原典講読『啓示された黙示録』 962(直訳[7]から終わりまで)

[7] Post haec sequebatur Deliberatio de Spiritu Sancto. [7] この後、「聖霊」についての考慮が続けられた。

Et primum detecta est plurium idea de Deo Patre, Filio et Spiritu Sancto, quae erat sicut Deus Pater sederet in alto, et Filius ad dextram Ejus, et a Se emitterent Spiritum Sanctum ad illustrandum et docendum homines. また、最初に、多くの観念(考え)が示された、父なる神、子、また聖霊について、それらであった、父なる神が高いところに座る、また子はその方の右に、それ自体☆から聖霊を送る、人間を照らし、教えるために。

☆ seは単複同形です。それで「ご自分たち(父と子)から」の意味です。

At tunc audita est vox e Caelo, dicens, “Non sustinemus illam cogitationis ideam; しかし、その時、天界から声が聞かれた、言って、「私たちはその思考の観念を支えない(保持しない)。

quis non scit quod Jehovah Deus sit Omnipraesens: だれが知らないか? 神エホバは遍在されること――

qui hoc scit et agnoscit, etiam agnoscet quod Ipse illustret et doceat, et quod non sit Deus intermedius, distinctus ab Ipso, et minus a duobus, ut persona a persona; このことを知り、認める者は、さらにまた認める(未来)、その方は照らす、教える、こと、またその方から区別される、媒介として働く神ではない、まして二つのものから〔区別される〕、位格から位格のように。

quare removeatur prior idea quae est vana, et recipiatur haec quae est justa, et videbitis hoc clare.”  それゆえ、前の観念は取り除かれる、それはむなしい、またこれが受け入れられる、それは正しい、また、あなたがたはこれをはっきりと見る」。

[8] Sed tunc iterum audita est vox ex Romano Catholicis, qui se in angulo templi occultaverant, dicens, “Quid tunc est `Spiritus Sanctus,’ Qui in Verbo nominatur apud Evangelistas et apud Paulum, a Quo tot docti e Clero, imprimis a nostro, se dicunt duci; [8] しかし、その時、ローマカトリック教徒からの声が聞こえた、その者は神殿の隅に隠れていた、言って、「その時(そのとき)、「聖霊」は何か? それはみことばの中に名前を挙げられている、福音書のもとに、またパウロ〔の手紙〕のもとに、そこから聖職者からの学識ある者全部は、特に私たちからの、自分自身が導かれることを言っている。

quis hodie in Christiano orbe Spiritum Sanctum et Ejus operationem negat.” 今日のキリスト教世界の中で、聖霊を、またその働きを、だれが否定するのか?」

Ad haec convertit se unus et illis qui super soliis secundi ordinis sedebant, et dixit, “Spiritus Sanctus est Divinum procedens a Jehovah Domino. これに彼らからのある者が向きを変えた、その者は第二列の椅子の上に座っていた、また言った、「聖霊は、エホバ主から発出する神性である。

Vos dicitis quod Spiritus Sanctus sit Persona per se et Deus per se; あなたがたは言う、 聖霊はそれ自体によって位格であること、また神はそれ自体によって〔位格である〕。

sed quid est Persona exiens et procedens a Persona, nisi operatio exiens et procedens. しかし、位格から出る、また発出する位格は何か? 出る、また発出する働きでないなら。

Non potest una persona et altera per alteram exire et procedere, sed operatio potest. ある位格は他のもの〔位格〕から出ること、また発出することができない、しかし、働きはできる。

Aut quid est Deus exiens et procedens a Deo nisi Divinum exiens et procedens. または、神から出る、また発出する神は何か? 出る、また発出する神性でないなら。

Non potest unus Deus ab altero per alterum exire et procedere, sed Divinum potest. 一つの神は他のもの〔神〕から、他のもの〔神〕によって出ること、また発出することができない、しかし、神性はできる。

Estne Divina Essentia Una et Individua: 神的本質は一つまた分けられないものではないのか?

et quia Divina Essentia seu Divinum Esse est Deus, estne Deus Unus et Individuus.” また、神的本質、すなわち、神的エッセ(存在)は神であるので、神は一つまた分けられないものではないのか?」

[9] His auditis, sedentes super soliis unanimiter concluserunt quod Spiritus Sanctus non sit Persona per se, nec Deus per se, sed quod sit Sanctum Divinum exiens et procedens et Unico Deo Omnipraesente, Qui est Dominus. [9] これらで聞いて、椅子の上に座っている者は、一致して結論に達した、聖霊はそれ自体によって位格でないこと、それ自体によって神でない、しかし、遍在する唯一の神から出る、また発出する聖なる神性であること、それは主である。

Ad haec dixerunt Angeli stantes ad mensam auream, super qua erat Verbum, “Bene; これらに、金の机〔の脇〕に立っていた天使は言った、その上にみことばがあった、「よろしい!

non legitur ullibi in Veteri Foedere quod Prophetae locuti sint Verbum ex Spiritu Sancto, sed ex Jehovah Domino; どこにも読まれない、旧い契約の中に、預言者たちが聖霊から話したこと、しかし、エホバ、主から。

et ubi in Novo Foedere dicitur `Spiritus Sanctus,’ intelligitur Divinum procedens, quod est Divinum illustrans, docens, vivificans, reformans et regenerans.” またそこに、新しい契約の中に、「聖霊」が言われている、発出する神性が意味される、それは、照らし、教え、生かす、改心させる、また再生させる神性である」。

[10] Post hoc successit altera ventilatio de Spiritu Sancto, quae erat, A Quo procedit Divinum, quod vocatur Spiritus Sanctus; [10] この後、聖霊について別の討議が続いた、それであった、「神性はだれから発出するか、それは聖霊と呼ばれる」。によって意味される、父からなのか、あるいは主からなのか。

num ex Divino quod Pater vocatur, vel ex Divino Humano quod Filius. 神性からなのか、それは父と呼ばれる、あるいは神的人間性から、それは子と〔呼ばれる〕。

Et cum hoc ventilabant, affulsit lux e Caelo, ex qua viderunt, quod Sanctum Divinum, quod intelligitur per Spiritum Sanctum, procedat ex Divino in Domino per Ipsius Humanum glorificatum, quod est Divinum Humanum, comparative sicut omne activum procedit ex anima per corpus apud hominem.  またこれを議論していたとき、天界から光が照らした、それ〔光〕から彼らは見た、聖なる神性は、それが聖霊によって意味される、主の中の神性から栄化されたその方の人間性を通して発出する、それは神的人間性である、比較によって、人間のもとのすべての活動が霊魂から身体を通って発出するように。

Hoc Angelus stans ad mensam confirmavit ex Verbo per haec: このことを机〔の脇〕に立っている天使はみことばからのこれらによって証明した(確信させた)――

“Quem misit Pater, verba De loquitur: 「その者を父が遣わした、神のことばを話す。

non ex mensura dedit Illi Spiritum; その方に測定から(量って)霊を与えなかった。

Pater amat Filium, et omnia dedit in manum Ipsius (Joh. iii. 34, 35); 父は子を愛する、またすべてのものをその方の手の中に与えた」(ヨハネ3:34, 35)。

“Exibit Virga de trunco Jischaji; 「エッサイの幹から若枝が出た。

quiescet super Ipso Spiritus Jehovae, Spiritus Sapientiae et Intelligentiae, Spiritus Consilii et Virtutis” (Esaj. xi. 1, 2); その方の上にエホバの霊が休息する、知恵と知性の霊、思慮と力の霊」(イザヤ11:1, 2)。

Quod Spiritus Jehovae datus sit super Illum, et quod esset in Illo (Esaj.xlii. 1: cap. lix. 19, 20; cap. lxi. 1; Luc. iv. 18): エホバの霊がその方の上にあった(与えられた)こと、また、その方の中にあったこと(イザヤ42:1、59:19, 20、61:1、ルカ4:18)。

“Quando venerit Spiritus Sanctus, Quem Ego missurus sum vobis a Patre” (Joh. xv. 26); 「聖霊がやって来る時、その者をわたしはあなたがたに父から遣わす」(ヨハネ15:26)。

“Ille Me glorificabit, quia ex Meo accipiet, et annuntiabit vobis: 「その者(聖霊)はわたしを栄化する、わたしのものから受けて、あなたがたに知らせるので。

omnia quaecunque Pater habet Mea sunt; すべてのものは、父が持つどんなものでも、わたしのものである。

propter hoc dixi, quod ex Meo accepturus sit et annuntiaturus vobis” (Joh. xvi. 14, 15); それゆえ、このことをわたしは言った、わたしのものから受けて、あなたがたに知らせること」(ヨハネ16:14, 15)。

“Si abivero, mittam Paracletum ad vos” (Joh. xvi. 7); 「もし、わたしが去ったなら、わたしは送る(遣わす)、パラクレートス(助け主)をあなたがたに」(ヨハネ16:7)。

Paracletus est Spiritus Sanctus (Joh. xiv. 26); パラクレートス(助け主)は聖霊である(ヨハネ14:26)。

“Nondum erat Spiritus Sanctus, quia Jesus nondum glorificatus erat” (Joh. vii. 39): 「聖霊はまだなかった、イエスはまだ栄化されていなかったので」(ヨハネ7:39)。

Post glorificationem, “Jesus inspiravit, et dixit discipulis, Accipite Spiritum Sanctum” (Joh. xx. 22). 栄化の後、「イエスは弟子たちに息を吹き込んだ、また言った、聖霊を受けよ」(ヨハネ22:22)。

[11] Quoniam Divina Operatio Domini et Divina Omnipraesentia Ipsius per “Spiritum Sanctum” intelligitur, ideo cum ad discipulos locutus est de Spiritu Sancto, Quem a Deo Patre missurus est, etiam dicit, 主の神的な遍在からのその方の神的な働きが、「聖霊」によって意味されるので、それゆえ、聖霊について弟子たちに話されたとき、それを父なる神から送ること、さらにまた言った、

“Non relinquam vos orphanos; 「わたしはあなたがた孤児を置き去りにしない。

abeo et venio ad vos: わたしは去る、また、あなたがたにやって来る。

et in die illo cognoscetis quod Ego in Patre Meo, et vos in Me et Ego in vobis” (Joh. xiv. 18, 20, 28). その日に、あなたがたは知る、わたしがわたしの父の中に、また、あなたがたがわたしの中に、また、わたしがあなたがたの中に〔いる〕こと」(ヨハネ14:18, 20, 28)。

Et mox antequam abivit a mundo, dixit, また、世から去る直前に、言った、

“Ecce Ego vobiscum sum omnibus diebus usque ad Consummationem saeculi” (Matth. xxviii. 20). 「見よ、わたしはあなたがたとすべての日々いる、世代の完了(時代の完成)までも」(マタイ28:20)。

His coram illis lectis, dixit Angelus, “Ex his et pluribus aliis et Verbo, patet quod Divinum quod vocatur Spiritus Sanctus procedat ex Divino in Domino per Divinum Humanum Ipsius.” これらが彼らの前で読まれて、天使は言った、「みことばからのそれらと他の多くのものから明らかである、神性は、それは聖霊と呼ばれる、主の中の神性からその方の神的人間性を通して発出すること」。

Ad haec sedentes super soliis, dixerunt, “Hoc est Divina Veritas.” これらに、椅子の上に座っている者たちは、言った、「これは神的な〝真理〟である」。

[12] Demum factum est Decretum, hoc:― [12] 最後に、決議がなされた、これ――

“Quod et deliberatis in hoc Concilio clare viderimus, et inde pro Sancta Veritate agnoscamus, quod in Domino nostro Jesu Christo sit Divina Trinitas, quae est, Divinum a Quo Quod vocatur Pater, Divinum Humanum Quod est Filius, et Divinum procedens Quod est Spiritus Sanctus: 「この会議の中の熟考から、私たちははっきりと見る、またここから聖なる〝真理〟として認める、私たちの主イエス・キリストの中に、神的な三一性があること、それは、父と呼ばれるその方からの神性、子である神的人間性、また、聖霊である発出する神性である――

ita est Unus Deus in Ecclesia.” そのように教会の中にひとつの神がいる」。

[13] Postquam haec in magnifico illo Concilio conclusa sunt, surrexerunt; [13] これらが壮大なその会議が閉じられた後、彼らは立ちあがった。

et venit Angelus custos ex cimeliarchio, et apportabat cuivis ex illis qui super soliis consederunt vestes splendidas, hic et ibi intertextas filis aureis; また宝庫から守護の天使がやって来た、また彼らからのそれぞれの者に持ってきた(携えてきた)、その者は椅子の上に着席していた、光り輝く(みごとな)衣服を、こことそこに金糸が編み込まれた。

et dixit, “Accipite vestes nuptiales.” また、言った、「婚礼の衣服を受け取れ」。

Et deducti sunt in gloria in Novum Caelum Christianum, cum quo Ecclesia Domini in terris, quae est Nova Hierosolyma, conjuncta erit. また栄光の中に、新しいキリスト教徒の天界の中に、導かれた、それに、地の中の主の教会は、それは新しいエルサレムである、結合される(未来)。

原典講読『啓示された黙示録』 962(訳文)

(3) 訳文

962.第二のメモラビリア――

 

主により命令から、私に天界の中と天界の下にある驚くべきことを見ることが与えられたので、私は見られたものを記録すること義務がある。

荘厳な宮殿が、またその最内部に神殿が見られた。その真ん中に金でできた机があり、その上に、みことばがあった、それにふたりの天使がそばに立った。

その前に三列の椅子があった。第一列の椅子は純粋な絹でつくられた紫色の掛け布で、第二列の椅子は青い色の純粋な絹でつくられた掛け布で、また第三列の椅子は白い掛け布で覆われていた。

机の上の高い屋根の下に宝石から輝く広大な広がりの天蓋(てんがい)が見られ、それらの輝きから、雨の後、天がしずまったときの虹のようなものが輝き出た。

突然に、その時、すべてのものは祭司の職能の衣服を着て、椅子の上に座っている聖職者からの多くの者が見られた。

一つの側に宝庫があり、そこに守護の天使が立っていた。また内部に美しい順序でみごとな衣服が置かれていた。

[2] 主により招集された会議であった。また、私は、「熟考せよ」と言っている天界からの声を聞いた。

しかし、彼らは言った、「何について?」

「主について、また聖霊について」と言われた。

しかし、〔彼らが〕それらについて考えたとき、照らしの中にいなかった。それゆえ、懇願した。その時、光が天界から降り、それが最初に彼らの後頭部を照らし、またその後、こめかみを、また最後に、彼らの顔を照らした。また、その時、始まった。そして命令されたように、最初に、「主」について〔であった〕。

また、最初の命題と討議は、「だれが処女マリアの中で人間性を取ったか?」であった。

また、その上にみことばがあった机〔の脇〕に立っている天使が、彼らの前で「ルカ福音書」のこれらを読んだ――

 

天使はマリヤに言った、「見よ、あなたは胎の中にみごもっている、また子を産む。またその名前をイエスと呼べ――この者は偉大な者になる、またいと高き方の子を呼ばれる。また、マリヤは天使に言った、私は男を知らないのに、どのようにこのことが起こるのか? また、天使は答えて、言った、聖霊があなたの上にやって来る、またいと高き方の力があなたをおおう。それゆえ、あなたから聖なる者が生まれ、神の子と呼ばれる」(1:31, 32, 34, 35)。

 

さらにまた「マタイ福音書」第1章20-25節のそれら、またそこに25節を、声高に読んだ。

ほかにも、福音書からの多くのものを読んだ、そこにその方はご自分の人間性からエホバを自分の父と呼んでいる。そのようにまた、エホバご自身が世の中にやって来ることが預言書に予言されており、 それらの間に、「イザヤ書」のこれら二つもまた〔ある〕。

 

「その日に言われる。見よ、この方は私たちの神、その方を私たちは、私たちを救うようにと待ち望んだ。この方はエホバ、その方を私たちは待ち望んだ。私たちは小躍りして喜び、その方の救いの中で喜ぶ」(25:9)。

「荒野の中で叫ぶ声、エホバの道を備えよ、荒れ地で私たちの神の大路を地ならしせよ。というのは、エホバの栄光が現わされ、すべての肉が一緒に見るから。見よ、神エホバが力の中にやって来られる。ご自分の群れを飼う羊飼いのように」(イザヤ40:3, 5, 10, 11)。

 

[3] また天使は言った、「エホバご自身が世にやって来て、人間性を取り、またそのことによって人間を救い、あがなったので、それゆえ、その方は預言書のもとに、「救い主」と「あがない主」と呼ばれている」。

また、その時、彼らの前で続くこれらのものを読んだ――

 

「神はただあなたの間にだけ〔おられ〕、他に神はいない。あなたは深く隠された神、イスラエルの神、救い主」(イザヤ545:14, 15)。

「わたしはエホバでないか、わたしのほかにもはや神はいない。わたしのほかに正義の神、救い主はいない」(イザヤ55:21, 22)。

「わたしはエホバ、わたしのほかに救い主はいない」(イザヤ43:11)。

「わたしは、あなたの神、エホバ、あなたはわたしのほかに神を認めない、わたしのほかに救い主はいない」(ホセア13:4)。

「わたしがエホバ、あなたの救い主、またあなたがあがない主〔である〕ことを、すべての肉が知るように」(イザヤ49:26、60:16)。

「私たちのあがない主に関して、その方の名前は万軍の主」(イザヤ47:4)。

「彼らの贖い主は、強い、その方の名前は万軍の主」(エレミヤ50:34)。

「エホバは私の岩、私の贖い主」(詩篇19:14)。

「あなたのあがない主エホバ、イスラエルの聖なる者は、このように言われた。わたしはエホバ、あなたの神〔である〕」(イザヤ48:17、42:14、49:7、56:8)。

「あなたは、私たちの父、エホバ、あなたの名前は永久から私たちの贖い主」(イザヤ63:16)。

「あなたのあがない主エホバはこのように言われた、わたしはすべてのものを造った、わたし自身からひとりで」(イザヤ44:24)。

「イスラエルの王エホバ、またそのあがない主、万軍のエホバがこのように言われた、わたしは初めと終わり〔である〕、わたしのほかに神はいない」(イザヤ44:6)。

「その方の名前は万軍のエホバ、あなたのあがない主はイスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれる」(イザヤ54:5)。

「見よ〔その〕日が来る、その時、わたしはダビデに正しい若枝を起こす、またその方の名前は、エホバ、私たちの正義」(エレミヤ23:5, 6、33:15, 16)。

「その日に、エホバは全地の上に王となる。その日に、エホバはひとり、またその方の名前は一つとなる」(ザカリヤ14:9)。

 

[4] これらやそれらから、椅子の上に座っている者は確信して、エホバご自身が、人間をあがない、救うために人間性を取ったことを一致して言った。

しかし、その時、神殿の隅に隠れていたローマカトリック教徒から声が聞こえた、「どのように神エホバは人間になることができるのか。全世界の創造者ではないのか?」

また、第二列の椅子の上に座っている者からある者が振り向き、言った、「そのとき、だれが?」

また、彼は隅から答えた、「永遠からの子〔である〕」。

しかし、答えを受けた、「永遠からの子は、あなたがたの告白にしたがって、全世界の創造者でもまたないのか? また、永遠から生まれた子、または神とは何か? また、一つまた分割できないものである神的な本質が、分離されること、そしてその何らかのものが降りてくること、また人間性をまとうこと、また同時に全体〔であること〕がどのようにして、同じもののもとでできるのか?」

[5] 霊魂と身体が一つであるように、このように父とその方は一つであるかどうか、主についてもう一つの討議があった。

彼らは言った、このことは、霊魂は父からであるので、結果である。

その時、第三列の椅子の上に座った者からのひとりが、『アタナシウス信条』と呼ばれる『信条』から、これらを読んだ――

 

「わたしたちの主、イエス・キリスト、神の子は、神と人間であるけれども、それでも二つではない、しかし一つのキリスト、それどころか、完全に一つ、一つのペルソナ(位格)である。霊魂と身体が一つの人間をつくるように、そのように神と人間は一つのキリストであるからである」。

 

読んでいる者は、「この信仰は、全キリスト教世界の中で、さらにまたローマカトリック教徒から受け入れられている」と言った。

また、彼らは言った、「何が、多くの者に必要とされるのか? 霊魂と身体が一つであるように、父なる神とその方は一つである」。

また、彼らは、「そのようであるので、私たちは、主の人間性は、エホバの人間性であるので、神性である、なおまた、主は、神的人間性に関して近づくべきであること、またこのようにまた父と異なって呼ばれる神性に近づくことができない」と言った。

[6] このそれらの結論を天使は、みことばからの多くのものによって補強した、それらの間に、これらがあった。「イザヤ書」に――

 

「少年が私たちに生まれた、子が私たちに与えられる、その名前は、不思議な者、助言者、神、英雄、永遠の地知、平和の君」(〔イザヤ〕イザヤ9:6)。

 

同書に、

 

「あなたは私たちの父。アブラハムは私たちを知らない、イスラエルは私たちを認めない。

あなた、エホバは、私たちの父。あなたの名前は永遠からの私たちの贖い主〔である〕」(63:16)。

 

また「ヨハネ福音書」に――

 

「イエスは言われた。わたしを信じる者は、わたしを遣わした方を信じます。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見ます」(ヨハネ12:44, 45)。

「ピリポは言った」イエスに「私たちに父を示せ」。イエスは彼に言われた、わたしを見た者は、父を見たのです。それゆえに、どのように、私たちに父を示せと、あなたは言うのですか?

あなたは信じないのですか? わたしが父の中に、また父がわたしの中に〔いる〕ことを。わたしに信じなさい、わたしが父の中に、また父がわたしの中に〔いる〕ことを」(14:8-11)。

 

また、最後に、このこと――

 

「イエスは言われた。わたしは、道、真理、またいのちです。わたしを通してでないなら、だれも父へやって来ません」(14:6)。

 

これらを聞いて、すべての者は一つの口と心で言った、主の人間性は神的なものであること、またこれは父が近づかれるように近づくべきであること。永遠からの主である神エホバは、ご自分を世に送ったそのことによってので、ご自分を人間の目に見ることができるものに、またこのように近づくことができるものにした。同じく、ご自分を目に見えるものにした、またこのように古代人の前に人間の形の中で近づくことができるものにした、しかし、その時、天使を通して〔であった〕。

[7] この後、聖霊についての考慮が続けられた。

また、最初に、父なる神、子、また聖霊について多くの考えが示された。それらは、父なる神が高いところに、子はその方の右に座り、それら自体から、人間を照らし、教えるために聖霊を送ることである。

しかし、その時、天界から声が聞かれた、言って、「私たちはその思考の観念を支えない。だれが、神エホバは遍在されることを知らないか? このことを知り、認める者は、さらにまた、その方は照らし、教えること、またその方から区別され、媒介として働く神ではなく、まして位格から位格のように区別される二つのものでないことを認める。それゆえ、前のむなしい観念は取り除かれ、また正しいこれが受け入れられ、あなたがたはこれをはっきりと見る」。

[8] しかし、その時、神殿の隅に隠れていたローマカトリック教徒からの声が聞こえ、言った、「そのとき、聖霊とは何か? それはみことばの中に、福音書のもとに、またパウロ〔の手紙〕のもとに名前を挙げられていおり、そこから聖職者からの学識ある者全部は、特に私たちからの者は、自分自身が導かれる、と言っている。今日のキリスト教世界の中で、聖霊を、またその働きを、だれが否定するのか?」

これに第二列の椅子の上に座っていた彼らからのある者が向きを変え、また、言った、「聖霊は、エホバ主から発出する神性である。あなたがたは、聖霊はそれ自体によって、また神はそれ自体によって位格である、と言う。しかし、出て発出する働きでないなら、位格から出て発出する位格は何か? 一つの位格は他の位格から出て発出することができない、しかし、働きはできる。または、出て発出する神性でないなら、神から出て発出する神とは何か? 一つの神は他の神から、他の神によって出て発出することができない、しかし、神性は一つの神からできる。神的本質は一つまた分けられないものではないのか? また、神的本質、すなわち、神的エッセ(存在)は神であるので、神は一つまた分けられないものではないのか?」。

[9] これらを聞いて、椅子の上に座っている者は、一致して結論に達した。聖霊はそれ自体によって位格でなく、それ自体によって神でなく、しかし、遍在する唯一の神から出て発出する聖なる神性、それは主であることである。

これらに、その上にみことばがあった金の机〔の脇〕に立っていた天使は言った、「よろしい! 旧い契約の中のどこにも、預言者たちが聖霊から話したことは読まれない、しかし、エホバ、主から〔話した〕。またそこに、聖霊が言われている新しい契約の中では、発出する神性が意味され、それは、照らし、教え、生かす、改心させる、また再生させる神性である」。

[10] この後、聖霊について別の討議が続いた。それは、「聖霊と呼ばれる神性はだれから発出するのか、父からなのか、あるいは主からなのか、父と呼ばれる神性からなのか、あるいは子と〔呼ばれる神的人間性からなのか」であった。

またこれを議論していたとき、天界から光が照らし、その光から彼らは、聖霊によって意味される聖なる神性は、父から主を通って発出するのではなく、人間のもとの活動が霊魂から身体を通って発出するように、比較によって、主の中の神性から栄化されたその方の人間性を通して発出することを見た。

このことを机〔の脇〕に立っている天使は、みことばからのこれらによって確信させた――

 

「父が遣わしたその方は、神のことばを話す。その方に量って霊を与えなかった。父は子を愛し、すべてのものをその方の手の中に与えた」(ヨハネ3:34, 35)。

「エッサイの幹から若枝が出た。その方の上にエホバの霊、知恵と知性の霊、思慮と力の霊が休息する」(イザヤ11:1, 2)。

エホバの霊がその方の上にあり、その方の中にあったこと(イザヤ42:1、59:19, 20、61:1、ルカ4:18)。

「わたしがあなたがたに父から遣わす聖霊がやって来る時」(ヨハネ15:26)。

「聖霊はわたしを栄化します、わたしのものから受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持つどんなものでも、すべてのものは、わたしのものです。それゆえ、このことをわたしは言いました、わたしのものから受けて、あなたがたに知らせることです」(ヨハネ16:14, 15)。

「もし、わたしが去ったなら、わたしはパラクレートス(助け主)をあなたがたに遣わします」(ヨハネ16:7)。

パラクレートス(助け主)は聖霊である(ヨハネ14:26)。

「イエスはまだ栄化されていなかったので、聖霊はまだなかった」(ヨハネ7:39)。

栄化の後、イエスは弟子たちに息を吹き込んで、言った、「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)。

 

[11] 主の神的な遍在からのその方の神的な働きが、聖霊によって意味されるので、それゆえ、聖霊について弟子たちに話されたとき、それを父なる神から送ることを、さらにまた言われた、

 

「わたしはあなたがた孤児を置き去りにしません。わたしは去り、また、あなたがたにやって来ます。……その日に、あなたがたは、わたしがわたしの父の中に、また、あなたがたがわたしの中に、また、わたしがあなたがたの中に〔いる〕こと知ります」(ヨハネ14:18, 20, 28)。

 

また、世から去る直前に、言った、

 

「見よ。わたしはあなたがたとすべての日々、世代の完了までもいる」(マタイ28:20)。

 

これらが彼らの前で読まれて、天使は言った、「みことばからのそれらと他の多くのものから明らかである、神性は、主の中の神性からその方の神的人間性を通して発出すること」。

これらに、椅子の上に座っている者たちは、言った、「これは神的な〝真理〟である」。

[12] 最後に、この決議がなされた――

「この会議の中の熟考から、私たちははっきりと見る、またここから聖なる真理として認める。私たちの主イエス・キリストの中に、神的な三一性があること、それは、父と呼ばれるその方からの神性、子である神的人間性、また、聖霊である発出する神性である――そのように教会の中にひとつの神がいる」。

[13] 壮大なその会議でこれらが結論された後、彼らは立ちあがった。また宝庫から守護の天使がやって来て、椅子の上に着席していたそれぞれの者に光り輝く衣服を携えてきた。その衣服はこことそこに金糸が編み込まれていた。また、言った、「婚礼の衣服を受け取れ」。

また栄光の中に、新しいキリスト教徒の天界の中に導かれた。それに新しいエルサレムである地上の主の教会は結合される。

原典講読『啓示された黙示録』 最終節

(1) 原文

[Vers. 21.] “GRATIA DOMINI NOSTRI JESU CHRISTI CUM OMNIBUS VOBIS AMEN.”

 

(2) 直訳

[Vers. 21.] “GRATIA DOMINI NOSTRI JESU CHRISTI CUM OMNIBUS VOBIS AMEN.” 〔第21節〕「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者に〔あるように〕、アーメン」 

 

(3) 訳文

直訳どおりです。

 

◎聖書の最後のことばが「恵み」があるように、とは印象的です。この世は愛にあふれ、その結果が「恵み」だと思っています。(原典講読『啓示された黙示録』を終えることができたことも、ほんの少しばかりであっても、私には「恵み」であり、感謝しています)

 2017年10月3日から始まったこの『啓示された黙示録』もこれで終了です、やく2年ほどかかり、翻訳のペースがやや落ちて来ているかな、という気もします(早ければ1年半ぐらいか)。

 速ければよい、というものはないし、じっくり(楽しみながら)やればこんなものでしょう。いつも思うのは、「続けていれば」いつかは「到達する」ということです。

 

◎さて次からは『霊界体験記』、これは大著です、終了はいつになるでしょうか(5~6年、またそれ以上でしょう)。この機会に柳瀬芳意氏について触れておきましょう。(ある人物がある仕事を「いつ」したのか)

 私が柳瀬氏に会ったのは昭和も平成に変わった正月、下井草の静思社を初訪問したとき。私が42歳、柳瀬氏(牧師ではあったが「師」とは呼びたくない、この理由は述べないほうがよいでしょう)が80歳(すなわち彼は38年長)。

 このとき、翻訳・出版だけでなく「牧会」していることを知り、3月には同師から洗礼を受けた。当時,同氏が翻訳中であった『黙示録講解』の第9, 10巻の校正の手伝いなどしながらも、翌年の5月に柳瀬氏から去った。簡単に言えばその人間性に失望したのであった(悪口になるのでこれ以上言わない、その後、何年かして「箱根集会」であったが、その時、柳瀬氏は私のことをすっかり忘れていた)。

 さて、本題。(静思社版)『霊界日記』の第1巻の初版発行は昭和55年4月。これは柳瀬氏71歳のことである(彼は明治41年(1908)、10月15日生まれ)。(彼が61歳から始めた『天界の秘義』はまだ完成していない、完成は昭和58年(74歳))。『天界の秘義』と並行しながら『霊界日記』を翻訳・出版していた。

 私も(現在72歳)、以前に『霊界日記』を読んでいた、そして「……」の箇所(柳瀬氏によれば、意味が不明なので、としている、しかし、よく読めばわかる)が多いので、「世に公開する出版物として、良心的でない(一カ月でも二カ月でも、その翻訳のために努力すべきではないだろうか)」と感じていた。

 なので、いつか、「原典にはこう書いてある」と紹介したかった。この機会が、ここで与えられる。ありがたいことである。この原典講読の読者の方々が、浅学ながらも、私の訳から何か得てもらえばそれで満足。なお、霊界への興味から、『霊界日記』を熱心に読んでいる方が多いことは承知している。

原典講読『霊界体験記』 はじめに

「はじめに」いくつか述べておきます。これは「注」に関してもでも知って置くともいことです(その際にも述べるでしょう)。

(1)「本書の著述期間」は1747~60年です(著者最初の神学著作『天界の秘義』の出版は1749年(著者61歳)です)。(なお『夢日記』は1743~44年。この時はまだ霊界は開かれていません)

 スヴェーデンボリに霊界が開かれ、この体験が基盤となってそれ以降の「神学著作」生まれたことを思う時、本著が重要であることは間違いありません。著者自身、著作で用いるつもりで本書の膨大な『索引』をつくっています(これについて後述)。また、興味深いことがあちらこちらに述べられております。私個人の本書に対する感想は、話題があちこちに飛び、系統だって述べられていないので(霊界の体験でもメモであり、出版も意図していなかった)、読みづらかったです。

 (2)「出版物」について

 著者が出版されることな「手書き原稿」(「注」での記号 ms.(=manuscript))まま残されましたが、1~148番は失われています(おそらく炉で燃やされたらしい、『スヴェーデンボリ叙事詩』第26章)。上記の『索引』から(今後の講読箇所から)、その大部分は「霊の性質」を扱っています。

 本講座では「1~148番」は適当な分量をまとめれ掲載します。149番以降は「見出し」が付いており、これは該当するものを掲載します(柳瀬訳の 1~148番 に「見出し」がありますが、これは英訳者が付けたものです)。

 この原稿から J.F.I.Tafel の編集により5部編成の(原語の)「Experientiae Spirituales」が出版されました(ロンドン、1843-47)。なのでこれが「初版」です。「注」で「J.F.I. Tafel」とあれば、これを意味します。

 次の「底本」で述べますが、定本には数多くの「注」(大きく2種類、①本文に関するものと、②一般的な注意事項)があります。その大部分はこの「ms.」と「J.F.I. Tafel」に言及しています。すなわち、手書き原稿は~、初版は~、という意味です。この後、英訳が1883年以降になされています(題名は「The Spiritual Iiary」であり、これを柳瀬氏が訳している)。

 (3)本書の「底本」について(本書の題名は『霊界体験記』)。

 原著「第2版」との思える本書もはやり題名は「Experientiae Spirituales」です。これは4巻ものであり1983~93年(2巻もの『索引』は995と1997年←これが和訳される日は来るのでしょうか、おそらくないでしょうもちろん私にはできません)ブリン・アシンの新教会アカデミーから出されました(私は94年3月に入手、索引は96年と98年どれも限定200部です)。

 スヴェーデンボリはこの「原稿」を「Ex. Sp.」と呼んでいました。『霊界日記』は英訳者がそう名づけたのであり、ここは題名を直訳なら『霊的な経験』です。でもそれを経験したの霊界です、またその他池の記録です。そけで『霊界体験記』は一番ふさわしいかと思い、この題名としました。

(4)「注」について(ほぼ省略します)

 前述しましたが、底本ということもあり、「注」が多くなっていますが、原文で紹介するだけで、その翻訳は省略します(本文と見比べればわかるからです、また、本講座の後半では、ネット上ので掲載された「注」は省略されたものとなっています)。原版そのものはスウェーデンの王立科学アカデミーにあり、貸し出しは一切しません。

 

[VOLUMINIS PRIMI, liminarium sectio secunda, continens reconstructionem, ex indicis materiis et Bathae Fragmento{a}, rerum, quae continebantur in paragraphis amissis Experientiarum Spiritualium 1 ad 148b]{1}

@1 vide praefationem hujus voluminis sub capite “The `missing numbers'”

@a sic vocato a civitate anglica, antiquitus ut Aquae Sulis nota, ubi fragmentum auctoris manuscripti inventum est; vide praefationem hujus voluminis sub capite The `Bath Fragment'”

 

「上記について」この底本の最初に部分(1a~403a)は『みことばの講解』のインデント部分がまとめられています(Adversariaの中に書かれた霊界体験記です)。それに続きいて、上記が書かれてあり、ここが『霊界体験記』の始まりです。

この第1巻(VOLUMINIS PRIMI)の入り口の第二の断片(section)は『索引』と「バス断片」からの複製です。注1 は失われた番号(箇所)についても「まえがき」です。注a は「バス断片」がイギリスの(ある)市民により、このように呼ばれている、ということです。

原典講読『霊界体験記』 1,2  (ブログ掲載2019年9月24日)

(1) 原文

1.    Quod spiritus sint modo organa seu instrumenta vitae, usibus tamen inservientes, n. 1. [Organa]

Quod spiritus sint modo organa seu instrumenta vitae usibus inservientes, n. 1. [Spiritus]

2.    Quod spiritus sint servitia, quo interiores mali, eo insaniores; cui usui inserviunt, n. 2. [Organa]

Quod spiritus sint servitia, mali quo interiores, eo insaniores: cui usui inserviunt, n. 2. [Spiritus]

 

(2) 直訳

1.    Quod spiritus sint modo organa seu instrumenta vitae, usibus tamen inservientes, n. 1. [Organa] 霊たちは、いのちの単なる道具(器官)または道具である、それでも役立ちに仕えている、1番〔道具(器官)〕☆

Quod spiritus sint modo organa seu instrumenta vitae usibus inservientes, n. 1. [Spiritus] 〔同じ言及〕〔霊〕☆

☆『索引』の見出し「器官」の中で「Quod spiritus sint modo organa seu instrumenta vitae, usibus tamen inservientes, n. 1.」と述べている、ということです。同じく「霊」(これは長大です)でも同一のことを述べています。以下同様。

2.    Quod spiritus sint servitia, quo interiores mali, eo insaniores; cui usui inserviunt, n. 2. [Organa] 霊たちはしもべである、内的に悪であればあるほどますます☆狂っている。何の役立ちに彼らは仕えるか、2番〔道具(器官)〕

☆ quo~eo… は「~であればあるほどますます…」の意味の相関文。

Quod spiritus sint servitia, mali quo interiores, eo insaniores: cui usui inserviunt, n. 2. [Spiritus] 〔同じ言及〕〔霊〕

 

(3) 訳文

1.  霊たちは、いのちの単なる器官または道具である、それでも役立ちに仕えている。「道具」、「霊」。

2. 霊たちはしもべである、内的に悪であればあるほどますます狂っている。彼らは何の役立ちに仕えるか。「道具」、「霊」。