(3) 訳文(『天界の秘義』4638番)
[6] 「けれども、賢い者は、『ことによると、私たちにまたあなたがたに十分でないかもしれない』と言って、答えた」は、彼らにわずかにある善が取り去られるので伝達されることができないことを意味する。というのは、このように、来世の中で、善のない真理の中にいる者との善の伝達については、あたかも他の者から善が取り去り、自分自身に適用し、また他の者に伝達しないで、それを汚すかのように振る舞い、そのために、彼らに善の何らかの伝達は生じないからである。これらについて、続く〔創世記〕第37章の終わりに☆経験から見られることができる。
[7] 「しかし、むしろ売る者のところへ出かけよ、またあなたがた自身に買え」は、功績の善を意味する。そのことを自慢する者は、「売る者」である。さらにまた、その中に善のない真理の中にいる者は、他の者よりも来世の中で、そのすべてのものを功績のものとし、外見上、外なる形の中で善のようにする、それでも内なるものの中に悪がある。それにしたがって、主は「マタイ福音書」で言われた、
その日に、多くの者がわたしに言う、「主よ、主よ、あなたの名前によって私たちは預言し、あなたの名前によって私たちは悪魔を追い出し、あなたの名前の中で私たちは多くの力を行使しませんでしたか?」。しかし、その時、わたしは彼らに宣言する、「わたしはあなたがたを知らない、わたしから立ち去れ、不法を働く者たちよ」、7:22(,23)。
また「ルカ福音書」に、
そこから家長が起き上がり、戸を閉め、その時、あなたがたは戸の外に立ち、「主よ、主よ、私たちに開けられてください」と言って、たたくき始める。しかし、あなたがたに答えて、言う、「わたしはあなたがたを知らない、あなたがたがどこからであるか」。その時、あなたがたは、「私たちはあなたの前で食べ、飲に、私たちの街路であなたは教えられた」と言い始める。しかし、わたしは言う、「わたしはあなたがたに言う、わたしはあなたがたを知らない、あなたがたがどこからであるか。 わたしから立ち去れ、不法を働くすべての者たち」、13:(25,) 26, 27。
このような者が「愚かな者」によってここに意味されている者である、そのために、彼らについて同様に次の言葉で言われている、「彼女らもまた、『主よ、主よ、私たちに開けられること』と言って、やって来る。けれども、その方は答えて言った、『まことに、わたしはあなたがたに言う、わたしはあなたがたを知らない』」。
[8] 「けれども、買うために彼女らが立ち去っているときに、花婿がやって来た」は、順序が逆の適応を意味する。
「また、用意のできた者はその方とともに結婚式場へ入った」は、善の中に、またここから真理の中にいた者が、天界の中に受け入れられたことを意味する。
天界は、善と真理の結婚である天界の結婚から結婚式に、主は花婿にたとえられ、そのとき〔彼らは〕その方に結合されるので、ここから教会は花嫁と呼ばれる。
「また、入り口は閉ざされた」は、他の者たちが入ることができないことを意味する。
[9] 「けれどもその後、残りの処女たちもまた、『主よ、主よ、私たちに開けられること』と言って、やって来た」は、仁愛なしの信仰のみから、また、それらの中に主のいのちがなく、しかし、自分自身のいのちある働きから、入ることを欲することを意味する。
「けれども、その方は答えて言った、『まことに、わたしはあなたがたに言う、わたしはあなたがたを知らない』」は、拒絶を意味する。内意で「彼らを知らないこと」は、隣人に対する何らかの仁愛の中に、またそれによって主との結合の中にいないことである。結合の中にいない者は、「知られていない」と言われる。
[10] 「そこで目覚めていなさい、あなたがたは人の子がやって来る日を、時もまた知らないからである」は、信仰の戒めにしたがった生活への熱望を意味する。人間に知られていない受け入れの時や状態が「あなたがたは人の子がやって来る日を、時もまた知らない」によって意味される。
善の中にいる者は、すなわち、戒めにしたがって行なう者は「賢い者」と言われる、しかし、真理の知識の中にいて、また行なわない者は、「愚かな者」と言われる。さらにまた「マタイ福音書」に、主により言われている他の箇所に、
わたしのことばを聞いて、それを行なうすべての者を、わたしは「賢い」者にたとえる……、また、わたしのことばを聞いて、しかし、それを行なわないすべての者は、「愚かな」者にたとえられる、7:24, 26。
☆ 4796~4805番の箇所(本講座『最大の人とその対応』145~151番)参照。