原典講読『霊界体験記』 2590

(1) 原文

Quod spiritus ex reflexione sciant quod praesentes

 

2590. Contigerat multoties, cum cogitaretur de aliquo, quod praesens sisteretur, et cum non cogitaretur, quod quasi absens; et quidem cum cogitaretur, quod illico juxta me, imo ad caput; causa proxima mihi visa est, quod cum adessent, absque reflexione non sciverint ii quod adessent, sicut solet fieri in vita corporis, in societatibus, tametsi adsunt, usque absque reflexione non noscitur quod adest, ex quibus quoque constare potest, quid reflexio in altera vita efficiat, ubi non ita per visum corporis sibimet conspicui sunt. 1748, 13 Julius.

 

(2) 直訳

Quod spiritus ex reflexione sciant quod praesentes 霊たちは熟考から知ること、〔だれかが〕居合わせる者〔である〕ことを

2590. Contigerat multoties, cum cogitaretur de aliquo, quod praesens sisteretur, 幾度となく(しばしば)起こった、ある者(だれか)について考えられるとき、居合わせる〔こと〕がひき起こされる(示される)こと☆、

☆これは「うわさをすれば影がさす」です。

et cum non cogitaretur, quod quasi absens; また考えられないとき、いわば不在である(いない)こと。

et quidem cum cogitaretur, quod illico juxta me, imo ad caput; 実際に、考えられるとき、直ちに、私のすぐ近くに、それどころか頭に。

causa proxima mihi visa est, 最も近い原因が私に見られた、

quod cum adessent, absque reflexione non sciverint ii quod adessent, 居合わせるとき、熟考なしに彼らが知らなかったこと、居合わせることを、

sicut solet fieri in vita corporis, in societatibus, tametsi adsunt, usque absque reflexione non noscitur quod adest, 身体のいのちの中で、社会の中で生じることがよくあるように、たとえ居合わせても、それでも熟考なしに、居合わせることを知らない☆、

☆雑感:「心ここにあらざれば視れども見えず」のことばを想起します。

ex quibus quoque constare potest, それらからもまた明らかにすることができる、

quid reflexio in altera vita efficiat, ubi non ita per visum corporis sibimet conspicui sunt. 熟考が来世の中で何をひき起こす(遂行する)か、そこに(どこに)そのように身体の視覚によって自分自身に見られない☆〔ものを〕。

☆余計な話をします:柳瀬訳『霊界日記』では「そこに~見られない」が「……」となっています。こうした「……」の個所はこの訳書に相当に多くあります。(意味が通じないので)訳さないままにした部分をこうしたようです。さて、ここではこの文の最後の「ない」(原文ではnon)が英訳にありません(訳者ブッシュがうっかり落としてしまったのでしょうか)。確かに最後の「ない」がないでは意味をくみ取ることができません。柳瀬氏が「……」としたのも当然だとここで思いました。なお私は英訳書はブッシュ訳でなく、オドナー訳( 1999年ジェネラルチャーチ出版)を参考にしています。

1748, 13 Julius. 1748年7月13日。

 

(3) 訳文

霊たちは、〔だれかが〕居合わせることを熟考から知ること

 

2590. ある者について考えるとき、〔その者が〕居合わせることがひき起こされること、また考えられないとき、いわば不在であることがしばしば起こった。実際に、考えられるとき、直ちに、私のすぐ近くに、それどころか頭に〔起こった〕。居合わせるとき、熟考しないなら、彼らが居合わせることを知らなかったことの最も近い原因が私に見られた。いのちが身体にあるとき、社会の中で生じることがよくあるように、たとえ居合わせても、それでも熟考しないなら、居合わせることを知らない。それらからもまた、熟考が来世の中で、そこにそのように身体の視覚によって自分自身に見られない何をひき起こすか、明らかにすることができる。1748年7月13日。

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