし、単一のものがあり、そこでは考えているように話す。そうでなければ、音声はきしみ、耳を害う。しかしそれでも、黙ること、またこのように自分の心の考えを公けにしないことができる。それゆえ、偽善者は、賢明な者たちの間にやって来るとき、立ち去るか、あるいは部屋の隅へ突進し、また自分を目立たないようにし、口がきけない者のように座る。
[2] かつて、霊界の中で多くの者が集められ、この事柄について自分たちの間で話した。考えるようにでないなら話すことができないこと、神についてまた主について正しく考えなかった者は善い者との交わりの中でそのことが困難である、と言った。
集まりの真ん中に改革派教会の者が、また聖職者からの多くの者が、また彼らの近くに修道士たちとともにローマカトリック教徒たちがいた。そして、それらの者が最初に、これは困難なことではない、と言った。「考えるように話すことが、なぜ必要か? またもし、はからずも正しく考えないなら、唇を抑えること、沈黙を守ることができないか?」 また、聖職者が言った、「だれが、神についてまた主について正しく考えないのか?」
しかし、集まった者からのある者が、「彼らを試そう」と言った。
また、神について位格の三一性を確信した者に、特に、『アタナシウスの教え』の中のこれらの言葉「一つの位格が父に、他の位格が子に、また他の位格が聖霊にあり、また父が神であるように、そのように子は神である、また聖霊は神である」から、「一つの神」と言うように言われた。しかし、できなかった。彼らは唇を多くのひだの中へとねじり、折り曲げたが、彼らの思考の観念に一致する声以外の音声をはっきり発音することができなかった。それら〔の観念〕は三つの位格、またここから三つの神であった。
[3] さらに、仁愛から分離した信仰を確信した者に「イエス」の名前を言うように言った、しかし、できなかった。しかし、すべての者は、「キリスト」、そしてまた「父なる神」と言うことができた。
このことは怪しまれ、また理由を探した。また、子のために父なる神へ祈り、救い主自身に祈らないことが見つかった、というのは、「イエス」は救い主を意味したからである。
[4] さらに彼らに、思考〔自分の思い〕から主の人間性について「神的人間性」と言うように言われた。しかし、そこにいた聖職者からのだれもできなかった。しかし、平信徒からのある者たちができた。それゆえ、このことは真剣な討議〔の対象〕とされた。
またその時、(1) 彼らの前で「福音書」からこれらが読まれた――
「父は……すべてのものを子の手の中に明け渡した」(ヨハネ3:35)。
父は子に「すべての肉の権力」を明け渡したた(ヨハネ17:2)。
「すべてのものが父からわたしに渡されている」(マタイ11:27)。
「わたしに天の中と地の中のすべての力が与えられている」(マタイ28:18)。
また彼らに言われた、「ここからキリストが神性に関しても自分の人間性に関しても天と地の神であることを思考の中で保て、またこのように「神的人間性」を発声せよ」。しかし、それでもできなかった。また彼らは、「確かに、このゆえに神について理解力から何らかの思考を持つ、しかしそれでも、何らかの承認がなく、またそれゆえできない」と言った。
[5] (2) その後、彼らの前で「ルカ福音書」(1:32, 34, 35)から、主は人間性に関して神エホバの子であったこと、またそこに至高者の子、また、みことばのどこでも人間性に関して「神の子」、そしてまた「ひとり子」と呼ばれていることが読まれた。彼らは、これを思考の中に保つように、そしてまた神のひとり子が世の中に生まれたこと、父が神であるように神であること、また「神的人間性」と発音することが求められた。
しかし、彼らは、「私たちはできない。内的なものである私たちの霊的な思考は、似たような他の観念に最も近い思考の話の中にしか入らないからである」言った。またここから彼らは、今や、自然界の中のように、自分の思考が分割されることが許されないことを知覚している。
[6] (3) その後、彼らの前でピリポへの主のことばが読まれた、これらである――
「ピリポは……言った.主よ、私たちに父を見せてください……」。主は言った、「わたしを見た者は、父を見た……」。「あなたは、わたしが父の中に、また父がわたしの中にいることを信じないのか?」(ヨハネ14:8-11)。
そしてまた他の箇所に、
父とその方は一つであること(例えば、ヨハネ10:30)。
また彼らに、そのことを思考の中に保ち、このように「神的人間性」と言うように言われた。
しかし、その思考は、主が人間性に関してもまた神であったことの承認に根づいていなかったので、唇を、折りたたみの中へ、憤りへまでもねじった、また自分の口を発声するように強いることを欲した、しかし、できなかった――その理由は、承認から流れ出る思考の観念が、霊界の中にいる者のもとで舌の言葉と一つであるからである。またその観念がない〔ところに〕、〔その観念の〕言葉は存在しない、なぜなら、観念が話の中の言葉となるからである。
[7] (4) さらに、彼らの前で、全地の世界の中で受け入れられた教えから、これが読まれた、
主の中の神性と人間性は二つではなく、一つである、それどころか人間の中の霊魂と身体のように完全に結合した一つの位格である。
これは『アタナシウス信条』からのもの、また(教会)会議により承認されたものである。
また彼らに言われた、「このゆえに、主の人間性は神的であり、その霊魂そのものは神的であるこの承認から、あなたがたはすべての観念を持つことができる。というのは、あなたがたが世の中で認めたあなたがたの教会の教えからのものであるから。なおまた、霊魂は本質そのものであり、身体はその形であり、そして、エッセ(存在)とエキシステレ)のように、また結果の動因と結果のように本質と形は一つをつくる。
彼らはその観念を心にとめ、またその観念から「神的人間性」を発声しようとした、しかし、できなかった。というのは、主の人間性についての内的な観念が、新しい外来的な観念と呼ぶようなその観念をに追い出し、消し去ったからである。
[8] (5) さらに、彼らの前で「ヨハネ福音書」からこのこと読まれた――
「ことばは神のもとにあった、ことばは神であった……またことばは肉となった」(1:1, 14)。
また、パウロ〔の手紙〕からこのことが、
「キリスト・イエスの中に「神性のすべての充満が形をとって住んでいる」(コロサイ2:9)。
また彼らに、同様に考えるように言われた、すなわち、神がことばであった、肉となったこと、
真の神であったこと。またその方の中に神性のすべての充満が形をとって住んでいることである。
「おそらく、あなたがたは「神的人間性」を発声することができる」。
しかしそれでも、できなかった、「神的人間性の観念を持つことができないこと」、「神は神であり、人間は人間であるので、また神は霊であり、また霊について、私たちは風またはエーテルについてのようなにしか考えなかった」と公然と言って。
[9] (6) 最後に、主が言われたことに気づくよう、彼らに言われた、
「わたしの中にとどまれ、またわたしはあなたがたの中に。……わたしの中に、またわたしが彼の中にとどまる者は多くの実を結ぶ、わたしなしにあなたがたはどんなものも行なうことができないからである」(ヨハネ15:4, 5)。
また、イギリスの聖職者からのある者がいたので、彼らの前で聖餐の前の彼らの祈りの一つから読まれた、
“For, when we spiritually eat the flesh of Christ and drink the blood, then we dwell in Christ and Christ in us.” 「なぜなら、私たちがキリストの肉を食べ、(その)血を飲む時、その時、私たちはキリストの中に、またキリストは私たちの中に住まわれるからである」☆1
「もし、今、主の人間性が神的なものでないなら、このことはありえない、とあなたがたが考えるなら、そこで、思考の中の承認から「神的人間性」と発声せよ」。
しかし、それでもできなかった、というのは彼らに、主の神性とその方の人間性で別ものあること、その方の神性は父の神性と似ていた、また〔その方の〕人間性は他の人間の人間性と似ているという観念が深く刻みつけられていたから。
しかし、彼らに、「どのようにして、そのように考えることができるのか? 理性的な心は常に、神が三つであること、また主が二つであることを考えることができるのではないか?」と言われた。
[10] (7) その後、彼らは、『アウクスブルク信仰告白』やルターは、神の子と人の子はキリストの中で一つの位格であること、またその方は、自然的な人間性に関してもまた真実、全能そして永遠の神であること、またそれらに関して父なる神の右に現在して、また天と中と地の中ですべてのものを治めること、すべてものを満たし、私たちとともいる、また私たちの中に住む、また働く、また礼拝の相違はない☆3ことを教えている、と言って、福音主義者へ向きを変えた。見分けられない神性が、そのようにキリストの中で神は人間であり、また人間は神であるという見分けられる性質によって、崇拝されるからである。
これらを聞いて、彼らは答えた、「このようではない」
また見回し、また間もなく、「これらを以前に私たちは知らなかった。それゆえ、私たちは言うこともできない」と言った。
しかし、ある者ともう一人の者が、「私たちはそれを読み、またそれを書いた。しかしそれでも、それについて私たちの中で考えたとき、単なる言葉であり、その内的な観念を持たなかった」と言った。
[11] (8) 最後にローマカトリック教徒へ向きを変えて、言った、「おそらく、あなたがたは「神的人間性」を言うことができるでしょう、あなたがたは、あなたがたの聖体祭義の中で、パンとブドウ酒の中に、またそれらのすべての部分の中に、キリストが完全にいること信じており、そしてまた、あなたがたが聖体(ホスチア)を示し、持ってまわるとき、神としてその方を信じているからです。なおまた、あなたがたはアリアを神の母と呼ぶので。したがって、あなたがたは、〔彼女が〕神を、すなわち、神的人間性を生んだことを認めています」。
また彼らはその時、主についての彼らの思考の観念からそれを発声することを欲した、しかし、その方の身体と血について物質的な観念のために、神的な力ではない人間性の力がその方から教皇の中に移されたという主張のために、発声することができなかった。
また、一人の修道士が立ち上がり、神的人間性を最も聖なる処女マリア「神の母(デイパラ)」について、そしてまた自分の修道院の聖徒について考えることができると言った。
また他の修道士が「私は、今、抱いている私の思考の観念から、神的人間性をキリストについてよりも最も聖なる教皇について言うことができる」と言って、近づいた。
しかしその時、他の修道士が彼を引き戻し、「恥じ知れ」と言った、
[12] その後、開かれた天界が見られ、またある者のもとに炎のように降って、流入している舌が見られ☆2、また彼らはその時、主の神的人間性を称賛し、「三つの神の観念を遠ざけよ、また、主の中に神性のすべての充満をもって形をとって住んでいること、また父とその方は霊魂と身体が一つであるように一つであり、神は風(息)やエーテルでなく、人間であることを信じよ、またその時、あなたがたは天界に結合され、そのことを通して主によりあなたがたは「イエス」を言うこと、また「神的人間性」と言うことができる」と言った。
☆1 ここは英語で書かれています。訳さないでわざわざ英語のままにしたことから、スヴェーデンボリはこの著作をロンドンで書き(出版はアムステルダム)、ロンドンで亡くなりましたが、自分の教えがイギリス(英語圏)で始まるであろうことを予期していたように思えます。
☆2 「使徒の働き」2:3参照。
☆3 別々の神をそれぞれ「相違して」礼拝することはなく、崇拝対象が一つであることです。