84 全般的な不随意的な感覚は、今日、信仰の善と真理の中にいる者のもとでこのようなものである。しかし、悪の中に、またここから虚偽の中にいる者のもとに、もはや何らかの全般的な不随意的な感覚はなく、それ自体を顔の中にも、話し(方)の中にも身振りの中にも見せず、しかし、不随意的なものを装う意志の(随意的な)もの、または自然的なものと呼ばれるようなものがあり、幼児期からの頻繁な使用または習慣によってこのようなものにしたのである。彼らのもとの感覚がこのようであることは流入によって示され、それは音を立てない冷たいものであり、顔全体の中に、その右の部分にも左の部分にも、またここから目の方へ向けて、また左の目からそれ自体を顔の中に広げるものであった。
それらのことによって、大脳の繊維が入り、小脳の繊維を支配すること、またここから架空のもの、見せかけのもの、偽造のものまた欺きのものが内で支配し、外で誠実と善が見られることが意味された。 左の目の方へ、またここから顔の中へも向けられることは、彼らが目的として悪を持つこと、また知力の部分が目的を得るために用いられたことを意味した、というのは、左は知力(知性)を意味するからである。
[2] 今日、彼らが大部分に関して全般的な不随意的な感覚を構成する者である。それでもその者たちは古代にはすべての者のうちで最も天的な者であった、しかし、今日、すべての者のうちで最も邪悪な者であり、またこのことはおもにキリスト教世界からである。後頭部の下と背中に、彼らは数多くいて、見られ、私はそこに幾度となく見、また知覚した。なぜなら、今日、その感覚に関係する者は、隣人に対して悪を欺いて考え、考案する者であり、また友好的な、それどころか最も友好的な顔つきを、そしてまた同様にそぶりを見せ、また愛想よく、あたかも他の者よりも仁愛を備えたかのように話し、またそれでも、交際をする彼らだけでなくか、しかしまた人類のむごい敵であるから。彼らの思考が私に伝えられたが、それらは極悪で、また忌まわしく、残酷で、また虐殺に満ちたものであった。