初めに、敬称をつけずに柳瀬と呼ぶことについてことわっておく。故人であり、有名な人物は敬称をつけずに呼ぶのが慣わしであるであるから、それにしたがった。
静思社の出版物に初めて出会ったのが83年9月、私(鈴木泰之)が36歳のときであった。それ以来、すべての出版物を入手し、独りで学んでいた。翻訳者の柳瀬はずっと以前から訳していることもあり、ご高齢と推察した。いつかわお目にかかりたいと思っていた。
昭和も平成と変わった初日の89年1月10日、静思社を初訪問した(私が42歳,柳瀬が80歳)。教会活動をしていると知って、礼拝には翌2月の第一日曜から参加し、3月には柳瀬から洗礼を授かった(そのとき、清い香りを感じた。この香りはその後ジェネラルチャーチより再受洗したときも感じた)。礼拝以外にも静思社に出向き、89年には36回お邪魔した。当時『黙示録講解』第9巻,第10巻に携わっておられ,私は6月にその第9巻,8月に第10巻の校正を、それぞれ1週間かけてお手伝いした(出版は9月)。
月に1度の礼拝では(気分が高揚されてくると)お歳とは思えぬほど大きな声で元気に話された。身振りも交え、涙ぐむことすらあって、いわゆる“熱演”であった。これを私は(また他の人も)“柳瀬節”と評した。説教は同じことの繰り返しも多かったが、楽しかった。なつかしい。
翌年(90年)の5月の礼拝をもって、ある理由(ここに述べるのはふさわしくない)で、静思社から別れた(勝手に“飛び出した”のである。これを“卒業”と評する人もいる。静思社を“卒業した人”が数多くいることは後から知った)。他の理由としては、同年正月からは(代々木で)「ぶどうの木集会」が開始され、新教会の礼拝なら、これに参加すればよかった。著作については英訳書を入手し、それを読み始めていた。すなわち、もう静思社から学ぶものはなかった(これが本来の“卒業”であろう)。前年の11月からはマリタ・ロジャースさんによる月2回の「勉強会」が始まり、また鳥田恵さんの「小平新教会」へも3月から参加していた。
たった1年と数か月の短い期間であったが、静思社でいろいろと学べたこと(英訳書を知る、校正の手伝い、など)、新教会の人々と出会えたことに感謝している。
その後、五~六年して、箱根集会(芦ノ湖・アカデミーハウスで、これが最後の集会となった)に参加し、柳瀬と再会したが、先生(ここはこう呼ぶ)は私のことをすっかり忘れていた。そばに付き添われていた佐藤氏が、懸命に思い出させようとされたが、思い出すことはなかった。柳瀬を捨て去ったかのような私であった。これでよかった。