(3) 訳文
53 「その方の顔はあたかも強く輝く太陽のよう〔である〕」は、神的愛と神的知恵を意味する、それらはその方であり、その方から発出する――
エホバの「顔」、すなわち、主の「顔」によって、その本質の中の神性そのものが意味されることは、それは神的愛と神的知恵、そのように、その方であることは、以下の説明の中に見られ、そこに「神の顔」が述べられている。同様のものが「その力の中の輝く太陽」によって意味される。
主が天界の中で天使たちの前に太陽として見られることは、またその方の神的愛がその方の神的知恵と一緒にそのように見られることは、ロンドンで1758〔年〕に出版の『天界と地獄』の著作の中に見られる(116-125番)。また『神の愛と知恵』の中に(83-172番)。
[2] ここに、みことばから確認されるために、「太陽」が主について〔である〕とき、その方の神的愛と同時にその方の神的知恵であることだけが残っている。このことは続くもののこれらの箇所から明らかにすることができる――
「その日に、月の光は太陽の光のようになる、(また太陽の光は)七つの日の光のように七倍になる」(イザヤ30:25, 26)。
「その日に」は、旧い教会が破壊され、新しい教会が設立されるときの主の来臨である。「月の光」は、その時、主からの、仁愛からの信仰であり、「太陽の光」は愛からの知性そして知恵である。
「あなたの太陽はもはや沈まず、あなたの月は迎えられない、エホバが永遠の光の中にあるからである」(イザヤ60:20)。
沈まない太陽は、主からの愛と知恵である。
「イスラエルの岩は私に話した、太陽が昇るときの朝の光のよう〔である〕」(サムエル記Ⅱ23:3, 4)。
「イスラエルの岩」は主である。
「その方の王座は太陽のようになる」(詩篇89:36, 37)。
このことはダビデについて言われている、しかし、ダビデによってそこに主が意味されている。
「彼らは太陽とともにあなたを恐れる、またその方の日に、公正な者が栄え、月がない時までも多くの平和が〔ある〕。子の名前が太陽の前にあり、すべての国民はその方の中で祝福される」(詩篇72:5, 7, 17)。
これらもまた主について〔である〕。
[3] 主は天界の中で天使たちの前に太陽として見られるので、それゆえ、変容されたとき、「その方の顔は太陽のように輝き、その方の衣服は光のようになった」(マタイ17:1, 2)。そして天から降って来た力強い天使について、「雲に囲まれていた、またその顔は太陽のようであった」ことが言われている(黙示録10:1)。また女について、「太陽に囲まれていた」が見られたこと〔が言われている〕(黙示録12:1)。
というのは、「太陽」は、そこに主からの愛と知恵であるから。そこの「女」は教会であり、それは新しいエルサレムと呼ばれる。
[4] 「太陽」によって愛と知恵に関する主が意味されるので、続く箇所の中で「太陽」によって何が意味されるか明らかである――
「見よ、エホバの残酷な日がやって来る、太陽はその上昇の中で暗くされ、月はその光を輝かせない。わたしは悪意の世界の上に、彼らの不法の不信心な者の上に訪れる(審判を下す)」(イザヤ 13:11、さらにまた24:21, 23に見られる)。
わたしがあなたを消すとき、わたしは天を隠し、その星を暗くする。わたしは太陽を雲で隠す、月はその光を輝かせない、わたしは暗やみをあなたの地の上に与える」(エゼキエル32:7, 8)。
「主の日が、暗やみの日がやって来る、太陽と月はその光を輝かせない、た星はその輝きを縮ませた」(ヨエル2:10)。
「太陽は暗やみに、また月は血に変えられる、エホバの大いなる日が来る前に」(ヨエル2:31)。
「エホバの日は決定の谷間に近づいた、太陽と月は暗くなった」(ヨエル3:14, 15)。
「第四の天使がらっぱを吹いた、また太陽の三分の一、星の三分の一をを打った、また日はその三分の一を輝かさなかった」(黙示録8:12)。
「太陽はヤギの毛で作られた袋のように黒くなり、月は血のようになった」(黙示録6:12)。
「太陽は深淵〔から〕の煙により暗くされた」(黙示録9:2)。
これらの箇所の中で「太陽」によって世の太陽が意味されない、しかし、天使の転嫁の太陽が〔意味され〕、それは主の神的愛と神的知恵である。人間のもとに虚偽と悪があるとき、これら、「暗くされること」、「暗くされること(光を奪われること)」、「隠されること」また「暗く(黒く)されること」が言われる。
[5] ここから、同様のものが、そこに教会の最後の時である世代の完了が話されている主のことばによって意味されることが明らかである。
「それらの日の苦難の後、直ちに、太陽は暗くされ、月はその光を与えず、星は天から落ちる」(マタイ24:9、マルコ12:24, 25)。
同様にこれらの中に――
「太陽は預言者たちの上に沈み、日は彼らの上で暗くなる」(ミカ3:5, 6)。
「その日に、わたしは太陽を沈ませ、真昼の中で、光の日の中で、地を暗くする」(アモス8:9)。
「〔子を〕七つ産んだ女は最期の息を吐いた、その太陽は依然として日〔がある〕ときに沈む」(エレミヤ15:9)。
これらはユダヤ教会についてである、それは「最期の息を吐いた」、すなわち、滅んだ。「太陽は沈む」は、もはや愛と仁愛がないことである。
[6] 「ヨシュア記」に、「太陽はギブオンの中で、月はアヤロンの谷の中で動かずにいる」(10:12, 13)ことが言われている。歴史に見える、しかし預言である、というのは、預言の書であった「ヤシャルの書」からであるから。というのは、「これはヤシャルの書に書かれていないか」(13節)と言われているから。同書は預言としてダビデにより名前を挙げられている(サムエル記Ⅱ1:17, 18)。同様のものが「ハバクク書」のもとにもまた言われている――
「山々は揺り動かされた、太陽と月はその場所に動かないでいる」(3:10, 17)。
「あなたの太陽はもはや沈まない、あなたの月は迎えられない」(イザヤ60:20)。
なぜなら、太陽と月を動かないでいることにすることは、宇宙を滅ぼすことになるであろうから。
[7] 神的愛と神的知恵に関する主が「太陽」によって意味されるので、それゆえ、古代人は聖なる礼拝の中で、顔を太陽の昇る地点(東)へ向けた。またその神殿も〔向け〕、その儀式は今でも(依然として)続いている。
それらの箇所の中の「太陽」によって世の太陽が意味されないことは、世の太陽と月を崇拝することが冒涜的な(神聖さを汚す)また忌まわしいことであったことから明らかである(民数記25:1-4、申命記4:19、17:3, 5、エレミヤ8:1, 2、43:10, 13、44:17-19, 25、エゼキエル8:16に見られる)。というのは、「世の太陽」によって自己愛とプロプリウム(自己)の知性の高慢が意味されるから、そして自己愛は神的愛に正反対に対立し、そしてプロプリウム(自己)の知性の高慢は神的愛に対立するからである。世の太陽を崇拝することもまた創造者〔である〕自然を認めることである、またすべてのものの有効なものがプロプリウム(自己)の思慮分別であることを認めることであり、そのことは神の否定と神的摂理の否定を含んでいる。