原典講読『霊界体験記』 [477a],478

(1) 原文

De Phantasiis, quomodo exuuntur et quales remanent{1}

 

[477a.] Praeterea etiam Mahumed hic erat, qui tali facultate pollet, ut intelligere possit quid verum et bonum, cum quo simul loquutus sum, de phantasiis quae regnant apud spiritus, qui primo veniunt in eam vitam, sic ut modo phantasiae sint, quae omnino exuendae{2}, quaeque difficulter et cum renisu exuuntur, quia homo iis favet, et sibi in iis placet, quare paullatim a Jesu Christo exuuntur{3}, et reducuntur ad interiores, et sic intimiores, quae correspondent veritati et bonitati, et cum iis una esse possunt, inde gaudium et laetitia coelestis, et sic homo ex suis cum delitiis quoque vivit; haec cum Mahumede Meckae, et erat alter quoque Mahumed, sed quisnam, non scio, dicitur, quod is quoque adoretur, sic ut uterque facultate intelligendi verum et bonum polleat, et quidem fateatur, quod fons omnium veritatum et bonitatum, est Jesus Christus, quod hic testari volunt ex tam multa experientia, ut nemo usquam possit de eo dubitare.

@1 his titulus postscriptum interlineale est, post pataitur apparens〔この題名が間に汚れて後から書かれている、pataitur が見られる後ろに〕

@2 ms. exeuendae

@3 ms. exeuntur

 

478. Quod de phantasiis dictum, intelligendum est, quod cum renisu exuantur, nempe crassiores, quae sunt corporis, et naturalis{1} animae, verum remanent interiores, quae conformes sunt, et sic concordes cum veritate et bonitate vere coelesti, inde homo vivit, sicut ex se, cum gaudio et laetitia coelesti, et hoc est iris, de qua in Genesi [IX: 12-17], conformatio ejus a Solo Jesu Christo, fit, et formatur. 1748, die 15 Jan.

@1 nisi potius legeris cum J.F.I. Tafel naturals

 

(2) 直訳

De Phantasiis, quomodo exuuntur et quales remanent{1} 幻想について、どのように取り去られる(脱がされる)か、またどんなものが残るか

[477a.] Praeterea etiam Mahumed hic erat, qui tali facultate pollet, ut intelligere possit quid verum et bonum, ほかに、ここにムハンマドもまたいた、その者はこのような能力を賦与されている、何が善と真理か理解することができるような、

cum quo simul loquutus sum, de phantasiis quae regnant apud spiritus, qui primo veniunt in eam vitam, その者とともに一緒に、私は話した、幻想について、それは霊たちのもとで支配している、その者はその生活(いのち)の中に最初にやって来る、

sic ut modo phantasiae sint, quae omnino exuendae{2}, quaeque difficulter et cum renisu exuuntur, そのように、単なる幻想である、それはすべての点で(完全に)取り去られ(脱がされ)なければならない、そしてそれらはやっとのことでまた抵抗とともに取り去られる(脱がされる)、

quia homo iis favet, et sibi in iis placet, 人間はそれらに好感を持つ、また自分自身でそれらの中で喜ぶからである、

quare paullatim a Jesu Christo exuuntur{3}, et reducuntur ad interiores, et sic intimiores, それゆえ。少しずつイエス・キリストにより取り去られる(脱がされる)、また内的なものへ戻される、またこのようにさらに最内部のものへ、

quae correspondent veritati et bonitati, et cum iis una esse possunt, それらは〝真理〟と善良さに対応する、またそれらとともに一緒にいることができる、

inde gaudium et laetitia coelestis, et sic homo ex suis cum delitiis quoque vivit; ここから、天界の楽しさと喜び〔がある〕、またこのように人間は自分自身から歓喜とともにも生きる。

haec cum Mahumede Meckae, et erat alter quoque Mahumed, これらをメッカのムハンマドと〔話した〕、またもうひとりのムハンマドもいた、

sed quisnam, non scio, dicitur, quod is quoque adoretur, しかし、だれ〔である〕か、私は知らない、言われている、彼もまた崇拝されていること、

sic ut uterque facultate intelligendi verum et bonum polleat, et quidem fateatur, quod fons omnium veritatum et bonitatum, est Jesus Christus, このように両方とも真理と善を理解する能力を賦与されている、実際に、告白している、すべての〝真理〟と善良さの泉(源泉)は、イエス・キリストであること、

quod hic testari volunt ex tam multa experientia, ut nemo usquam possit de eo dubitare. このことを彼らはこれほどに多くの経験から証言することを欲していること、だれも決してそのことについて疑うことができないような。

 

478. Quod de phantasiis dictum, intelligendum est, quod cum renisu exuantur, nempe crassiores, quae sunt corporis, et naturalis{1} animae, 幻想について言われたことは、理解されなくてはならない、抵抗とともに取り去られる(脱がされる)こと、すなわち、さらに粗野なものが、それらは身体のものである、また自然的なものが、〔それらは〕霊魂のもの、

verum remanent interiores, quae conformes sunt, et sic concordes cum veritate et bonitate vere coelesti, けれども、内的なものは残る、それらは一致した(調和した)ものである、またこのように天界の〝真理〟と善良さに一致した(調和した)〔ものである〕、

inde homo vivit, sicut ex se, cum gaudio et laetitia coelesti, et hoc est iris, de qua in Genesi [IX: 12-17], ここから人間は生きる、自分自身からのように、天界の楽しさと喜びとともに、またこれが「創世記」〔11:12-17〕の中の虹である、

conformatio ejus a Solo Jesu Christo, fit, et formatur. その〔調和した・一致した〕構造(組織体)はイエス・キリストおひとりにより、生じる、また形作られる。

1748, die 15 Jan. 1748年1月15日に。

 

(3) 訳文

幻想について、どのように取り去られる、またどんなものが残るか

 

[477a.] ほかに、ここにムハンマドもまたいた、その者は何が善と真理か理解することができるような能力を賦与されている。その者とともに一緒に、私は、その生活(いのち)の中に最初にやって来る霊たちのもとで支配している幻想について話した、それは完全に取り去られなければならない、そのように、単なる幻想であり、そしてそれらはやっとのことでまた抵抗とともに取り去られる。人間はそれらに好感を持ち、自分自身がそれらを喜ぶからである。それゆえ。少しずつイエス・キリストにより取り去られる、また内的なものへ、またこのようにさらに内的なものへ戻される。それらは〝真理〟と善良さに対応し、それらとともに一緒にいることができるものである。ここから、天界の楽しさと喜びがあり、このように人間は自分自身から歓喜とともにも生きる。

 これらをメッカのムハンマドと〔話した〕、またもうひとりのムハンマドもいた。しかし、だれであるか、私は知らない、彼もまた崇拝されている、と言われている。このように両者とも真理と善を理解する能力を賦与されている、実際に、すべての〝真理〟と善良さの源泉が、イエス・キリストであること、〔また〕このことを彼らは、だれも決してそのことについて疑うことができないようなこれほどに多くの経験から証言することを欲していることを告白している。

 

478., 幻想について言われたことは、抵抗とともに取り去られること、すなわち、身体に属すさらに粗野なもの、また霊魂に属す自然的なものが取り去られることが理解されなくてはならない。けれども、それらは調和したものであり、このように天界の〝真理〟と善良さに一致したものである内的なものは残る。ここから人間は、自分自身からのように、天界の楽しさと喜びとともに生きる、これが「創世記」〔11:12-17〕の中の虹である、その〔調和した〕構造(組織体)はイエス・キリストおひとりにより、生じ、形作られる。1748年1月15日。

原典講読『信仰』の改定・常体と敬体・その他

(1) ここで、原典講読『信仰』見直し、誤訳部分など訂正しました。

 直訳の部分はあまり手を加えず、おもに「訳文」の部分をついでに「常体」から「敬体」へ変えました。

これにより、現在出版中の「スヴェーデンボリ出版」のものと似たものとなります。

 よろしかったら、ながめてください。

 今後、暇を見つけて、これまでの原典講読を改定していく予定です。この後は『宗教と生活{

 

(2) 常体と敬体について

 文章には常体(「~だ」調、「~である」調)と敬体(「~です・~ます」調、「~でございます」調、「であります」調)があります。

 私はこれを適宜使い分けています、原典講読は全体的には常体です。でも、注釈など、「解説する」とき敬体としています(このほうが、読者が語りかけられているようで、読みやすいでしょう)。

 

(3) 新刊『結婚愛』は常体と敬体

 現在出版を出版を目指している『結婚愛』も最終段階に入っっており(校正を何度もしています)、着たり3月1日、「校了」となり、4月中旬に出版となるでしょう(そのときはまたお知らせいたします)。

 大著なので二卷ものとしました、その際、適当なところで前後に区切るのではなく、内容で二冊としました。すなわち、「教えの部」と「メモラビリアの部」です。

 本書の各章の終わりに霊界での体験談である「メモラビリア」が載っています、これを全部まとめ、また長大な「序文」(これも体験談です)を合わせて、一卷としました、このほうが読みやすいはずです。

 さて、そこの文体ですが、「教えの部」は敬体です。そして「メモリアリアの部」は常体です、体験談は一種の「報告文」であり、報告文(学術書なども)は常体で書かれます、これにならいました。

 

(4) 10周年と出版祝い?

 スヴェーデンボリ出版はここで10周年です、ここで『結婚愛』出版を、合わせて祝えたら、と願っています。確定したらお知らせします(上記のように4月中旬予定)。