(3) 訳文
47. この章〔創世記第18章〕から、みことばの内意がどんなものであるか、そして人間により読まれているとき、どのようにそれが天使たちに知覚されるか、特に明らかにすることができる。アブラハムがエホバを三人の男の形の下に現われ、また、サラ、アブラハム、また彼のしもべが、彼らのために食べ物を、すなわち、小麦の粉からパン菓子、牛の息子、なおまたバターと牛乳を用意したこと以外に文字どおりの歴史的な意味からは何らかのものが理解されない。それらはこのように起こった歴史的な事実であるけれども、それでも、天使たちによりこのように知覚されない、しかし、まったく文字からと関係なく、それらは「内容」☆の中にあるものにしたがって表象し、意味する。すなわち、そこに歴史的に言われているものの代わりに、人間性の中の主の知覚の状態とその時の神性の交通、なおまた人間性の完全な結合、また神的なものと人間性の本質〔の結合〕の前の、その方の神的な本質〔を天使は知覚する〕。その状態についてもまた〔を天使は知覚するが〕、それについて主が次のように言われた、
神をだれもかつて見ていない、御父のふところにいるただひとりの御子が、その方が示された、「ヨハネ」1:18。
また、そこに食べ物によって天的なまた霊的な善でないなら何も話しに出されていない。それらについては、〔今後の〕解説の中に〔述べよう〕。またさらにその後、サラが翌年の定まった時に生む息子について言われたことは、主の人間性の理性的なものが神的なものにされること以外に他のことは何も知覚されない。最後に、アブラハムがエホバとソドムとゴモラの転覆について話したことは、それらによって、人類のための主のとりなし(調停)以外に何らかのものは何もない。そしてそこの「五十、四十五、四十、三十、二十と十」によって、善に加えられる真理がある者のもとの、また試練と闘争を通して、または他の状態を通して善がある者のためのとりなし(調停)である。みことばの中の他のものもこのようである。そこに示されている個々の言葉の解説から、言葉の個々のものに、歴史的なものも預言的なものも、みことばの〔どこにも〕同様のものが含まれていることを、さらによく明らかにすることができる。
このような内意が、みことばの中のどこにもあること、それらの中ではただ主について、天界の中のその方の王国について、地上のその方の教会について、また特定的に、それぞれの者のもとの教会、このように愛の善と信仰の真理についてだけが扱われていることもまたそれぞれの者に、福音書記者に引用された旧約聖書から明らかにすることができる、例えば、「マタイ福音書」に、
主は、私の主に言った、「わたしの右に座れ、わたしがあなたの敵を足台として、あなたの足を置くまで」22:44。「詩篇」110:1。
それが主について扱っていることは、その場所に引用されているダビデのものの文字どおりの意味からは、見られることができない、しかしそれでも、主以外の他の者が意味されないことは、その方がそこに教えている。
同書に、
あなたは、ベツレヘム、ユダの地、ユダの指導者の中で決して最小の者ではない、というのは、あなたから指導者が出るから、その者はわたしの民を、イスラエルを牧する、2:6。「ミカ書」5:2。
ユダヤ人のように、文字どおりの意味の中にとどまる者は、そこに主が生まれることを確かにここから知っている、しかし、彼らをカナンの地へ戻す指導者と王を期待するので、それゆえ、文字にしたがってそこの言葉を、すなわち、「ユダの地」によってカナンの地を、「イスラエル」によってもイスラエルを、それでもどこにあるか知らず、また「指導者」によって依然として自分たちのメシアを解釈する。そのときそれでも、他のものがユダとイスラエルによって、すなわち、「ユダ」によって天的なもの、「イスラエル」によって霊的なもの、天界の中と地の中に、また「指導者」によって主が意味される。
同書に、
ラマの中で声が聞こえる、悲嘆、叫び、多くの者の泣き叫び。ラケルが自分の子たちを嘆き悲しんでいる、また、子たちが〔もう〕いないので慰められることを欲しない、2:18。「エレミヤ書」31:15。
文字どおりの意味の中にとどまる者は、決してここから、同じみことばの内的なものであるその意味を把握しない。それが、それでも、存在することは、福音書に明らかである。
同書に、
エジプトからわたしはわたしの息子を呼んだ、2:15。「ホセア書」11:1。
この預言者の書に次のように言われている、
イスラエルが少年のとき、わたしは彼を愛した、またエジプトからわたしの息子を呼んだ。彼らは彼らを呼んだ、このように彼らの顔から行った。…また、わたしはエフライムが行くことを行なった、同個所1-3。
内意が存在することを知らない者は、ここにヤコブがエジプトに入るとき、また彼の子孫がここから出るとき、また「エフライム」によってエフライムの種族が、このようにみことばの歴史的なものの中にあるのと同じものが意味されること以外に異なって知ることができない。しかしそれでも、福音書のみことばから、主を意味することが明らかである。しかし、それぞれに何を意味するか、内意によって明らかにされないなら、決して知られることができない。
☆ 「内容」とは各章の中の各節の解説を始める前にその章の「内容」の概略を述べたもの。ここでは2136-41番に述べられている。