(3) 訳文
1. 「また、七つの鉢を持っている七つの天使たちからのひとりがやって来て、私と話した」は、今や、ローマカトリックの宗教的信念について、主による天界の最内部からの流入と啓示を意味する(718番)。「私に言って、『来い、私はあなたに多くの水の上に座っている大いなる淫婦の審判を示す』」は、その冒涜、また〝真理〟の不純化に関して、その宗教的信念についての啓示を意味する(719番)。
2. 「彼女と地の王たちは淫行した」は、みことばからの教会の真理と善を不純化したことを意味する(720番)。「地に住む者たちはその淫行のぶどう酒からから酔わされた」は、その宗教的信念の中にいる者のもとで、真理の不純化から霊的なものの中での狂気を意味する(721番)。
3. 「また、私を霊の中で荒野の中に連れて行った」は、霊的な状態の中で教会のすべてのものが荒らされた者のもとへ連れて行かれた、を意味する(722番)。「すると、私は、冒涜の名前で満ちた緋色の獣の上に座っている女を見た」は、彼らにより冒涜されたみことばについてその宗教的信念を意味する(723番)。「七つの頭と十の角を持っている」は、みことばからの、最初は聖なるもの、その後、〔聖なるものが〕何もないもの、また最後に狂気となった知性を、そしてみことばからの絶えない大きな力を意味する(724番)。
4.「また、紫と緋色を着た女」は、彼らのもとの、みことばに属す天的な神的善と神的真理を意味する(725番)。「金と宝石で金箔を被せた」は、彼らのもとの、みことばに属す霊的な神的善と神的真理を意味する(726番)。「真珠で」は、彼らのもとの、みことばに属す善と真理の知識を意味する(727番)。「自分の手の中に、忌まわしいものとその淫行の不潔に満ちた金の杯を持っていた」は、冒涜されたみことばの聖なるものから、また恐るべき虚偽によって汚された善と真理からのその宗教的信念を意味する(728番)。
5. 「その額の上に名前が書かれていた、『秘義、大バビロン、淫行と地の忌まわしいものの母』」は、隠されたものであるローマカトリックの宗教的信念が内的にどんなものであるか、を意味する、それは教会の聖なるもの、また天界のもの、そのように主のまたその方のみことばのすべてのものの関して、支配する愛から、その起源から、それらを汚し、また冒涜した、それらはみことばの、またここから教会のものである(729番)。
6. 「また、私は、聖徒の血から、またイエスの証人たちの血から酔っている女を見た」は、主の神的真理と善の不純化されたまた冒涜されたものから狂っている、みことばのまたここから教会のその宗教的信念を意味する(730番)。「私は、彼女を見て、大きな驚きで驚いた」は、その宗教的信念が内的にそのようなものである、そのときそれでも外的に異なって見えることの驚きを意味する(731番)。
7. 「すると、天使は私に言った、『なぜ、あなたは驚くのか? 私はあなたに、女の、また彼女を運んで、七つの頭と十の角を持っているいる獣の秘義を言う」は、先行し、また見られたそれらが何を意味するか、それらを明らかにすることを意味する(732番)。
8. 「あなたが見た獣は、〔かつて〕いた、また〔今は〕いない」は、彼らのもとで聖なるものとして認められたみことばを意味する、それでも実際には認められていない(733番)。「また深淵から上り、滅亡の中へ行くことになる」は、教皇の枢密会議で、数回、平信徒と大衆がみことばの受け入れと読むことについての考慮したことを意味する、しかし、退けられた(734番)。「地上に住み、世の創設から、いのちの書の中に名前を書かれていない者は、その獣を見て、驚くであろう、それは〔かつて〕いた、また〔今は〕いない、しかしそれでもいる」は、その宗教的信念の中にいて、その設立のときから天地の上に支配を得えようと求めたすべての者は、みことばが、たとえそのように退けられても、それでも存在することに対する彼らの驚きを意味する(735番)。
9, 10. 「これが知恵を持っている心〔である〕」は、これが、自然的な意味での解釈であることを意味する、しかし、主からの霊的な意味の中にいる者のためのものである(736番)。「七つの頭は七つの山であり、そこに女はその上に座っている。また七つの王たちである」は、みことばの神的善と神的真理を意味する、それらの上にその宗教的信念は基礎を据えらており、時が経るにつれて、破壊され、最後に冒涜された(737番)。「五つは倒れた、一つはいる、もう一つはまだやって来ない。またやって来る時、しばらく、それを〔待って〕とどまらねばならない」は、主に天界と地の中のすべての力が与えられていること、この一つを除いて、みことばのすべての神的真理が破壊されたことを意味する。またまだ調査(質問)の中にやって来ていないもう一つを除いて、それは主の人間性が神性(神的なもの)であることであり、〔それがやって来るときそれは〕存続しない (738番)。
11. 「また、〔かつて〕いた、また〔今は〕いない獣そのものは第八番目であり、七つから〔の一つ〕であり、滅亡の中へ行く」は、みことばが、それについて最初、神的善そのもの、神的真理であり、またそこに冒涜と不純化がないように指導者によって行なわれて平信徒と大衆に取り去られたこと、また彼らがこのために引き下がったことが見られたことを意味する(739番)。
12. 「あなたが見た十の角は、十の王たちであり、その者はまだ王国を受けていない」は、フランスの王国の中にいて、そのように教皇の支配のくびきの下にいない、それでも、まだ教会はそのようにローマカトリックの宗教的信念から分離されていない者のもとの神的真理からの力に関するみことばを意味する(740番)。「しかし、獣とともに、一時、あたかも王のような力を受ける」は、彼らのもとに、みことばは力がある、また彼らはみことばによってその神的真理の中にいるかのようであることを意味する(741番)。
13. 「これらの者は一つの意見(判断)を持っており、自分の力と権威を獣に引き渡す」は、彼らが一致して、教会についての上の統治と支配がもっぱらみことばによって行なわれることうぃ認めることを意味する(742番)。
14. 「これらの者は小羊と戦う、しかし、小羊は彼らに勝つ、主の主また王の王であるからである」は、主は天地の神、そしてまたみことばであるので、その方の神的人間性の認知について、彼らとの主の戦いを意味する(743番)。「またその方とともにその者たちは、召された者、選ばれた者、また忠実な者たちである」は、主おひとりに近づき、礼拝する者は、天界の中にやって来る者であり、その者は外なる教会の中にも、その内なるものまた最内部の中にもいる(744番)。
15. 「また、私に言った、『あなたが見た水は、そこに淫婦が座っている〔ところは〕、民と群衆、また国民と言語である」は、教皇の支配の下にいることを意味する、しかし、その者はいろいろな教えと矯正(しつけ)から、またいろいろな宗教とその告白から、その宗教的信念により不純化されたまた冒涜されたみことばのいろいろなものの中にいる(745番)。
16. 「あなたが獣の上に見た十の角は、淫婦を憎む者である」は、教皇の支配のくびきを自分自身から完全に退けた改革派の教会の者のもとの神的真理からの力に関するみことばを意味する(746番)。「彼女を荒涼させ、裸にする」は、彼らは自分自身〔から〕虚偽とその悪を脱ぎ捨てることを意味する(747番)。「その肉を食べ、火で焼く」は、その宗教的信念に固有のものである悪と虚偽を意味し、それらは、憎しみから断罪し、また自分自身のもとで破壊し、宗教的信念そのものを呪い、自分自身のもとで消す(748番)。
17. 「神は、神のみことばが成就されるまで、彼らの心の中に神の意見(判断)を、また〔彼らが〕一つの意見(判断)をつくること行なう、彼らの王国を獣に与えたからである」は、ローマカトリックの宗教的信念の体系が完全に拒絶され、呪われ、自分自身のもとで消され、根絶されること、そして、みことばを認め、またその上に教会を建てるという、主からの彼らのもとの一致する審判(判断)を意味する(748番)。「神のみことばが成就されるまで」は、それらについて予言されたすべてのものが成就する時まで、を意味する(750番)。
18. 「あなたが見た女は、地の王たちの上に王国を持っている大きな都である』」は、ローマカトリックの宗教的信念が教えに関して、またある部分に関して、改革派教会の者のもとでもまた依然として、たとえ教皇の支配の下にいなくても、キリスト教界の中で支配していることを意味する(751番)