(3) 訳文
祝福された者の幸福を知覚するとき、悪い者の、このように地獄の群れのもとの、ねたみの結果の立証
166. かき乱された眠りの後、目覚めの最初のころに、あたかも緑の月桂樹のような幻が、長くまた二重の交わりとなって続き、互いの間で隔たりがある、最も美しい順序で、一緒につながり、動くことのできる花冠とともに、その美のために記述されることが十分にできない、またここから至福の情愛、調和から流れ出る、これほどに快い幻が表象された。
これらは。悪い霊たちにもまた非常にはっきりとしていた。その後、他の幻が、さらに美しい、また推量することが許されているように、天界の幸福と結合した最も快いいものが続いた、しかし、非常に不明瞭に見ることのできるものでしかなかった。幼児が天界の遊びの中にいて、言葉にできないそれらが心を最高度に動かした、それらは明瞭に明らかで知覚できるものではなかった、それらを最内部の天界の天使たちは〔でき〕、これらを目覚めの中で〔見た〕。
その後、私はそれらの幻について霊たちと話し、その者は、私と同様に最初の幻をはっきりと見たこと、しかし第二のもの見ず、それもまた見れるよう最高度に熱望していることを本気で言った。ここから、彼らのもとに憤りが、その後、段々とねたみが起こり、私に彼らのそのねたみを感じて、気づくことが与えられた、教えられて〔私に〕貢献するかぎり、〔そのことが〕何も私から逃げ去らないように。ねたみは、彼らがこの第二の幻を、第一のもののようにはっきりと見なかったことであり、彼らのもとに最高度の反感だけでなく、しかし最内部の苦痛もまたがひき起こされるようなものであった。その後、彼らは多様なねたみによって、〔よく〕言われるように、あたかも彼らの胸の奥までも苦しむように、導かれた。
彼らがその状態の中にいた時、私は彼らのねたみについて、いろいろなことを、最初の幻を見たので満足できること、またもし正直な性質であったなら第二のものも見ることがであろうことを言った。ここからもまた憤りが〔起こり〕、それによってねたみは増され、その後、それを思い出すことに決して耐えられず、むしろ苦痛で満たされるようなものであった。順に発出し、ねたみとここから不信心な者にとどまるような実際に起こる苦しみが示されような、その多種多様なものは、記述されることができない。ここから、彼らの責め苦だけでも記述されることができない、なぜなら、私はそのねたみを私のもののようにでなく、彼のもののように把握したからである。ねたみの様な進行の段階に関して、私は霊たちと話した、その時、私はその者を少しも慰めることができなかった。
ここから、敬虔な者の至福を見る時、ねたみに関しでだけ、不信心な者の将来の状態がどんなものか、ある程度、知ることができる。
多くのものが起こり、それらを私は記憶に保持することができなかった、それらの霊たちも、大部分の場合、それらが明らかにされるように欲しなかった、それゆえ、彼らにもまた、ある種の事柄の記憶を密かに取り去ることが許された。
1747年8月☆25, 26日、旧暦。
◎参考のためにスヴェーデンボリ出版の『みことばとその内意・表象と対応』の71番を掲載してきます。
これは『天界の秘義』1974番であり、この「霊界体験記」に基づいて書かれています。
七一 [一九七四] かき乱された夢の後、初更
( ★ ) の頃、最も快い光景が示されました。緑の、最も美しく整えられた、生きているように動き、美と調和のために述べられることができないような形をしたこぎれいな月桂樹の冠があり、ここから幸福の状態の情愛の流れ出るようでした。二列で互いの間が少し離れ、〔枝を〕十分に長く〔伸ばして〕交わり、また常に、美のさまざまな状態でした――これは霊に、さらに悪い者にも知覚されました。その後、なおさら美しい他の光景が続き、その中に天界の幸福がありました、しかし、ただ不明瞭に見えました。幼児たちが天界の遊びの中にいて、それが言語に絶する方法で心を感動させました。
[2] その後、それらの光景について霊たちと話し、その者は、私と同様に最初のものを見たこと、しかしもう一つのものは、何であったか言うことができなかったような不明瞭なものしか見なかったことを認めました。ここから、彼らのもとに憤りが、その後、天使と幼児がそれを見た、と言われたので、そのことから次第に、ねたみが生じました。彼らのそのねたみを、感覚でとらえらるように知覚することが与えられ、そのように教えに向けられているかぎり、私から何も逃げ去りませんでした。〔その〕ねたみは、彼らがもう一つのものもまた見なかった、という理由だけから、彼らのもとで極度の悩みだけでなく、苦悶と内的な苦痛もまたひき起こすようなものでした。ここから、多様なねたみよって導かれ、胸の奥までも悲しみました――
[3] その状態の中にいたとき、私は彼らとねたみについて、最初のものを見ることに満足していることができること、さらにまたもう一つのものも、もし善良な者であったなら〔見ることが〕できる、と話しました。ねたみの状態と進行は、その程度、〔その〕増大、アニムス(気質)と心の病気で変化また混合したものとともに、述べられることができません――このように、不信心な者が、単なる〔自分の〕ねたみから、遠方から善良な者の幸福の状態を見るとき、それどころか、ただそれについて考える時、どれだけ苦しめられるかが示されました。