「入試問題」について語った。私の教員時代を語ろう(いくらでも話題はある)。そのうちの「試験」について。
だれもが試験はいやですよね。それでなるべく生徒に負担にならないよう考えた。「(試験では)何でも見てよいことにしてくれ」という生徒が多い。「そうか、そうしよう」となる。
私はずっと「何でも見てよい」試験を課してきた。教科書・ノート・プリント類など持ち込み可である。もちろん「他人の答案」を見てよいはずはない(なお、かつて国語科に辞書を持ち込んでよい試験があった)。
「それじゃ、試験になんない」なんて言う者がいる。試験とは覚えてくること、記憶を試すものと思い込んでいる。数学の場合、論理的思考力が問題となる、そして社会に出て、どんな問題であってもそれを解くときにはいろいろなものを参考にするのは当然。試験でそれをやったまで。
すると、教科書にあるような、基本的なものでなく、相当難しい問題だな、と思うかもしれない。やさしい。教科書にも載っている問題を出題する(たとえば、記号A,B,Cを記号P,Q,Rに変えて)。
定時制なのでそれで十分に試験になる。私のねらいは、「十分に用意してきた者が高得点が取れる」こと。別の言葉で「(試験の)準備した者が勝ち」。なのにこの期待を裏切って、「何でも見ていいんだから、教科書を持ち込んで、うまいこと同じ問題が出ていたら、それを書き写せばいいや」てんで、楽勝科目とみなし、全然やってこない者が(いっぱい)でてくる。
私もバカしゃない。やっぱり準備してこなけりゃ、解けないような問題にする。
結局、結論はどんな問題形式にしても、きちんとやっていた生徒が良い成績を取る。
なお、試験の成績は全部公表した。だれが、といってもペンネームだが、どれだけ得点しているか、もっと詳しくいえば、同じで試験100点に近い得点者もいれば、0点もいる、この事実をちゃんと知ってもらいたいからだった。ペンネームについては「できない子」なんてがあるが、ときどきうまいものがでてくる。そうしたときにはペンネーム大賞を与えたりした。私は「大先生」を自称していた。するとペンネームに「鈴木大先生」なんてのがあった。
成績は(サボりは別だが、辛くなんてしない)なるべく良い成績を与えた。生徒によく「(5段階評定の)成績5をとってくれよ。5をもらうと気持ちいいだろ、出すほうの私だって気分いいんだから。(5の数は)いくつまでなんて決まっていないんだから、ちゃんと勉強してくれりゃ、ドンドン(5を)出すよ」と言ったものだった。それでも5をもらうのはクラスに一人か二人。親の心、子知らず。