原典講読『啓示された黙示録』 875(訳文[4]~[8] まで) 

 [4] そのふたりの天使たちが私の視野から外れた後、私は右側にある庭園を見た、そこに対応する位置にしたがって順序正しく、オリーブの木、イチジクの木、月桂樹、シュロの木があった。

私はその場所を眺めた、木々の間に、歩いているまた会話している天使と霊たちを見た。その時、ひとりの天使的な霊が私を眺めた。

霊たちの世界の中で天界へと準備され、 その後、天使になる者は天使的な霊と呼ばれる。

 その霊はその庭園から私にやって来て、言った、「あなたは、私と私たちの楽園に入ることを欲しています、あなたは驚くべきものを聞き、見るでしょう」。

 また、彼とともに行った、その時、私に言った、「あなたが見るこれらの者は(というのは、多くの者がいたから)、すべての者は真理への情愛の中に、またここから知恵の光の中にいます。ここにも宮殿があり、それは「知恵の神殿」と呼ばれます。しかし、それを、自分自身を大いに賢明であることを信じている者は、まして自分自身を十分に賢明であることを信じている者は、さらにまして、自分自身を自分自身から賢明であることを信じている者は、それを見ることができません。その理由は、彼らが本物の知恵に属す情愛からの天界の光を受け入れる〔状態の〕中にいないからです。

本物の知恵は、人間が天界の光から見ることであり、〔人間が〕知り、理解し、味わうものは、知らないし、理解しない、味わわないもと比べれば、大洋の一滴のようにもわずかであり、したがって、ほとんど何ものでもありません。

この楽園(の庭園)の中にいるすべての者は、このように比較的にわずかにしか味わわないことを知覚そして視覚から本質的に認めており、その者はその「知恵の神殿」を見ます。なぜなら、内的な光はそれを見ることを与えます、けれども、その内的な光のない外的な光は与えないからです。

 [5] また、私は、人間がこのようにわずかに賢明であることを考え、知識から、その後、知覚から、また最後に内的な光からしばしば認めたので、見よ、私にその神殿を見ることが与えられた。

 形に関して驚くべきものであった。

 地面の上に上げられており、四角であり、壁は水晶から、優雅で丸天井造りの屋根は透明な碧玉から、土台はいろいろな宝石からできていた。

磨かれた縞大理石からできている階段があった、それを通ってその中に上る。

 階段の脇に、ライオン〔の像〕が子とともに見られた。

 その時、私は、入ることが許されるかどうか質問し、許される、と言われた。

 それゆえ、私は上った。私が入ったとき、屋根の下を飛んでいるケルビムを見た、しかし、間もなく見えなくなった。その上を歩く、床(ゆか)は、杉からできていた。神殿全体は屋根と壁のと透明性から光の形へと建てられていた。

 [6] 私と天使的な霊は入った、私はその者に、私がふたりの天使たちから、愛と知恵について、そのようにまた仁愛と信仰について聞いた、と話した。

 またその時、言った、「第三のものについてもまた話されませんでしたか?」

「第三のものとは何ですか」と私は言った。

 彼は答えた、「役立ちです。役立ちのない愛と知恵は何ものでもありません。単なる観念的な存在物であり、役立ちの中で存在する前に、実在するものともなりません。というのは、愛、知恵、役立ちである三つのものは、分離されることができないからです。もし、分離されるなら、どちも何らかのものではありません。

 知恵のない愛は何らかのものではありません、しかし、知恵の中で〔直訳でこの in を見損じました〕何らかのものへと形作られます。それへ向けて役立ちが形作られるこの何らかのものは、それゆえ、愛が知恵によって役立ちの中にあるとき、その時、何らかのものであり、それどころか、初めて存在するようになるからです。

 完全に、目的、原因、結果のようです。目的は、原因によって結果の中にないなら、何らかのものではありません。もしそれらの三つから、あるものがバラバラにされるなら、すべてのものがバラバラにされ、無のようになります。

 [7] 仁愛、信仰、働きもまた同様です。信仰のない仁愛は何らかのものではありません、仁愛のない信仰も〔何らかのものでは〕なく、そして働きのない仁愛と信仰も〔何らかのものでは〕ありません。しかし、働きの中で何らかのものであり、また働きの役立ちような、そのような何らかのもの〔です〕。

 情愛、思考、働きも同様です。また、意志、理解力、行動も同様です。

 そのようであることは、この神殿の中ではっきりと見られることができます、私たちがその中にいる光は、心の内的なものを照らす光であるからです。

三重の実在がないなら完成と完全が存在しないことは、さらにまた幾何学が教えています。というのは、直線は、広さ(面積)にならないなら、広さ(面積)も、物体(体積)にならないなら、何らかのものではないから。それゆえ、あるものはもう一つのものの中に、存在するようになるようにと導かれ、また第三のものの中で同時に存在します。

 このように、創造されたすべてと個々のものの中でもまた、それら第三のものの中で限定されています。

 さて、みことばの中で霊的に理解された「三つのもの」が完成と完全を意味するのはここからです。

 そのようであるので、私は、ある者が信仰だけを、ある者は仁愛だけを、ある者は働きだけを公言することに決して驚きません、そのときそれでも、もう一つのものがないあるものは、そして、第三のものがないあるものと同時にもう一つのものは、何らかのものではありません」。

 [8] しかし、その時、私は質問した、「人間は仁愛と信仰を持つことが、またそれでも働きがないことができるのではありませんか? 人間は何らかの事柄について情愛と思考の中にいること、またそれでもその働き(活動)の中にないがことができませんか?」。

 天使は私に答えた、「観念的にだけなら、できます、しかし、実際にはできません。

 それでも、働くことへ向けて、コナトゥス(努力)または意志の中にあります。そして、意志またはコナトゥス(努力)は、行なうことへの絶え間のない努力(活動)であるので、本質的に行動(活動)です、それは確定に近づくとき外的な行動となります。それゆえ、コナトゥス(努力)と意志は、内的な行動(活動)のように、神により〔なされたものとして〕受け入れられるので、機会が与えられる時を欠いていないかぎり、完全に外的な行動(活動)のように、すべての賢明な者により受け入れられます。