原典講読『啓示された黙示録』 839訳文[7]~おわり

 [7] なおまた、私たちは彼らをみことばから教えた、主が、ご自分の人間性を栄化するために、天界の天使と教会の人間が父なる神にその方を通して、またその方の中で結合されるようにとの目的のために.世にやって来たこと。なぜなら、〔主は〕主を信じる者はその方の中に、またその方は彼らの中にいることを教えられたからである。教会が教えるように、そのことは、キリストの身体の中にいることである。

 最後に、私たちは彼らに知らせた、今日、「黙示録」の中の「新しいエルサレム」によって意味される新しい教会が主により設立されていること、その中では天界の中にあるように、主おひとりの礼拝があること。また、このように、主の祈り中に始めから終わりまで含まれているすべてのものが完成されるであろうこと。

私たちは前に私たちが言ったすべてのものを、福音書記者のものとみことばから、また預言者のもとのみことばから、聞くことにうんざりさせられるようにもそれほど豊富に確認した。

 [8] 「最初に、私たちは、「天界の中に私たちの父」が主イエス・キリストであることを、これらの箇所から確認した――

 

 「少年が私たちに生まれた、子が私たちに与えられた、また、その方の名前は、不思議な者、助言者、神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」(イザヤ9:6)。

 「エホバよ、あなたは私たちの父、あなたの名前は永遠からのあがない主」(イザヤ63:16)。

 イエスは言われた、「わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見る」(ヨハネ12:45)。

 「もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、あなたがたは父も知っていた、また今からあなたがたはその方を知り、その方を見る」(ヨハネ14:7)。

 ピリポは言った、主よ、私たちに父を示せ。彼にイエスは言われた、わたしを見た者は、父を見た。それゆえ、どのようにあなたは言うのか、私たちに父を示せと」(ヨハネ14:8, 9)。

 イエスは言われた、「父とわたしは一つである」(ヨハネ10:30)。

 「どんなものでも父が持つすべてのものは、わたしのものである」(ヨハネ16:15、17:10)。

 「父はわたしの中に、わたしは父の中にいる」(ヨハネ10:38、14:10, 11, 20)。

 父のふところにいる子おひとりでないなら、だれも父を見ていないこと(ヨハネ1:18、5:37、6:46)。

 

 それゆえ、さらにまた言われた、

 

 だれも父へ、その方を通してでないならやって来ない(ヨハネ14;6)。

 また、その方を通して、その方から、またその方の中で父へやって来ること(ヨハネ6:56、14:20、15:4-6、17:19, 23)。

 (しかし、父なる神、子、聖霊の単一性について、多くのものが、メモラビリア962番の中に見られる)。

 [9] 「第二に、「あなたの名前が聖なものとされますように」は、主に近づくこと、その方を礼拝することであることを、私たちはこれらによって確認した――

 

 「だれがあなたの名前を栄化(賛美)しないか、〔あなた=その方〕おひとりが聖なる方であるからである」(黙示録15:4)。

 

 これらは主についてである。

 

 イエスは言われた、「父よ、あなたの名前を賛美します。また、天から声が出た、わたしは栄化した、また栄化しよう」(ヨハネ12:28)。

 

 父の「名前」は神的人間性であり、それが栄化された。

 イエスは言われた、「わたしはわたしの父の名前の中にやって来る」(ヨハネ5:43)。

 イエスは言われた、この少年をわたしの名前の中で受け入れる者は、わたしを受け入れる。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れる」(ルカ9:48)。

 「あなたがたが、イエスがキリスト、神の子であることを信じるために、そのようにまた、信じる者(あなたがた)がその方の名前の中でいのちを持つように、これらが書かれた、」(ヨハネ20:31)。

 「その方を受け入れたと同数の者に、その方の名前を信じている者に、彼らに神の子となるような力を与えた」(ヨハネ1:12)。

 「あなたがたがわたしの名前の中で求めるどんなものでも、父が子の中で栄化されるために、わたしは行なう」(ヨハネ14:13, 14)。

` 「信じなかった者はすでにさばかれている、神のひとり子の名前を信じなかったからである」(ヨハネ3:16, 16, 18)。

 「ふたりまたは三人がわたしの名前の中で集められているところに、そこにその真ん中にわたしはいる」(マタイ18:19, 20)。

 イエスは弟子たちに、その方〔ご自分〕の名前の中で宣べ伝えられるように言われた(ルカ24:47)。

 (「主の名前」が言われているほかの他の箇所に、それによって、ご自分の人間性に関するその方が意味される、例えば、マタイ7:22、10:22、18:5、19:29、24:9, 10、マルコ11:10、13:13、16:17、ルカ10:17、19:38、21:12, 17、ヨハネ2:23)。

 

 それらから、父はこの中で、また天使と人間により子を通して神聖なものとされること、またこのことが「あなたの名前が聖別される(神聖なものとされる)〔ように〕」であることが明らかである(「ヨハネ福音書」に、さらに明らかなように、17:19, 21, 22, 23, 26)。

 [10] 「第三に、「あなたの王国がやって来る〔ように〕」は主が支配されることであることを、私たちはこれらによって確信した――

 

 「律法と預言者はヨハネまでである。この時から、神の王国〔の福音〕が宣べ伝えられている」(ルカ16:16)

 ヨハネは、「王国の福音を宣べて、言った、時は満ちた、神の王国は近づいた」(マルコ1:14, 15、マタイ3:2)。

 イエスご自身が福音を、神の王国が近づいたことを宣べ伝えられた(マタイ4:17, 23、9:35)。

 イエスは弟子たちに、神の王国を宣べ伝え、福音をもたらすよう命じられた(マルコ16:15、ルカ8:1、9:60)。

. 同様に、七十人を遣わされた(ルカ10:9, 10)。(ほかに他の箇所に、例えば、マタイ11:5、16:27, 28、マルコ8:35、9:1, 47、10:29, 30、11:10、ルカ1:19、2:10, 11、4:43、7:22、17:20, 21、21:30, 31、22:18)。

 

「福音がもたらされる神の王国」は、主の王国、このように父の王国であった。そのようであることは、これらから明らかである――

 

 「父は、すべてのものを子の手の中に与えられた」(ヨハネ3:35)。

 「父は子にすべての肉の力を与えられた」(ヨハネ17:2)。

 「すべてのものが、わたしに父から渡された」(マタイ11:27)。

 「わたしに天と地のすべての力が与えられている」(マタイ28:18)。

 

 また、さらに、これらから――

 

 「その方の名前は万軍のエホバ、イスラエルの聖なるあがない主、全地の神と呼ばれる」(イザヤ54:5).

「私は見た、見よ、人の子のような〔方〕、その方に支配と栄光と王国が与えられ、すべての民と国がその方を礼拝する。その方の支配は永遠の支配、それは移らない、またその方の王国、それは滅びない」(ダニエル7:13, 14)。

 「第七の天使がらっぱを吹き鳴らしたとき、天の中に大きな声が起こって、世の王国は私たちの主のもの、そのキリストのものになった、また永久に支配する、と言った」(黙示録11:15、12:10)。

 

 主のその王国について、「黙示録」の中で、始めから終わりまで扱われている。

in quod venturi sunt omnes qui e Nova Domini Ecclesia, quae est Nova Hierosolyma, erunt. その中にすべての者がやって来る(ことになる)、その者は~なる、主の新しい教会からの、それは新しいエルサレム。

[11] 「第四に、「あなたの意志(みこころ)が、天界の中のように、地の中でもまた行なわれる〔ように〕」を私たちはこれらによって確認した――

 

 イエスは言われた、「子を見る、またその方を信じるすべての者が永遠のいのちを持つこと、これが父の意志(みこころ)である」(ヨハネ6:40)。

; 「神は、ご自分のひとり子を与えたようにこれほどに世を愛した、その方を信じたすべての者が、滅びないで、永遠のいのちを持つためにである」(ヨハネ3:15, 16)。

 「子を信じる者は、永遠のいのちを持つ。けれども、子を信じない者は、神の怒りが彼の上にとどまる」(ヨハネ3:36)。

 (ほかに他の箇所に)。

 

 「その方を信じること」は、その方に近づくこと、そして世の救い主であるので、その方が救うという信頼を持つことである。

 ほかに、主イエス・キリストが天界の中で支配していることは、教会の中でよく知られている。その方もまた、ご自分の王国がそこにあることを言われている。そこで、主が同様に教会の中で支配するとき、その時、父のみこころが、天界の中のように、地の中でもまた行なわれる」。

 [12] 「最後に、これらに私たちはこれらを加えて言った――

 「全キリスト教界の中で、教会に属す者が、キリストの身体をつくること、またその方の身体の中にいることが言われている。その時、教会の人間は、その方の身体の中にいるその方によってでないなら、どのように、父なる神に近づくことができるのか。もし、〔これと〕異なって〔近づくなら〕、まったく身体から出て、近づくことになろう」。

 [13] これらと多くのものを、みことばからさらに聞いて、ハルマゲドンの住民は、たびたび私たちの会話をさえぎり、主がご自分の父と、〔自分自身を〕空(から)にした状態の中で話した☆6ることを示すこと欲した。しかし、その時、みことばに反駁することが彼らに許されなかったので、舌が彼らの口蓋にくっついた。

 しかし、最後に〝彼らの舌の抑制がゆるめられて〟☆叫んだ、「あなたがたは私たちの教会の教え、父なる神は直接に近づき、その者を信じるべきである、に反して話した(☆〝・・・〟の箇所を直訳から落してしまいました)。このようにあなたがたは、私たちの信仰の暴行の罪をつくっている。それゆえ、ここから出よ、またもし〔出〕ないなら、あなたがたを追い出そう」。また彼らのアニムス(心)は火をつけられて〝おどし〟☆から〔追い出す〕努力の中へやって来た(直訳で「小さいもの」としましたが、おどし(mimae)でした)。

しかし、その時、私たちに与えられた力から、私たちは彼らを盲目で打った、そのことから、彼らは私たちを見ないで平野へと突発した、それは荒野であった。また、彼らが、あなたがたに、あたかも馬の上のサルのように見られた者であり、少年たちにより窓から像や偶像のように見られた、それらの前に残りの者たちがひざを曲げた者であった」。

 

☆1 ここの「ルークス」を後で再録した『真のキリスト教』113番では「ルーメン」に書き換えています。

☆2 「真理の」は後から出版された『真のキリスト教』113では「善の」に変えられています。

☆3 ここの言語は procere「指導者たち、貴族たち」ですが、後でアナク人に言及していることから proceros「背の高い人たち」のミスプリでしょう。

☆4 「申命記」9:2。

☆5 「おそらくここにあなたがたの三つの気晴らし(遊び)からの」の部分は『真のキリスト教』113番で削除されています。「三つの気晴らし」が何か、(他の箇所で言及されていないので) 私にはわかりません。

☆6 主には「空にした状態(卑下の状態)」と「栄化の状態」がありました(『真のキリスト教』107番参照)。

 

◎「黙示録」も残りあと三章です。三か月以内に終了するでしょう。次に何をしようかと思っていました。

『天界の秘義』も考えてみましたが、『霊界体験記』(霊界日記)にするとにしました。一つは残りの人生の時間を思ったこと。もう一つは(こっちのほうが重要か)、静思社版の柳瀬訳には訳出していない「・・・」の箇所が多すぎて、言葉悪く言えば「不良品」とも言えるものとなっていることです(誤訳のあります)。

 ここで原典直訳を皆さまに提示することが、勉学の何らかの役に立つかと思います。

 ここ数日、その原文の用意をしていました。底本は新教会アカデミーの『EXPERIENTIAE SPIRITUALES』です(1983~1993、続いてその「索引」が出されています、限定200部)。これ以前にJ.F.I.ターフェルが出版しており、これは二度目の原典出版となります(その間、研究は非常に進んでいます)。

 題名は直訳なら『霊的な経験』ですが、これだと非常に広い意味なので、限定的な『霊界体験記』とした方が、内容をよく伝えているでしょう。本書をスヴェーデンボリ自身は『霊界日記』とは言っていません。

なぜこの題名となったかは、いずれ、紹介します。

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