@18 inde concludere alius non potuerunt, quam quod tale 注18 inde concludere alius non potuerunt, quam quod taleをet sic tale quodに換えた
(3) 訳文
117 来世に祝福された者のいろいろな住まいがあり、あたかも建築の技術もので、すなわち、直接に技術そのものによるかののような技術で建てられている。祝福された者の住まいについては、前の経験から、1119, 1626-1630番参照。これらは彼らの視覚の前にだけでなく、触覚の前にもまた見られる。というのは、そこにあるすべてのものは、霊と天使たちの感覚に適していて、ここからそれらは人間にあるような身体の感覚に落ち込まないで、そこに彼らに落ち込むからである。私はこのことが多くの者に信じられない、と知っている。その理由は、身体の目で見られず、また肉の手でさわられないものは何も信じられないからである。ここから、今日の人間は、その者に内的なものが閉ざされていて、霊界または天界の中に存在するようになるものについて何も知らない。確かに、みことばから、また教えから、天界があること、またそこの天使が楽しさの中と栄光の中にいる、と言われているが、さらにまた何も知らない。確かに、そこがどのようなものであるか知りたいと願うが、しかし、〔そのことが〕彼に言われるとき、それでも決して信じない。その理由は、心で存在することを否定するからである。知ることを願うとき、単にその時、信仰からの快さの中でなく教えから好奇心の中にいるからである。信仰の中にいない者もまた心で否定する。しかし、信じる者は、天界とその楽しさと栄光についての観念をいろいろなものから、自分自身に得る。それぞれの者は自分の知識のものや知性のものであるようなものから、しかし、単純なものは、身体のものである感覚から得る。
[2] しかしそれでも、大部分の者は、霊や天使たちが世の中の人間よりもさらに鋭敏な感覚を、すなわち、視覚、聴覚、嗅覚、味覚に類似のもの、また触覚、そして特に情愛の快さを授けられていることを把握していない。もし、彼の内的な本質が霊であること、また身体と身体の感覚と肢体が単に世の中の役立ちにふさわしいものであり、また霊それと霊の感覚と器官が来世の中の役立ちにふさわしいものであることを信じさえしたなら、その時、自分自身から、またほとんど自発的に、死後の自分の霊の状態についての観念の中にやって来たであろう。というのは、その時、自分自身で、彼の霊が考える人間そのものであること、また願い、望み、感動する者は、またその後、身体の中に見られる感覚のすべてのものは、彼の霊に固有のものであり、また単に流入によって身体のものである、とを考えるからである。 またこのことをその後、自分自身のもとの多くのもので確信する、またこのようについに、自分の身体のものよりもさらに自分の霊のものでで楽しみを与えられる。