(3) 訳文
さらに内的なもの、すなわち、さらに内的な形について、決して襲いかかって取られることはできないこと、しかし、それぞれが攻撃的に振る舞われることに抵抗すること、また常に、さらに堅く残る。
内的な形に、そのようにまして低い自然的な形に異なっている
(欄外に)天的なものなしに霊的なものとは何か、砕かれる
241. 私は、形について、そのうえ、霊的な形であるさらに内的なものの思考の中にいた。それは、すべての攻撃に抵抗するような、またそれはその特性(属性)であり、不安と制限によって、常に存在可能なすべてのものの中に、このように無限の形に、もとの状態にすることができるようなものである。低いスフェアの中の形にまでも、すべてのものにあてはめられることができる、そのうえ、それらをいわば何も気にしない、低いスフェアの中に住んでいる者がどれほど、そのことを考えても、自分自身から推論するからである、なおまた、さらに確信すればするほど、さらに悩まされる。
(1) あるものが限定されないものから一緒に行動し、そしてそれ自体を他のものの防御へ向けて結合させる、なぜなら、全般的なものの中に、個々のものにより、それどころか最も個々のものにより、限定さないものにまでも、それどころか無限のものにまでも守られ、永遠に存続し、決して損なわれることができないようにするものは何もないからである。また、多くのものが、その形の不変性から、導かれた秩序によって、得られることができ、それによってその完全性へ目を向ける。その全般的なものは個別のものを守り、すべての個別のものは全般的なものを確立するために調和して行動する、そのうえ、さらに譲る〔=形がたわむ〕、すなわち、譲っているほど、そしてそのよう私が言うようが、柔らかく、それだけ堅く確立する、なぜなら、その時、普遍的なものの中のそして個々のものの中の最内部のものは、それはその普遍的なものであ、ともに働くからである、等々、等々。(欄外に)なおまた、これほどに理性のないものは、理性的なものの中へ戻されないもの、またこのように有限なものの限定されないものの中に、すなわち、無限の中に、ここに神メシアの中に見つからない何もないこと☆1。
(2) 今日、朝、これらが形から考えられ、またさらに内的な、そして最内部の天界の天使たちは、それを私が信じるように、把握した、しかし、全天界と彼らの抵抗と不変性に、霊的なものと天的なものである忍耐と同様のものに向けて適用され、そして、そのように、私に伝えられた声で、それらを確信し、これまでにこのように人間の心の中にやって来ることができたことに驚いた。そのように人間の心が〝真理〟を知る時、神メシアの慈悲から、それはさらに内的な、また最内部の天界へ移る。
(3) 虚偽があり、自然的なものの中にもある時、まったく異なる、それらにより、今日、学界は、だれもほとんど何が真理が、また何が善かほ、自然的なものの中で、道徳的なものの中でも〔知ら〕ないそのようにも「はかりにかけられている☆2」。ここからさらに内的な天界、このように最内部の天界との伝達もまた取り去られている。
これらを私が書くとき、自然的な言葉は適切であることができない、私の心の中に多くの自然的なものが含まれており、それをこのように純粋に霊的なものが示されるようには、取り除くことができるように〔できない〕。
(4) けれども、そこに自然的なものがある内的な形の中で異なり、それは損なわれる、これがそのようにさらに低い自然的なものと、すなわち、不完全なものにつくられた形と伝達する、容易に砕かれることができるように、また、さらに自然的なものならなおさらますますそれだけ容易に〔伝達する〕、すべてのもの永続性はさらに内的なものからやって来る、またこの〔永続性は〕最内部のものから、またこのように神メシアからである。それどころか、最内部のものがなくあたかもそれを満たしてかのような霊的なものそのものは砕かれる、そのことを、驚くべき表象によって、なおまた経験によって学んだ。人間の中で依然として支配し、あたかもさらに内的なものであるかのような外見をひき起こしているものはこの霊的なものである、そのときそれでも内的なものである、そのように思考と呼ばれている、しかし、推論の誤用である、なぜなら、理性的なものはそれ自体の内部に本質的な真の霊的なものを、またこれは内部に本質的な天的なものを持っているからである。1747年11月6日、旧暦。
☆1 これらの言葉が、おそらくここに置かれるようにと欄外に書き加えられています。このことは『索引』の「Dominus」で次のように述べられています――
それほどに理性のないものは、無限の力により、すなわち、主により、理性的なものへそらされることができないものは何もないこと、241番、欄外に。
☆2 「はかりにかけられている」は「対立している」とする英訳書があります。