原典講読『啓示された黙示録』 第20章(各節の内容)の訳文

(3) 訳文

 1. 「また、私は、天使が自分の手に、深淵のかぎと大きな鎖を持って、天から降っているのを見た」は、閉ざし、開く、なおまた縛り、解く神的力から、低いものの中での主の神的働きを意味する(840番)。

2. 「彼は、悪魔であり、サタンである竜,古いヘビを捕えた」は、「竜」によって意味される者が引き留められたことを意味する、「古いヘビ」と言われるのは、その者は信仰の事柄について霊的にでなく、感覚的に考えるからである、また生活に関して悪の中にいるので「悪魔」と言われ、また教えに関して虚偽の中にいるので「サタン」と言われる(841番)。「またそれを千年〔の間〕縛った」は、ここに「竜」によって意味される者が、霊たちの世界の中の他の者から彼らと伝達がないように、しばらくの間、すなわち、いくらかの時間を抑えられ、引き離されたことを意味する(842番)。

3. 「それを深淵に投げ込み、またそれを閉め、その上に封印した、千年が完了するまで、もはや国民を惑わさないように」は、主が 信仰のみの中にいた者を完全に遠ざけ、そして天界の中に上げられることになる他の者との彼らのすべての伝達を、その異端から彼らのある者がそそのかされ)ないように、取り除いたこと意味する(843番)。「千年が完了するまで、この後、彼に、少ない時間、解放されなければならない」は、これがしばらくの間、すなわち、いくらかの時間であり、主により真理と善の中にいた者が天界の中に取り上げられる時まで〔である〕を意味する。その後、「竜」によって意味される者が、短い時間、解放され、また彼らに他の者との伝達が開かれること〔を意味する〕(844番)。

4. 「また、私は〔多くの〕王座を見た、彼らはそれらの上に着席し、審判が彼らに与えられた」は、みことばの真理が開かれ、それらにしたがってすべての者がさばかれ、またその時、竜とその獣により惑わされないように主により隠されていた者が低い地から取り上げられたことを意味する(845番)。「また、イエスの証しのために、また、神のみことばのために斧で打たれた霊魂を見た」は、主を礼拝し、またその方のみことばの真理にしたがって生きたので、彼らは自己知性の虚偽の中にいる者により退けられた、を意味する(846番)。「その者は、獣を、その像も崇拝しなかった、自分の額の上にまた自分の手の上にしるしも受けなかった」は、信仰のみについての教えを認めず、受け入れなかった者を意味する(848番)。「彼らは生き、キリストと千年〔の間〕支配した」は、すでに、しばらくの間、主との結合の中に、またその王国の中にいたことを意味する(849番)。

5. 「また、死の残りの者は、千年が完了するまで生き返らなかった」は、それらの者について言われた彼らのほかに、竜が解放された後まで、天界の中に取り上げられなかったことを意味する、また彼らは、その時、どのような者であったか、試され、調べられる。「これは第一の復活である」は、救いと永遠のいのち〔にとって〕、主を礼拝し、みことばの中のその方の戒めにしたがって生きることが、要な(第一位の)ものであることを意味する、それらによって主との結合また天使たちとの交わりが生じるからである(851番)。

6. 「第一の復活に関わる者は、幸いな者と聖なる者〔である〕」は、永遠のいのちの幸福そして照らしが、主との結合によって、天界の中にやって来る者にあることを意味する(852番)。「これらの者に、第二の死は力を持たない」は、彼らに断罪がない、を意味する(853番)。「しかし、彼らは神とキリストの祭司になる」は、彼らは主により愛の善の中に、またここから知恵の真理の中に保たれるからである、を意味する(854番)。「その方とともに千年〔の間〕支配する」は、彼らがすでに天界の中にいた、また、まだ生き返らなかった、すなわち、天界のいのち(生活)を受けていなかった他の者は霊たちの世界の中にいたことを意味する(855番)。

7. 「千年が完了した時、サタンは自分の牢から解放される」は、低い地の中に、今まで隠され、また守られていた者が、主により彼らが天界の中に取り上げられ、た彼らによってキリスト教徒の新しい天界が増した後、自分自身のもとに信仰の虚偽を確信したすべての者が、〔その虚偽から〕解放されることを意味する(855番)。

8. 「地の四隅の中に〔いる〕国民を惑わすこと〔のために〕、ゴグとマゴグを、彼らを戦いの中に集めること〔のために〕出て行った」は、ここに「竜」によって意味される者が、霊たちの全世界の中の地からいた、またそこに自然的な外なる礼拝だけの中に、また霊的な内なる何の礼拝の中にもいなかったすべての者を、自分の側の中に引き寄せ、主を礼拝し、みことばの中のその方の戒めにしたがって生きた者に対して〔反抗を〕かきたてたことを意味する(858, 859番)。「彼らの数は海の砂のよう〔である〕」は、このような者は数多い、を意味する(860番)。

9. 「彼らは地の広がりに上り、聖徒たちの陣営と喜ばれた都を取り囲んだ」は、竜により、新しい教会のすべてのものを、また主についてまた生活についてその教えそのものを破壊することを努力するようかきたてられた者が教会のすべての真理を軽蔑したことを意味する(861, 862番)。「また神から、天から火が降り、彼らを焼き尽くした」は、彼らが地獄の愛の欲望により滅んだことを意味する(863番)。

10. 「また彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池の中に投げ込まれた、そこに獣とにせ預言者が〔いて〕、昼夜、永遠に苦しめられる」は、生活に関して悪の中にまた教えに関して虚偽の中にいた者が、地獄の中に投げ入れた、を意味する(864番)。

11. 「また、私は大きな白い王座を、またその上に座っている方を見た。その顔から地と天は逃げた。彼らに場所は見られなかった〕」は、前のすべての天界に、市民的なまた道徳な善の中にいた、そのように、外なるものの中でキリスト教徒を偽り装った、しかし、内なるものの中で悪魔であったそれらの者に、主により全般的な審判が行なわれたことを意味する。その諸天界はその地とともに、もはやそれらが何も見られないまでも完全に消散させられた(865番)。

12. 「また、私は、神の前に立っている死んだ者を、小さい者と大きな者を見た」は、地から死んで、今や、霊たちの世界の中の者の間にいたすべての者が、どんな状態と性質からでも、主により審判へ集められた、を意味する(866番)。「また〔多くの〕書物が開かれた、また他の書物か開かれ、それはいのちの〔書〕である」は、悪い者も善い者も、彼らのすべての者の心の内部が開かれ、天界からの光と熱の流入によって、愛のものまたは意志のものである情愛に関して、またここから信仰のものまたは理解力のものである思考に関して、どんなものであったか見られ、知覚されたことを意味する(867番)。「死んだ者は〔それらの〕書物の中に書かれたものから、彼らの働きにしたがってさばかれた」は、外なるものの中の内なる自分の生活にしたがって、すべての者がさばかれたことを意味する(868番)。

13. 「また、海はその死の中に〔いる〕者を明け渡した」は、外なるまた自然的な教会の人間が審判へ呼び出された、を意味する(869番)。「また死と地獄はその死の中に〔いる〕者を明け渡した」は、本質的に悪魔とサタンであり、心で不信心な教会の人間が審判へ呼び出された、を意味する(870番)。「まただれもが彼らの働きにしたがってさばかれた」は、ここに前のような〔もの〕を意味する(871番)。

14. 「また、死と地獄は火の池の中に投げ込まれた」は、本質的に悪魔とサタンであり、心で不信心な者、またそれでも外なるものの中で教会の人間であるような者が、悪の愛の中に、またここから悪と一致している虚偽の愛の中にいた者の間の地獄に投げ込まれたことを意味する(872番)。

「これが第二の死である」は、これらの者に断罪そのものがあることを意味する(873番)。

15. 「また、もしだれかがいのちの書の中に書かれているのが見られないなら、火の池の中に投げ込まれる」は、みことばの中の主の戒めにしたがって生きず、主を信じなかった者が断罪されることを意味する(874番)。

原典講読『啓示された黙示録』 840

EXPLICATIO.

説明

 

(1) 原文

840. [Vers. 1] Et vidi Angelum descendentem de Caelo, habentem clavem abyssi, et catenam magnam super manu super sua,” significat operationem Domini in inferiora, ex Divina Potestate claudendi et aperiendi, tum ligandi et solvendi.-Per “Angelum descendentem de Caelo” intelligitur Dominus (videatur n. 5, 170, 344, 465, 657, 718); tum operatio Domini (n. 415, 631, 633, 649), hic in inferiora, quia dicitur “descendens;” per “habere clavem abyssi” significatur Divina potestas aperiendi et claudendi Infernum (videatur n. 62, 174); et per “habere catenam magnam super manu” significatur conatus et inde actus ligandi et solvendi: inde sequitur, quod non aliqua clavis nec catena in manu Domini fuerit; sed quod ita visum sit Johanni, esset repraesentativum Divinae Potestatis Domini; agitur etiam in hoc capite bis et ter de aperitione Inferni et de occlusione ejus.

 

(2) 直訳

840. [Vers. 1] Et vidi Angelum descendentem de Caelo, habentem clavem abyssi, et catenam magnam super manu super sua,” significat operationem Domini in inferiora, ex Divina Potestate claudendi et aperiendi, tum ligandi et solvendi.- 840(第1節)「また、私は天から降っている天使を見た、自分の手の上に、深淵のかぎ、また大きな鎖を持っている」は、低いものの中の主の神的働きを意味する、閉ざすまた開く、なおまた縛るまた解く神的力から。

Per “Angelum descendentem de Caelo” intelligitur Dominus (videatur n. 5, 170, 344, 465, 657, 718); 「天から降っている天使」によって、主が意味される(5, 170, 344, 465, 657, 718番に見られる)。

tum operatio Domini (n. 415, 631, 633, 649), hic in inferiora, quia dicitur “descendens;” なおまた主の働きが〔意味される〕(415, 631, 633, 649番)、ここに低いものの中へ、「降っている」と言われるからである。

per “habere clavem abyssi” significatur Divina potestas aperiendi et claudendi Infernum (videatur n. 62, 174); 「深淵のかぎを持つこと」によって、地獄を開く、また閉ざす神的力が意味される(62. 174番に見られる)。

et per “habere catenam magnam super manu” significatur conatus et inde actus ligandi et solvendi: また「手の上に、大きな鎖を持つこと」によって、縛るまた解く努力とここから行為が意味される。

inde sequitur, quod non aliqua clavis nec catena in manu Domini fuerit; ここからいえる、主の中に何らかのかぎも鎖もなかったこと。

sed quod ita visum sit Johanni, esset repraesentativum Divinae Potestatis Domini; しかし、そのようにヨハネに見られたこと、主の神的力を表象するものであった。

agitur etiam in hoc capite bis et ter de aperitione Inferni et de occlusione ejus. 扱われる、さらにまたこの章の中に二度また三度、地獄の開けることとそれの閉じることについて。

 

(3) 訳文

 840(第1節)「また、私は、天使が自分の手に、深淵のかぎと大きな鎖を持って、天から降っているのを見た」は、閉ざし、開く、なおまた縛り、解く神的力から、低いものの中での主の神的働きを意味する。

 「天から降っている天使」によって、主が意味される(5, 170, 344, 465, 657, 718番に見られる)。なおまた主の働きが〔意味される〕(415, 631, 633, 649番)、ここに低いものの中へ「降っている」と言われるからである。「深淵のかぎを持つこと」によって、地獄を開き、閉ざす神的力が意味される(62. 174番に見られる)。また「手に、大きな鎖を持つこと」によって、縛り、解く努力とここから行為が意味される。ここから、主の中に何らかのかぎも鎖もなかったこと、しかし、主の神的力を表象するものそのようにヨハネに見られたことがいえる。この章の中でもまた、二度また三度、地獄を開けることとそれを閉じることについて扱われる。