原典講読『真のキリスト教』623(直訳[5][6]と訳文)

(2) 直訳
[5.] Quare, mei discipuli, cogitate ex Essentia, et ex hac de Persona; [5] それゆえ、私弟子たちよ、本質から考えよ、またこれから位格について。
cogitare enim ex Persona de Essentia, est materialiter cogitare etiam de Essentia; うのは、位格から本質についてえることは、物質的に本質についてもまた考えることであるから。
at cogitare ex Essentia de Persona, est spiritualiter cogitare etiam de Persona. しかし、位格から本質を考えることは、霊的に考えることである、さらにまた位格についても。
Gentiles antiqui, quia materialiter cogitaverunt de Deo, et sic etiam de attributis Dei non modo fecerunt tres Deos, sed plures usque ad Centum; 古代の異教徒は、神について物質的に考えたので、またこのように神の属性についてもまた、三つの神をつくるだけでなく、一〇〇までも多くのものを。
ex unoquovis enim attributo fecerunt unum Deum. というのは、それぞれの属性から一つの神をつくったから。
Sciatis quod materiale non intret in spirituale, sed spirituale in materiale. あなたがたは知る(接続)、物質的なものが霊的なものの中に入らないこと、しかし、霊的なものが物質的なものの中に。
Simile est cum cogitatione de proximo ex forma externa et non ex qualitate ejus; 同様である、隣人について外なる形からの思考に、また彼の性質からでない。
ut et cum cogitatione de caelo ex loco, et non ex amore et sapientia, ex quibus est caelum. そのようにまた天界について場所からの思考に、また愛と知恵からでない、それらから天界がある。
Simile est cum omnibus et singulis quae in Verbo sunt; みことばの中にあるすべてと個々のものに同様である。
quare qui materialem ideam de Deo fovet, et quoque de proximo, et de caelo, non potest quicquam ibi intelligere, est illi Verbum littera mortua; それゆえ、神について物質的な観念を抱く者は、そしてまた隣人について、また天界について、そこに何も理解することができない、彼にみことばの文字は死んだものである。
et ipse apparet e longinquo, dum legit illud, aut meditatur ex illo, sicut equus mortuus. その者自身が遠方から見られた、それを読む時、またはそれから熟考する時、死んだ馬のように。
[6.] Illi, quos vidistis descendentes e caelo factos coram oculis vestris sicut equos mortuos, fuerunt qui occluserunt visum rationalem quoad theologica seu spiritualia ecclesiae apud se et apud alios per peculiare dogma, quod intellectus captandus sit sub obedientia fidei eorum; [6] 彼らは、その者をあなたがたは天界から降って来る者を見た、あなたがたの目の前で死んだ馬のようになった者を、彼らであった、その者は理性的な視覚を閉ざした、自分自身のもとで神学または教会の霊的なものに関して、また他の者のもとで、教義の特別なものによって、理解力は彼の信仰の服従の下で把握されなければならないこと。
non cogitantes, quod intellectus a religione occlusus sit caecus sicut talpa, et in illo mera caligo; 考えないで、宗教により閉ざされている理解力がモグラのような盲目であること、またその中に〔いる〕暗黒そのもの。
et talis caligo, quae rejicit a se omnem lucem spiritualem, obstipat influxum ejus a Domino et e caelo, et ponit pro illo obicem in sensuali corporeo, longe infra rationale in rebus fidei; またこのような暗黒が、それはそれ自体から霊的な光を退ける、主からと天界からのその流入を閉じ込める(妨げる)、またそのためにかんぬき(obex)を置く、感覚的な形体的なものの中に、信仰の事柄の中の理性的なもののはるかに下に。
hoc est, ponit illum juxta nasum, et figit illum in cartilagine ejus, ex quo postea ne quidem odorari potest spiritualia: すなわち、それを鼻の近くに置く、またそれをその軟骨の中に固定させる、そこからその後、決して霊的なものをかぎ出すことができない。
unde quidam tales facti sunt, ut dum sentiunt odorem ex spiritualibus, cadant in deliquium: そこからある種のこのようなものが造られる、霊的なものからのにおいを感じ時、気絶の中に落ち込むような。
per odorem intelligo perceptionem. においによって私は知覚を意味する。
Hi sunt qui faciunt Deum tres. これらの者である、その者は神を三つにつくる。
Dicunt quidem ex Essentia, quod Deus unus sit, at usque dum ex fide sua orant, quae est ut Deus Pater misereatur propter Filium, et mittat Spiritum Sanctum, manifeste faciunt tres Deos. 確かに、本質からと言う、神が唯一であること、しかしそれでもその時、自分の信仰から祈る、それは父なる神が子のために哀れみを示すように、また聖霊を送る、明らかに三つの神をつくっている。
Non possunt aliter, orant enim ad unum, ut misereatur propter alterum, et mittat tertium." 異なってできない、というのは、一つに祈る、哀れみを示すように、もう一つのために、また送る〔ように〕第三の者に」。
Et tunc magister illorum docuit illos de Domino, quod Ille Deus unus sit, in quo Divina Trinitas. またその時、教師は彼らに主について教えた、その神は唯一であること、その中に神的三一性が。
 
(3) 訳文
623. 第三のメモラビリア――
 
 かつて、聖職者と一緒に平信徒からの三百人の者を見ることが与えられた、すべての者は、信仰だけが義認までも、またある者はそれ以上、証明することを知っていたので、学問がある者と教養がある者であった。また、彼らのもとに、天界は恩恵から単に入るのを赦すことであるという信仰があったので、彼らに天界のある社会へ上る許可が与えられた、それはそれでも高いものの間になかった。
 また上るとき、その時、遠方から子牛のように見られた。
 また天界へ入るとき、天使たちにより丁寧に受け入れられた。しかし、会話したとき、彼らを恐れが、その後、身震いが、また最後に死のような責め苦が占め、またその時、自分たち自身を真っ逆さまに投げ落とし、また投げ落とすことの中で死んだ馬のように見られた。
 上る中で子牛のように見られたことは、見るまた知る小躍りして喜ぶ自然的な情愛が対応から子牛のように見られたからであった。また、投げ落とすことの中で死んだ馬のように見られたことは、真理の理解力が対応から馬のように見られたからである、そして教会のものである真理の何もない理解力は、死んだ馬のようである。
 [2] 下方に、降る者を、そして降ることの中で死んだ馬のように見た少年たちがいた。またその時、顔を背け、彼らとともにいた自分たちの教師に言った、「これは何のしるしか。私たちは人間を、またその時、彼らの代わりに死んだ馬を見た。それを私たちは眺めることができないので、顔を背けた。先生、私たちはこの場所の中にとどまりたくないしかし、私たちは立ち去りたい」。また、立ち去った。
 またその時、教師は途中で彼らに、「死んだ馬」が何か教えた。言って、「〝馬〟はみことばからの真理の理解力を意味する。あなたがたが見たすべての馬は、それを意味した。と言うのは、人間がみことばから熟考して進んでいる時、その時、彼の熟考は遠方から馬のように見え、霊的に熟考するかぎり、育ちのよいまた生きている〔馬が〕、そして逆に、物質的に〔熟考する〕かぎり、惨めなまた死んだ〔馬が見える〕」。
 [3] その時、少年たちは質問した。
 「みことばから霊的にまた物質的に熟考することは何か?」
 また、教師は答えた、「私はこれを例によって説明する。だれがみことばを信心深く読む時、内的に、本質的に神について、隣人について、また天界について考えないか?
 神について位格だけから考え、本質から考えないすべての者は、物質的に考える。なおまた、隣人について外なる形だけから考え、また性質から〔考え〕ない者は、物質的に考える。また、天界についてただ場所だけから考え、また愛と知恵から〔考え〕ない者もまた、それらから天界は天界であるが、物質的に考える」。
 [4] しかし、少年たちは言った、「私たちは、神について位格から、隣人について形から、それは人間である、また天界について私たちの上方にある場所から考えた――それゆえ、私たちがみことばを読むとき、その時、私たちは他の者に死んだ馬のように見られるのか?」
 教師は言った、「いいえ、あなたがたはまだ少年である、そして〔それと〕異なってできない。しかし、私は、あなたがたに、知り、理解する情愛を知覚した、それは霊的なものであり、さらにまたあなたがたは霊的に考えるので、というのは、あなたがたの物質的なものの内部に何らか霊的な思考が隠れているから、それをまだあなたがたは知らない。
 しかし、私が言った前のものに戻ろう、物質的に考える者は、みことばを読み、またはみことばから熟考する時、遠方から死んだ馬のように見えること、しかし、霊的に〔考える〕者は、生きている馬のように〔見られる〕こと、また神について物質的に考えるものは、単に位格だけから考え、また本質から〔考え〕ないことである。
 というのは、神的な本質の属性は、たとえば、全能、全知、遍在、永遠性、愛、知恵、慈悲、また恩恵、また他のものなど、多くのものであるから。また神的な本質から発出する属性はm創造と維持、あがないと救い、照らすことと教えることである。
 神について位格から考えるすべての者は、神を三つとする。一つの神は創造者と維持者であり、もう一つ〔の神〕はあがない主と救い主、そして第三〔の神〕は照らす者と教える者であることを言って。しかし、神について本質から考えるすべての者は、、「神は私たちを創造した、また同じ者が私たちをあがない、また救う、そしてまた、照らし、また教える」と言って、神を唯一つとする」。
 ここから理由〔がある〕、神の三一性を位格から考える者は、またこのように物質的に、物質的なものである自分の思考の観念から唯一の神から三つ〔の神〕つくる以外に異なってできない。しかしそれでも、自分の思考に反して、格子の仕切り(おぼろげな視覚)通して本質から神について考えるので、それらの三つは本質によって結合がある、と言うことが〔できる〕。
 [5] それゆえ、私弟子たちよ、本質から、またこれから位格について、考えよ。うのは、位格から本質についてえることは、物質的本質についてもまた考えることであるから。しかし、位格から本質えることはさらにまた位格についても、霊的えることである
 古代異教徒、神について物質的えたのでまたこのように属性についてもまた、神つのとするだけでなく、一〇〇までもくの神としたいうのはそれぞれの属性からつの神としたから
 あなたがたは、物質的なものが霊的なもののらないことしかし、霊的なものが物質的なもののることを知らなければならない。
 外なるからまた性質からでない隣人についての思考同様であるそのようにまた天界について場所からのまた知恵からでない思考〔同様である〕、それらから天界がある
 みことばのにあるすべてと個々のものに同様であるそれゆえ、神についてそしてまた隣人についてまた天界について物質的観念そこに理解することができない、彼にみことばの文字んだものであるその者自身遠方からそれを時、またはそれから熟考する時、死んだのようにられた
 [6] らはそのをあなたがたが天界からってあなたがたの前で死んだのようになったたがその自分自身のもとで神学または教会霊的ものしてまたのもとで、理解力信仰服従把握されなければならないという教義特別なものによって、理性的視覚ざした者であった。宗教によりざされている理解力がモグラのような盲目でありその暗黒そのものいるることをえないでまたこのような暗黒それ自体から霊的退、主からと天界からのその流入またそのためにかんぬきを感覚的形体的なものの、信仰事柄理性的なもののはるかにすなわちそれをくにそれをその軟骨固定させそこからその後、決して霊的なものをかぎすことができないそこから、霊的なものからのにおいを時、気絶むような、あるのこのようなものがられるにおいによって私は知覚を意味する。
 これらの者が神を三つにする。
 確かに、本質から、神が唯一である、と言う、しかしそれでもその時、自分の信仰から、父なる神が子のために哀れみを示し、聖霊を送るようにと祈る、〔これは〕明らかに神を三つとしている。
 異なってできない、というのは、ある神に、もう一つの神のために哀れみを示し、また第三の神を送るように祈るからである」。
 またその時、教師は彼らに主について、その神は唯一であり、その中に神的三一性があることを教えた。

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