(3) 訳文 110 私は、死んだ後、少しの日の後のある者たちと話した。またその時、〔霊たちの世界に〕新しく来た者であったので、そこの何らかの光の中にいたが、それは彼らに世の光からほとんど異ならなかった。またその光はこのように見えたので、それらの光がどこからであったのか疑った、そのために天界の最初のものに上げられ、そこにさらに照らされている光があり、また、ここから私と話した。彼らは、だれもこのような光を見なかった、と言った。またこの〔上げられた〕行為は太陽がずっと前に沈んだときであった。その時、〔彼らは〕、霊が目を持ち、それによって見ること、それでもいのちが身体の中にあったとき、霊のいのちは単なる思考であり、それどころか主体なしに切り離された思考である〔と考えた〕ことを不思議に思った。その理由は、思考の何らかの実体について、それを見ないので、またその時、単なる思考であるので、それらは身体の中で〔それとともに〕もし主により奇跡的に保たれ、存続しないなら、何らかのそよ風あるいは何らかの火のように消散させられるものとしか異なって知覚せず、考えることができなかったからである。また彼らは、その時、学識ある者がどれほど容易に死後のいのちについて誤りの中に陥るか、また彼らは見るものでないなら他の者よりも信じていないことを見た。そこでその時、彼らが思考だけでなく視覚も、そしてまた残りの感覚も持っていること、またさらに、自分自身に完全に人間のように見られること、自分自身を互いに見、聞き、話し、自分の四肢を接触で感じ、またこのことがいのちが身体の中でよりも鋭敏であったことを不思議に思った。ここから彼らは、人間が世の中で生きたとき、このことをまったく知らなかったことに唖然とした。また、人類を哀れみ、このようなことを何も信じないので何も知らないこと、また他の者よりも、すなわち、教会の内にいる、またみことばを持つ者よりも光の中にいる者を哀れんだ。