(2) 直訳
[4.] Secundum: [4.] 第二:
Quod per fidem momentaneae salvationis ex pura et sola misericordia inducatur securitas vitae. 純粋なまた単に☆慈悲だけからの瞬間の救いの信仰から生活の信頼(油断)が引き起こされること。
☆ ここはpura et solaとなっていますが、文脈からはmomentanea「直接の」がよいと思います。それまでpurus misericordiaは主からのもととしているからです。他では[2.]per idまた[5.]per illam fidemとしているのにここ[4.]だけこのようにわざわざ長く書いているのでしょうか?
Securitas vitae oritur vel ex fide impii quod non sit vita post mortem, vel ex fide separantis vitam a salvatione. 生活の信頼(油断)があるいは不信心な信仰から起こる、死後の生活はないこと、あるいは救いから切り離された生活の信仰から。
Hic tametsi crederet vitam aeternam, usque cogitat, “Sive bene vivam sive male vivam, salvari possum, quoniam salvatio est pura misericordia, et misericordia Dei est universalis, quia non vult alicujus mortem.” この者は〔後者〕たとえ永遠の生活(いのち)を信じても、それでも考える、「あるいは私が善く生きる、あるかいは私が悪く生きる、救われることができる、救いは純粋な慈悲であるので、また神の慈悲は普遍的である、またある者の死を欲しない」。
Et si forte incidit cogitatio quod misericordia imploranda sit per voces fidei receptae, potest cogitare, quod hoc possit fieri, si non prius, usque ante mortem. またもしことによると考えがぶつかる(起こる)なら、慈悲を祈らなければならない、受け入れた信仰の言葉によって、考えることができる、このことは行なうことができる、もし前にでないなら、それでも死の後で。
Omnis homo qui in illa securitate est, nihili facit adulteria, defraudationes, injustitias, violentias, blasphemationes, vindictas; すべての人間は、その信頼(油断)の中にいる者、姦淫を何もないとする、欺瞞、不正、暴行(強姦)、冒涜、復讐。
sed carnem suam et spiritum suum ad omnia illa relaxat; しかし、自分の肉と自分の霊をそれらすべてのものにゆるめる(弛緩させる)。
nec scit quid spirituale malum et ejus concupiscentia: 何が霊的な悪とその欲望かも知らない。
si audit aliquid de hoc ex Verbo, est comparative sicut id quod incidit in ebenum et resilit, vel sicut id quod incidit in scrobem et absorbetur. もし、みことばからこれについて何らかのものを聞くなら、比較によってそれのようなものである、黒檀〔の台〕にぶつかり、はずむ(はね返る)こと、あるいはそれのよう、穴にぶつかり、のみこまれること。
[5.] Tertium: [5.] 第五:
Quod per illam fidem damnatio imputetur Domino. その信仰によって断罪が主に帰せられること。
Quis non potest concludere, quod non homo, sed Dominus in culpa sit, si non salvatur, dum unumquemvis potest salvare ex pura misericordia? だれが結論することができないか? 人間でなく、しかし主が責任(過失)の中にあること、もし救われないなら、それぞれの者を純粋な慈悲から救うことができる時。
Si dicitur, quod medium salvationis sit fides; もし言われるなら、救いの手段が信仰であること。
sed quis homo est cui non dari potest illa fides, est enim illa solum cogitatio, quae potest infundi in omni statu spiritus abstracti a mundanis, etiam cum fiducia: しかし、だれが人間であるか、その者にその信仰が与えられることができない、というのは、それは単なる思考であるから、それは世俗的なことから切り離されたすべての霊の状態の中に注ぎ込まれることができる、さらにまた信頼とともに。
et ille quoque potest dicere, “Non possum illam sumere a me ipso;” また彼もまた言うことができる、「私はそれを私自身から持つ(得る)ことができない」。
si itaque non datur, et homo damnatur, quid damnatus aliud cogitare potest, quam quod Dominus in culpa sit, qui potuit et non voluit? そこでもし与えられないなら、また人間が断罪される〔なら〕、何らかの断罪(非難)の何を考えることができるか? 主が責任(過失)の中にあること以外に、その者はできる、また欲しない。
Annon id foret Ipsum vocare immisericordem? それはその方を無慈悲〔な方〕と呼ぶことにならないか?
Ac insuper in excandescentia fidei suae potest dicere, “Cur tot damnatos potest videre in inferno, cum tamen momento potest salvare omnes ex pura misericordia?” そして加えて、自分の信仰(信念)の憤りの中で、言うことができる、「なぜこのように多くの断罪された(地獄に落とされた)者を地獄の中に見ることができるのか? そのときそれでも瞬間にすべての者を救うことができる、純粋な慈悲から」。
et plura similia, quae non aliter vocari possunt quam nefandae insimulationes contra Divinum. また多くの同様のこと、それは神性に対して恐るべき告発(非難)以外に異なって呼ばれることができない。
Ex his nunc constare potest, quod fides momentaneae salvationis ex pura misericordia, sit prester volans in ecclesia. これらから今や明らかにすることができる、純粋な☆慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇であること。
☆ ここも同じく「直接の」がよいと思うのですが?
(3) 訳文
340. [4.] 第二:「純粋なまた単に慈悲だけからの瞬間の救いの信仰から生活の信頼(油断)が引き起こされること」
生活の信頼(油断)は、あるいは死後の生活はない、という不信心な信仰から、あるいは救いから切り離された生活の信仰から起こる。
後者は、たとえ永遠の生活(いのち)を信じても、それでも、「私が善く生きるにしろ、あるかいは悪く生きるにしろ、救いは純粋な慈悲であり、神の慈悲は普遍的であるので救われることができる、またある者の死を欲されない」と考える。またことによると受け入れた信仰の言葉によって慈悲を祈らなければならないという考え起こるかもしれないが、このことは、もし死の前でないなら、それでも死の後に行なうことができる、と考えることができる。
その信頼(油断)の中にいるすべての人間は、姦淫、欺瞞、不正、暴行、冒涜、復讐を何でもないとする。しかし、自分の肉と自分の霊をそれらすべてのものに向けて弛緩させ、何が霊的な悪とその欲望かも知らない。もし、みことばからこれについて何らかのものを聞くとき、たとえるなら、黒檀にぶつかって、はね返るようなもの、あるいは穴にぶつかり、のみこまれるようなものである
[5.] 第五:「その信仰によって断罪が主に帰せられること」
それぞれの者を純粋な慈悲から救うことができる時、もし救われないなら人間でなく、しかし主に責任(過失)がある、とだれが結論することができないか?
もし、救いの手段が信仰である、と言われるなら、しかし、その信仰が与えられることができない人間はだれなのか、というのはそれは単なる思考であり、さらにまた信頼とともに、それは世俗的なことから切り離されたすべての霊の状態の中に注ぎ込まれることができるから。またその者は、「私はそれを私自身から持つ(得る)ことができない」と言うこともできる。そこでもし与えられず、人間が断罪されるなら、でき、また欲しない者である主に責任(過失)があること以外に、何らかの非難を考えることができるのか? それはその方を無慈悲〔な方〕と呼ぶことではないのか?
そして加えて、自分の信念からの憤りの中で、「なぜこのように多くの断罪された者を地獄の中に見ることができるのか? そのときそれでも純粋な慈悲から瞬間にすべての者を救うことができるのに」と言うことができる。また多くの同様のことも、それは神性に対する恐るべき非難としか呼ばれることができない。
そこでこれらから、純粋な☆慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇であることを明らかにすることができる。