(3) 訳文
961.これらに私は二つのメモラビリアを付け加える。最初のものはこれ――
かつて私は眠りから目覚めて、神について深い瞑想に落ちた。また私が見上げた時、私の上の天界の中に、長円形の最も白く輝く光を見た。また私がその光の中を凝視したとき、光は脇へ退き、周辺へ吸収された。またその時、見よ、私に天界が開かれ、ある種の荘厳なものを、また開かれた南の脇に円の形の中に天使たちが立っていて、自分たちの間で話していたのを見た。
また私は何を話しているか聞きたい願いをかきたてられたので、それゆえ、私に初めて音声を聞くことが与えられ、それは天界の愛に満ちていた、またその後、会話を聞いたが、それはその愛からの知恵に満ちていた。
自分たちの間で、「一つの神」、「その方との結合」、ここからの「救い」について話していた。ことばにできないものが話され、それらの大部分は何らかの自然的な言語の言葉の中に落ち込むことができなかった。
しかし、私は天使の天界の中のその交わりの中に数回いたので、またその時、彼らとの似た会話の中に、似た状態の中にいたので、それゆえ、その時、それらを理解すること、また彼らの話から何らかのものを引き出すことができた、それらは自然的な言語で理性的に表現されることができないものであった。
[2] 彼らは、神的エッセは「一つのもの」、「同じもの」、「それ自身」また「不可分なもの」である、そのようにまた、神的本質は、神的エッセ(存在)である神的本質である、そのようにまた神は、神的本質が、それは神的エッセ(存在)でもあるので、神である、と言い、これらを霊的な観念によって説明した――
神的なエッセはそれらのそれぞれが神的なエッセである多くのものの中に落ち込むことができない、またそれでもそれらは「一つのもの」、「同じもの」、「それ自身」また「不可分なもの」である、と言って。というのは、それぞれの者はそのエッセから、それ自体から、またそれ自体によって考えるからである。もしその時、別のものから、また別のものによってもまた、一致して考えるなら、一つの神でなく、心で一致した多くの神々となったであろう。
なぜなら、一致は、多くのものの、また同時にそれ自体からまたそれ自体によってそれぞれとの同意であるので、神の同一性と調和しない、しかし、複数性と〔調和する〕からである(彼らは「神々の……」と言わなかった、〔言うことが〕できなかったからである。というのは、天界の光が、それ光から彼らの思考があり、またその中へ彼らの会話が発出する、〔それらの光とオーラが〕逆らったからである)。
さらにまた言った。「神々」と、またそれぞれ別々にそれ自体によって位格として〔の神を〕発声することを欲するとき、直ちに、「一つのもの〔神〕」を、それどころか「唯一の神」を発声しようとする努力に落ち込む。
[3] これらに、神的エッセはそれ自体からでなく本質的に(それ自体の中で)神的エッセであることを言い足した。「それ自体から」は「それ」からである本質的な(それ自体の中の)エッセを前提とするからである。そのように神からの神を前提とするが、それは存在しない。
神からであるものは、神と呼ばれない、しかし、神性と呼ばれる。というのは、神からの神である、そのように永遠から生まれた神からの神、また永遠から生まれた神によって発出する神からの神、ことばは、それらの中に天界からの光が何も内在しないなら、何ものでもないからである。
主イエス・キリストについて異なって〔いる〕。その方の中にそこ〔起源〕から人間の中の霊魂に対応する神性そのものがあり、人間の中の身体に対応する神的人間性があり、また人間の中の活動に対応する発出している神性がある。この三重の実在は一つである、そこ〔起源〕からの神性は神的人間性であり、またここからそこ〔起源〕からの神性は神的人間性を通して発出する神性である。それゆえ、それぞれの天使の中で、またそれぞれの人間の中でもまた、彼らは〔神の〕映像であるので、霊魂、身体、活動が存在し、それらは一つのものとなっている。霊魂から身体が存在し、霊魂から身体を通して活動が存在するからである。
[4] さらに彼らは言った。神的なエッセと、本質的に神であるものは、「同じもの」であること。単純に「同じもの」でなく、しかし、無限に同じもの、すなわち、永遠に「同じもの」である。どこでも「同じもの」、そしてだれにも、だれの中でも「同じもの」である。しかし、すべての多様なものと可変性のものは受け入れるものの中にある。受け入れる状態がこのことをつくる。
本質的に神である神的エッセが、「それ自身」であることを、このように説明した――
神は「それ自身」である、愛そのものと知恵そのもの、善そのものと真理そのもの、いのちのそのものであるからである。それらが神の中の「それ自身」でなかったなら、それらは天界と世の中の何らかのものでなかったであろう。それらの何らかのものは「それ自身」に関係しなかったであろうからである。
すべての性質は、「それ自身」が存在し、〔性質は〕それからであって、またそれへこのようなものであるように関わりがあることから、自分の性質を割り当てられる。
この「それ自身」は、それは神的なエッセであって場所の中にない、しかし、受け入れにしたがって場所の中にいる彼らのもとに、彼らの中にある。愛と知恵について、すなわち、善と真理について、またここからいのちについて、それらは神の中の「それ自身」、それどころか神そのものであるので、場所は属性とされることができず、場所から場所の中への進行もない。しかし、場所なし〔であり〕、そこから遍在がある。
それゆえ、主は「〔ご自分が〕彼らの真ん中にいる」、なおまた、「その方(それ自身)は彼らの中に、また彼らはその方の中に〔いる〕」と言われた。
[5] しかし、本質的にどんなものであるかだれからも受け入れられることができないので、本質的にどんなものかは天使の天界の上方の太陽として見られ、その太陽から光として発出しているものが知恵に関するそれ自身であり、そして熱として発出しているものが愛に関するそれ自身である。「それ自身」はその太陽ではない、しかし、それ自身からそれ自身のまわりに最も近くに出ている神的な愛と神的な知恵が、天使の前に太陽として見られる。
太陽の中の「それ自身」は「人間」であり、「その方からの神性に関しても、神的人間性に関しても」、「私たちの主、イエス・キリスト」である。「それ自身は」、それは愛そのものと知恵そのものであり、父からのそれ自身の霊魂であり、そのように神的ないのちであるので、本質的にいのちである。それぞれの人間の中で異なっている。その中の霊魂はいのちではなく、しかし、いのちの容器である。主もまたこのことを〔次のように〕言って、教えてられいる、
「わたしは道、真理、またいのちである」〔ヨハネ14:6〕。
また他のところに、
「父がいのちをご自分自身の中にもつように、そのようにまた子に自分自身の中にいのちを持つことを与えた」〔ヨハネ5:26〕。
「ご自分自身の中のいのち」は神である。
これらに付け足した。何らかの霊的な光の中にいる者は、これらから、神的エッセが、それもまた神的本質である、「一つのもの」、「同じもの」、「それ自身」またここから「不可分なもの」、多くのものの中で存在できないことを、受け入れることができるからであること。またもし存在することが言われるなら、矛盾が明らかとなるであろう、と付け加えた。
[6] これらを聞いて、天使たちは私の思考の中のキリスト教会に一般的な観念を、単一性の中の位格の三一性について、また神について三一性の中のそれらの単一性について、ほかに、永遠からの神の子の出生についてもまた知覚した。またその時、言った、「何を、あなたは考えていますか? あなたはそれらを自然の光から考えていませんか? その光と私たちの霊的な光は一致しません。それゆえ、あなたがその思考の観念を取り除かないなら、私たちはあなたに天界を閉じます、また立ち去ります」。
しかし、その時、私は彼らに言った、「どうぞ、私の思考の中に深く入ってください、するとおそらく、あなたがたは一致を見るでしょう」。
また、そのように行なわれ、彼らは見た。私が三つの位格によって発出する三つの神的な属性を理解していること、それらは創造、救い、また改心であり、それらの属性は唯一の神のものであること。また、永遠からの神の子の出生によって、私がその方の出生について、永遠から先見され、また時間の中で備えられたことを理解していること。
また、その時、私は、位格の三一性と唯一性、また神の子の永遠から出生についての私の教会かの自然的な思考は、アタナシウスから命名された信仰の教えからであった、と語った。また、その教えは、ただ三つの位格の三一性のかわりにそこに一つ位格の三一性が意味されれば、本当であり正しい、それはひとえに主イエス・キリストの中に存在する。また、神の子の出生の代わりに、永遠から先見された、また時間の中で備えられたその方の出生が意味される〔なら〕。時間の中でとられた人間性に関して、公然と「神の子」と呼ばれているからである。
[7] その時、天使たちは言った、「よろしい!」。また彼らは、次のことを私が彼らの口から言うように求めた。もし、だれかが天地の神そのものに近づかないなら、天界はその唯一の神から天界であるので天界の中にやって来ることができないこと、また、その神はイエス・キリストであり、その者は主エホバ、永遠からの創造者、時間の中であがない主、そして永遠に再生者であること。そのように、その方は、同時に、父・子・聖霊である。
これらの後、以前に開かれたものの上方に見られた天界の光が戻った、またここから連続的に降り、そして私の心の内的なものを満たした、そして神の単一性と三一性について私の観念を照らした。またその時、私は始めに獲得したそれらについての観念を見た。それらは単に自然的なものであり、唐箕(とうみ)を動かして、籾殻(もみがら)を小麦から分離し、風で取り除くかのように天界の北の方へ消えた。