(3) 訳文
662. 第二のメモラビリア――
ある時間の間隔の後、私はある木立の中に入り、そこを私は、世のものを所有する欲望とここからの幻想の中に〔いる〕者について熟考して歩いた。またその時、ある距離に私から、自分たちの間で会話している、また時々、私を眺めている二人の天使が見られた。それゆえ、私は近くに近づいた、また〔その天使たちは〕私に近づいて話しかけて、言った、「私たちの中で、私たちは、私たちが話していることをあなたが熟考していることを、すなわち、私たちが話していることをあなたが熟考していることを知覚した、それは相互の情愛の伝達からである」。
そこで私は、何を話しているか質問した。
彼らは言った、「幻想、欲望、知性について。また、今は、世のすべてのものの所有の幻想と想像から自分自身を喜ぶ者についてである」。
[2] またその時、私は、欲望、幻想、知性について、それらの三つのものについて自分の心を明らかにするように請い求めた。
また談話を始めて、それぞれの者が出生から内的に欲望の中に、しかし、教育から外的に知性の中にいること、まただれも知性の中に、まして内的に知恵の中に、そのように霊に関して、主からでないならないことを言った。「というのは、すべての者は欲望から悪に保たれ、そして主への見ることにしたがって知性の中に、また同時に、その方との結合に保たれるからである。それなしに人間は欲望以外でしかない。しかしそれでも、この者は外的なものの中で、または身体に関して教育からの知性の中にいる。というのは、人間は名誉と富を、すなわち、卓越と富裕をほしがるから。またこれら二つのものは、道徳的にまた霊的に、そのように知性的にまた賢明に見られないなら獲得されない。そして、そのように見られることを幼児期から学ぶ。その理由で、人間の間にまたは集団の中にやって来るとすぐに、自分の霊をひっくり返し、そしてそれを欲望から遠ざけ、また幼児期から教わった礼儀作法や似つかわしいことから、また身体の記憶の中に保持した〔ものから〕、話し、行動する。
また、狂気の欲望から何らかのものが、その中に彼の霊がいる、流れ出ないようにそれを最大に用心する。
[3] ここから、内部で主から導かれていないすべての人間は、偽る者、追従者、偽善者であり、このように人間に見られているが、それでも人間ではない。それらの者について、彼の殻(外皮)または身体は賢い、そして彼の仁(種)または霊は狂っていると言われることができる。なおまた、彼の外なるものは人間性、そして内なるものは野獣性である。このような者は後頭部で上方を、また前頭部(額)で下方を眺める。そのように重苦しさにとりつかれているかのような顔つきとともに、地へ向けて下方へ頭をたれて歩く。彼らは、身体を去り、霊となる時、またその時、解放され、自分の狂気の欲望を行なう。なぜなら、自己愛の中にいる者は、全世界の上に支配することを、それどころか、彼のその境界を、支配の拡大へ向けて広げることを望み、決して終わりを見ないからである。
世への愛(世俗愛)の中にいる者は、そのすべてのものを所有することを望み、そして、もし、ある者の宝庫に、ある者のもとにたくわえられて隠されているなら、苦しみ、ねたむ。それゆえ、このような者が単なる欲望のものとなり、またこのように人間とならないことがないように、彼らに霊界の中で、名声のまたこのように名誉と利益の奪われることの恐れから、そのようにまた法律とその罰の恐れから考えることが与えられ、そしてまた心を、何らかの関心(熱中・研究・学問)または働きへ振り向けることが与えられ、それによって外なるものの中に、またこのように知性の状態の中に、どれほど内的に正気を失い、狂っている〔にしても〕保たれる。
[4] これらの後、私は、欲望の中にいるすべての者は、さらにまた自分の幻想の中にいるのか質問した。
彼らは、自分たちは自分の欲望の幻想の中にいること、自分自身と話して☆、内的に自分自身の中で考え、また度を越えた自分の想像の中にふける、と答えた。というのは、これらの者は自分の霊をほとんど身体との結びつきから分離し、幻から知性を水でおおい、また愚かにも、自分自身を、全世界を所有するかのように楽しませるから。この精神錯乱の中に、自分の霊を身体から引き離し、また精神錯乱の楽しみから戻ることを欲しなかった人間は、死後、入れられる。〔その者は〕悪と虚偽について宗教から何らかのものを考えて〔ても〕、主への愛を破壊するものである抑制のない自己愛については、そして隣人に対する愛を破壊するものである抑制のない世俗愛についてはその何らかのものを最小に〔考える〕。
[5] これらの後、二人の天使と私もまた、世俗愛からすべての富を所有する幻と幻想の中にいる者を見ようとする欲望(願い)が起こった。また私たちはその欲望(願い)が知られる目的のために吹き込まれたことを知覚した。
彼らの小屋は私たちの足の地の下に、しかし、地獄の上方にあった。それゆえ、私たちは互いに見て、言った、「私たちは行こう」。そして、開口部が、またそこに階段が見られた。これを通って、私たちは降った。また、彼らの幻想のもやの中に入らないように、そして知性に関して、またその時、一緒に視覚に関して暗くされないように、東から近づかなくてはならないことを言われた。
また見よ、アシ(葦)から建てられた、割れ目〔だらけ〕の、もやの中に立っているような家が見られた、そのもやは、三つの壁の割れ目を通って煙のように絶えず流れ出ている。
私たちは入った、またここに五十〔人〕が、またそこに、東と南から背いて西と北へ向けて眺めて長椅子(ベンチ)の上に座っている五十〔人〕が、見られた。それぞれの者の前にテーブルがあり、またテーブルの上にふくらんだ財布、また財布のまわりにおびただしい金貨があった。
[6] また、私たちは、「これらは世のすべての者の富か?」と質問した。
「世のすべての者の〔富〕ではない、しかし、王国の私たちの〔富である〕」と言った。
彼らの話しの声はシューシューいうようであった、また自分自身には丸い顔に見られ、それはカタツムリの殻のように赤く輝き、そして緑の表面〔地色〕の中で目のひとみはあたかもぴかっと輝くようであった、それは幻想の光からであった。
私たちは彼らの真ん中に立ち、「あなたがたは、自分たちは王国のすべての富を所有している、と信じている」と言った。
また答えた、「私たちは所有している」。
その後、私たちは質問した、「あなたがたのだれが?」
彼らは言った、「それぞれの者が」。
また私たちは質問した、「それぞれの者が、どのように? あなたがたは多くの者である」。
彼らは、「私たちからのそれぞれの者が、彼のすべてのものが私のものであることを知っている。ある者に、『私のものはあなたのものではない』と考えること、まして、言うことが許されない、しかし、『あなたのものは私のものである』と考え、言うことは許される」と言った。
テーブルの上の硬貨は、私たちの前にもまた純金からのように見えた。しかし、私たちが東からの光を引き入れたとき、それは共有の同一の幻想によってそのように大きくなった金の粒であった。彼らは、入る者はだれでも、何らかの金を持参しなければならないこと、それを小片に、粒に切り分け、また和合する幻想の力によって大きな形の硬貨に大きくする、と言った。
[7] またその時、私たちは、「あなたがたは理性的な人間に生まれなかったか? あなたがたの愚かな幻想)はどこからか?」と言った。
彼らは、「私たちは、空虚な想像であることを知っている、しかし、私たちの心の内的なものが喜ばせるので、私たちはここへ入り、また、すべてのものを所有するかように楽しむ。しかし、ここに私たちは、いくらかの時間の間しかとどまらない、それらを終えて私たちは出て行き、またこれほど何度も健全な心が私たちに戻る。しかしそれでも、私たちの幻想の楽しみが、かわるがわる出てくる、そして行なう、時々、私たちは再び入る、また時々、出て行く。このように、私たちはかわるがわる賢明であり、また狂う。
さらにまた、私たちは、狡猾さで他の者からその財産を盗む者にはきびしい(無情な)運命が待っていることを知っている」と言った。
私たちは質問した、「どんな運命が?」
彼らは、「その者はのみ込まれ、そして裸で何らかの地獄の牢の中に導き入れられ、そこで衣服のためにまた食物のために、そしてその後、何らかの小銭のために労働することを強いられ、その小銭を集め、それらの中に自分の心の楽しさを置く。しかし、仲間に悪を行なうなら、自分のもの(個人財産)である小銭の一部を罰金として与えなければならない」と言った。
☆「自分自身に(と)話して」とは何でしょうか? 自分の内心と語ること、自分自身に説き付けて、といったところでしょうか、「ひとりごとを言って」と訳してもよいでしょう。