私は現在、生活の大半が翻訳である。中身はチャドウィックの辞書である。もちろん、こんなことになるとは20年前にはつゆにも思わなかった。そのいきさつを語ろう。
90年1月、当時代々木にあったパナリンガ学園(長島氏の経営する「日本語学校」)で「ぶどうの木集会」が始まった。この集会は、前年の秋、ジェネラルチャーチのロバート・ヤンギー師が初来日し、そのとき授洗者が数人生まれ、その人たちが「礼拝したい」とのことで開かれることになった。「ぶどうの木」の名称は、集会の主導者の一人である金丸道子姉による当日の発案だった。
さて、午前の「礼拝」、昼の「持ち寄り昼食会」、午後の「話し合い」(ここで今述べた集会名なども検討した)の後、「ジェネラルチャーチには良い説教がいっぱいある。皆さんにもどんどん訳しもらいたい」とリーダー長島氏の意向で、有志を集めて「(説教)翻訳者養成教室」が開かれた。そのときの教材はテリー・シュナール師の「最良の友」だった。この「養成講座」はすぐに消滅してしまったが、私はその後も長島氏から「課題」をいただき、その訳文を指導してもらった。
これが私の翻訳の端緒である。この翻訳者養成の場に、他にも10名ほどいた。しかし、翌月の集会につたない訳文を持参したのは私だけだった(それで長島氏は養成教室の継続をあきらめたのだろう)。
そのときの訳文は中学生かせいぜい高校一年程度の英文和訳であり、読み返したくもない。
私には「人からものを教えてもらえる」ことはそんなにない、貴重な機会だとわかっていた。
約1年の指導期間の後、アルカナ通信103号(91年5月号)に「祖国愛」が掲載された。同通信にはその後2年間ぐらい私の翻訳が載った。
「最良の友」は、その後、何度も訳し直して、林道夫(同志なので敬称を省く)の『クエリテ』No.6(91年12月)に掲載した。これをきっかけに林道夫との長い付き合いが始まった。出版物としての私の初仕事は、やはり林道夫の「新教会文庫」から『夢日記』(自費出版、92年4月)である。
92年には只野百合子(同志なので敬称略)が『ぶどうの木月報』を発行し始め、これにも私の訳文が載ることとなった。
新教会で私にはどのような役割が与えられるのか、はじめはわからなかった。振り返って見れば、新教会では翻訳が必要とされ、その役立ちを果たすことが私にめぐってきたように思える。