原典講読『霊界体験記』 594

(1) 原文

De spirituum Europaeorum infidelitate

 

594.  Quum legere{1} aliquid de passione Salvatoris nostri, tunc spiritus quidam Europaei, qui Christiani dicti sunt, haec et illa inferebant, cupientes seducere spiritus telluris Jovis, animo seducendi eos a vera fide, ut sua scandala iis communicarent, quae plura sunt, et petuntur a passione et crucifixione Salvatoris nostri; cum tamen incolis telluris Jovis dicerem, quod inter eos tales esse quirent, qui ea narrant, qui in vita corporis potuerunt praedicatores publici esse, et tunc quando ea praedicavissent, etiam commoti, commoverint vulgus ad lachrymas, et usque nunc quod tales subsannatores sunt, quia ex indole sua seu corde nunce loquuntur et ratiocinantur, hoc mirati alterius telluris incolae, et obstupuerunt, quod tale dissidium interiorum{2} eorum esse potuisset, ut sic potuissent loqui, et tamen aliud corde gerere, quod iis, ut dicunt, impossibile est, nam facies non aliud loqui potest, quam cor eorum. 1748, die 28 Jan.

@1 sic ms.; vide praefationem hujus editionis sub capite “Idiosyncrasies”; J.F.I. Tafel legerem substituit

@2 ms. interiorum

☆この段落は標題を含めて交差線で抹消されています。

 

(2) 直訳

De spirituum Europaeorum infidelitate ヨーロッパの霊たちの不信仰について

594.  Quum legere{1} aliquid de passione Salvatoris nostri, 私たちの救い主の受難について何らかのものを読むこと☆のとき、

☆「注」にあるように、著者はこのような書き方をしています、意味は「私が読んでいるとき」でしょう。

tunc spiritus quidam Europaei, qui Christiani dicti sunt, haec et illa inferebant, cupientes seducere spiritus telluris Jovis, その時、あるヨーロッパの霊が、その者はキリスト教徒を言われた、これらやそれらを持ち込んだ、木星の地球の霊たちを惑わすことを望んで、

animo seducendi eos a vera fide, ut sua scandala iis communicarent, quae plura sunt, et petuntur a passione et crucifixione Salvatoris nostri; 彼らを信仰の真理から惑わそうとするつもりで、自分たちのつまづきの石(醜聞)を彼らに伝えるために、それらは多くのものである、また懇願した、私たちの救い主の受難とはりつけにより、

cum tamen incolis telluris Jovis dicerem, quod inter eos tales esse quirent, qui ea narrant, qui in vita corporis potuerunt praedicatores publici esse, et tunc quando ea praedicavissent, etiam commoti, commoverint vulgus ad lachrymas, そのときそれでも私は木星の住民に言った、彼らの間にこのような者がいることができること、その者はそれらを語る、その者は身体のいのちの中で一般の(公けの)説教者であることができた、またその時、それらを説教した時、さらにまた興奮した(心を動かされた)、大衆を涙へと興奮させた(心を動かした)。

et usque nunc quod tales subsannatores sunt, quia ex indole sua seu corde nunce loquuntur et ratiocinantur, また、それでも、今、このようなあざける者であること、自分の性質または心から、今☆、話すまた推論するからである。

☆ nunce は nunc の別形のようです。

hoc mirati alterius telluris incolae, et obstupuerunt, quod tale dissidium interiorum{2} eorum esse potuisset, ut sic potuissent loqui, et tamen aliud corde gerere, このことを他の地球の住民は驚いた、また唖然とした、このような彼らの内部の不一致があることができること、そのように話すことができること、またそれでも他のものを心で抱くこと、

quod iis, ut dicunt, impossibile est, 彼らに、彼らが言うように、不可能であること、

nam facies non aliud loqui potest, quam cor eorum. なぜなら、顔は他のものを話すことができないからである、彼らの心以外の。

1748, die 28 Jan. 1748年1月28日に。

 

(3) 訳文

ヨーロッパの霊たちの不信仰について

 

594. 私たちの救い主の受難について私が何らかのものを読んでいるとき、その時、キリスト教徒を言われたあるヨーロッパの霊が、木星の地球の霊たちを惑わすことを望んで、彼らを信仰の真理から惑わそうとするつもりで、あれこれ持ち込んだ、自分たちの多くのつまづきの石(醜聞)を彼らに伝えるためであり、私たちの救い主の受難とはりつけによって懇願した。そのときそれでも私は木星の住民に言った、彼らの間に、それらを語るこのような者がいることができること、その者はいのちが身体の中にあったとき公けの説教者であることができ、それらを説教した時、さらにまた〔自分自身〕興奮し、大衆を涙へと興奮させた。また、それでも、今、このようなあざける者である、今、自分の性質または心から話し、推論するからである。

 このことを他の地球の住民は驚き、このような彼らの内部の不一致があること、そのように話すことができ、またそれでも他のものを心で抱くことができることに唖然とした。彼らが言うように、そのことは彼らに不可能である、なぜなら、顔は彼らの心以外の他のものを話すことができないからである。1748年1月28日。

原典講読『霊界体験記』 595

(1) 原文

De quodam{1} inter doctissimos

 

595.  Unus maxime famigeratus, et inter celebratissimos propter doctrinas, spiritus is ad me appulit ab infra sursum, sic ab inferiore terra, erat frigidus, quod ab afflatu frigido sentivi{a} manifeste, is dixit se audivisse, quid loquutus cum aliis, sed quae coelestia et spiritualia, nihil intellexisse, tametsi de iis inter primarios scripserat, nec intelligere potuit, quod spiritus inferioris sortis novit, imo nec discere voluit, sic ut increparetur, quod id unum esset necessarium in hac vita, nesciebat quod in altera vita esset. 1748, die{2} 27 Jan.

@1 ms. quodem

@2 ms. di

@a = sensi

☆この段落は交差線で抹消されています。

 

(2) 直訳

De quodam{1} inter doctissimos 最も学問のある者の間のある者について

595.  Unus maxime famigeratus, et inter celebratissimos propter doctrinas, spiritus is ad me appulit ab infra sursum, sic ab inferiore terra, 一人の最も有名な、また教えのためにも最も称賛された者、霊が、彼が私に下から上方へ接触させた(寄り添った)、このようにさらに低い地から、

erat frigidus, quod ab afflatu frigido sentivi{a} manifeste, 彼は冷たかった、そのことを冷たいそよぎ(息)から私ははっきりと感じた、

is dixit se audivisse, quid loquutus cum aliis, sed quae coelestia et spiritualia, nihil intellexisse, tametsi de iis inter primarios scripserat, 彼は言った、自分自身が聞いたこと、何を〔私が〕他の者に話したか、しかし、それらは天的なものと霊的なものである、何も理解しなかったこと、たとえそれらについて書いた第一人者の間に〔私がいて〕も。

nec intelligere potuit, quod spiritus inferioris sortis novit, imo nec discere voluit, 理解することもできなかった、さらに低い種類の霊たちが知っていること、それどころか、学ぶことを欲しなかった、

sic ut increparetur, quod id unum esset necessarium in hac vita, そのように叱責された、そのことはこの生活の中で必要なものの一つであること、

nesciebat quod in altera vita esset. 彼は知らなかった、来世の中にいたこと。

1748, die{2} 27 Jan. 1748年1月27日☆に。

☆ 29日なのでしょうか?

 

(3) 訳文

最も学問のある者の間にいるある者について

 

595. 最も有名なまた教えのためにも最も称賛されたある霊が、下から上方へ、このようにさらに低い地から、私に寄り添った。彼は冷たかった、そのことを私は冷たいそよぎからはっきりと感じた。

彼は、何を〔私が〕他の者に話したか自分自身が聞いたこと、しかし、それらは天的なものと霊的なものであり、たとえそれらについて書いた第一人者の間に〔私がいて〕も、何も理解しなかったことを言った。低い種類の霊たちが知っていることを理解することもできなかった、それどころか、学ぶことを欲しなかった、そのように、そのことはこの生活の中で必要なものの一つである、と叱責された。彼は、来世にいたことを知らなかった。1748年1月27日。

川の流れに「上流・中流・下流」がある、その先は?

寄稿

川の流れに「上流・中流・下流」がある、その先は? 

すなわち「最下流」

 鈴木泰之

(1)四大区分が多い

 三大区分がある「上・中・下」「上等・中等・下等」、また「序・破・急」表題のように「上流・中流・下流」など。しかし四区分のほうがさらに一般的であろう、「春夏秋冬」の四季、「東西南北」の四方位、「起承転結」、和音は四声一組だとまとまりがよい、すなわち、ソプラノ・アルト・テノール・バスなど。

 人生も三区分よりも四区分で捕えたほうがよい、そしてその一期間がおよそ二十年であろう(もちろん多少の幅がある)、すなわち、幼少期や青年期を経て成人となる20歳まで、壮年前期といえる40歳まで、壮年後期であり、多くの場合「定年」また「還暦」である60歳まで、そして、老後の20年間、80歳まで。これ以降は付録(おまけ)と思えばよい。 

「時の経過」を意識すれば、人生の各時期は「春・夏・秋・冬」に例えられる。ここで人生の「勢い」と「量」を意識してみる、すると「川の流れ」に思い当たる。

 

(2)川の流れは上流・中流・下流、その先は?

始めはちょろちょろと水量はほんのわずか、斜面を降るので、流れは早い、上流では落差もあって滝となることも多いある(地形によって中流でも)。ほどなく水量は増え川幅も増す、勢いもある、これが中流であり、魚も釣れる。下流となると、流れは緩やか、川幅は(支流などを加えて)大きく広がる。やがて海で終わる。ここには「人生」を暗示するものがある。

 普通この三区分であるが、私はやはり四区分がよいと思う、すると、どのように四区分とするのか? それが「最下流」。私は息子の住む江東区深川に行くことがある、そのとき水天宮駅を出て隅田川大橋から「隅田川」を眺める(スカイツリーもよく見える)、川面を水上バスが行く、少し下れば東京湾、ここは「最下流」であろう。一見、流れていないようだが、よく見れば浮遊物などから流れているとわかる、しかも、満潮時には「逆流」もする。穏やか眺めであっても、水面下では莫大な量の水が流れている。

私は73歳、川で言えば「最下流」(暮らし向きも年金だけの収入なので、これに近づいている?)。その最下流も前半を終え、後半に入っている。

 

(3)「最下流」で(暮らし向きだけでなく)何を言いたいのか

外観的には「動きが止まっているように見える」かもしれない、しかし「水面下で大量な水が流れている」ように、心の中で「豊かな水」が流れている、すなわち、いろいろと「味わうべきもの」が去来している。老年期を迎えた諸氏なら同感ではなかろうか。

また、このように万事が急ぐことなくゆったりとしている。目前のことなら翻訳のペースが遅くなっている(しかし、じっくり取り組むようにもなっている)、これは『結婚愛』の出版が遅れたいいわけでもある。

 

(4)私の寿命は84歳か?(ずっと以前からこう思っている) 

 最下流ともなると終わり(海)を意識する。すなわち、あと何年に生きるのか。これについてずっと前から「計算済み」である。人によって異なるとは思うが、たいていの男は「7年」が一区切りである。すなわち、7年ごとに人生の節目を迎える、7歳(七五三の最後)、14歳、21歳(この年で大学終了の人も多い)、28歳(結婚する人もいる)、35歳、42歳(厄年)……63歳(スヴェーデンボリ出版)など。そして7×12=84。

 一週間は7日であり、聖なる数である、また12は(3×4)の「完全な数」であり、一年は12カ月である。なので84に、私はある意味で「完結」を感じ、また、スヴェーデンボリは84歳で亡くなっている。それで、84まで生きたい、それまでに二つほど出版できれば、と願っている(一つは「霊界体験記」)。

 

* * * * *

 これはスヴェーデンボリ出版読者の会(SPSC)の「SPSC会報18号」へ寄稿です(来る4月上旬発行)。会員の方にお先に読んでいただくことになります。同号ではスヴェーデンボリ出版10周年や『結婚愛』(教えの部部)などが記事となります(会報は基本的に出版に合わせて発行します)。私はこの会の役員(事務局員)です。

 会員となっていただければありがたいです。

原典講読『霊界体験記』 596

(1) 原文

Continuatio de Jovis incolis

 

596.  Quod gustum ciborum attinet, non praeparant{1} cibos secundum gustum, sed secundum usum, quem [cibus] corpori dat;qui utilior corpori, est quoque iis sapidior, et quasi dulcior, proinde non a gustu auferuntur in luxuries, qua corporis{2} sanitas pessumdatur, et inde patitur mens, quae sana in sano corpore est: si corpori consulitur, interioris hominis{3} gratia. Aliter ac in nostra tellure, ubi gustus imperat, et sic corpus aegrotat, et mens insanit.

@1 sic J.F.I. Tafel; ms. praeparat

@2 sic J.F.I Tafel ms. corpori

@3 ms. homini

☆この段落は標題を含めて交差線で抹消されています。

 

(2) 直訳

Continuatio de Jovis incolis 続き 木星の住民について

596.  Quod gustum ciborum attinet, non praeparant{1} cibos secundum gustum, sed secundum usum, quem [cibus] corpori dat; 食べ物の味については、食べ物を味にしたがって用意しない、しかし、役立ちにしたがって、それに(食べ物に)身体に与えられる。

qui utilior corpori, est quoque iis sapidior, et quasi dulcior, 身体にさらに役立つ(さらに有用である)ものが、彼らにもまたさらに味がよい(うまい)、またいわば甘い(心地よい、味がよい)、

proinde non a gustu auferuntur in luxuries, qua corporis{2} sanitas pessumdatur, et inde patitur mens, quae sana in sano corpore est: それゆえに、味によりぜいたくの中に連れ去られない、それによって身体の健康(健全)は滅ぼされる(=損なわれる)、またここから心は苦しむ(損害を受ける)、それは健康(健全)は身体の中で健康(健全)である――

si corpori consulitur, interioris hominis{3} gratia. もし、身体に利益をはかる(意を用いる、思いやる)なら内的な人間のために〔である〕。

Aliter ac in nostra tellure, ubi gustus imperat, et sic corpus aegrotat, et mens insanit. そして私たちの地球の中で異なって〔いる〕、そこでは味が支配している、またこのように身体が病んでいる、また心が狂う。

 

(3) 訳文

続き 木星の住民について

 

596. 食べ物の味については、食べ物を味にしたがって用意しない、しかし、食べ物が身体に与える役立ちにしたがって用意する。身体に役立つものが、彼らにもまた味がよい、いわば、うまい。それゆえ、味によりぜいたくの中に連れ去られない、ぜいたくによって身体の健康は損なわれ、ここから心は害を受ける、心の健康(健全)は身体での健康(健全)である――もし、身体を思いやるなら、内的な人間のためにである。

 そして私たちの地球では異なり、そこでは味が支配し、このように身体が病み、心が狂っている。