(3) 訳文
675 ここに私はこのメモリビリアを加える――
イギリス人からの一つの社会の中に、主から天界を通って降ろされたある紙が見られた、しかしその社会は彼らの最小のものの間にあった、そこにもまたふたりの主教がいた。その紙の中に、主を天地の神として認めるように (その方が教えるように、マタイ28:18)、また、律法の働き(業)なしに義とする信仰について、間違ったものなので、その教えから去るようにとの警告があった。
その紙は多くの者により読まれ、筆写され、また、それらの中にあったことについて、内的な判断から健全に考え、また話し、そして主から照らされた、また照らしは光の中で受け入れられた、その光は他の者よりもイギリス人に植え付けられていた。
しかし、それらを受け入れた後、自分たちの間で言った、「私たちは主教たちに聞こう」。
聞かれた、しかし、彼ら〔主教たち〕は否定し、不可とした。けれども、その主教たちは、教会の聖なるものの上に支配する愛から信仰と仁愛の霊的なものに関して固い心であり、さらにそこの政治の事柄での卓越から、世の中でそうなった者たち〔からの者たち〕であった。
それゆえ、自分たちの間の短い協議の後、天界からやって来た紙をそこへ送り返した。
その行為に、あるブツブツ声の後、大部分の平信徒は自分の以前の承諾から引き下がった、その時、霊的なものの中での彼らの光は、それは前に光を放っていたが、急に消えた。また、再び、しかし、むだに警告された後、私はその沈む社会を見た、しかし、それを深くは見なかった、そのように私は、もっぱら主を礼拝し、信仰のみを退けるイギリス人の視野から遠ざがった。
[2] しかし、数日後、私は「低い地」からそれでも百〔人〕の上って来る者を見た、そこへその小さな社会が沈んだのだった、その者は私に近づいた。彼らからのある賢明な者が話して言った、「私は驚くべきことを聞いた――私たちが沈んでいる時、私たちに最初の場所が池のように、しかし、じきに、乾いた地のように、またその後、小さな都に見られた、その中に、それぞれの者に自分の、しかし、卑しい家があった。
翌日、私たちは私たちの間で、何をすべきか協議した。
多くの者は、天界から降った紙を送り返し、またそのためにこのことが私たちに起こったので、そのふたりの主教たち近づき、穏やかに非難すべきであることを言った。
ある者たちを選び、その者は主教たちに近づいた」(また、私に話す者が言った、その者たちからのひとりであった)、「またその時、私たちの間の知恵で強力である者が主教たちに、このように話した――
「『聞け、あなたがた父たち、私たちは信じていた、私たちのもとに他の者にまさって教会があること、それはキリスト教界の中で第一のものと呼ばれるに値する、また宗教があること、それは大いなるものと呼ばれるに値する。しかし、私たちに天界からの照らしが与えられた、また照らしの中で知覚を、今日、キリスト教界の中に、もはや教会はない、もはや宗教もないこと』。
[3] 主教たちは言った、「何をあなたがたは言うのか? そこにみことばがあり、そこに救い主キリストが知られている、またそこに典礼(秘跡)があるのが、教会ではないのか」。
これらに私たちは答えた、『それらは教会のものである、また、それらは教会をつくる、しかし、〔それらは〕教会を人間の外につくらないで、人間の内につくる』。
またさらに言った、『教会に関して――教会は存在することができる、そこに三つの神が礼拝されている〔ところに〕。教会は存在することができる、その教え全体がパウロの言ったただ一つの虚偽の理解の上に基づいている、またここからみことばの上に〔基づいてい〕ない〔ところに〕。教会は存在することができる、世の救い主が近づかれない時、またそこにその方が二つに分割されている〔ところに〕。
宗教に関して――だれが否定することができるか? むしろ宗教は悪を避けることと善を行なうことである。そこに、信仰だけが救うこと、また同時に、仁愛は〔救わ〕ない教えられる〔ところに〕、何らかの宗教があるのか? そこに、人間から発出する仁愛は、道徳的また市民的な仁愛でしかないことが教えられる〔ところに〕、宗教があるのか? その仁愛の中に、何らかの宗教のものがないことを、だれが見ないか? 信仰だけの中に何らかの行なわれたものまたは働きのものがあるのか? それでも行なうことの中に宗教が存する。
全地球の中に、善(の)働きである仁愛の善による救うすべてのものを排除する宗教があるような国民は存在するのか? そのときそれでも、宗教のすべてのものは善の中に、また教会のすべてのものは教えの中に存する、それは真理を、また真理を通して善を教える。見よ、父たち、何の栄光が私たちにあっただろうか、もし教会が、それは〔もはや〕ない、また宗教が、それは〔もはや〕ない、私たちのもとに始まり、また起こるなら☆。☆ この箇所を「直訳」では、訳すのを漏らしてしまいました。
[4] 「その時、それらの主教たちは言った、『あなたはあまりに声高に話す。完全に義とする活動での信仰が、救う信仰であり、教会ではないのか。また、発出するまた完成する信仰の状態が、宗教ではないのか。このことを把握せよ、子たちよ」。
「しかし、その時、イギリス人の賢明な者は言った、『聞け、父たち――人間は切り株のように活動での信仰を〔心に〕抱かないか? あなたがたの観念にしたがって、切り株の中で、その時、生かされるものが教会ではないのか? 信仰の状態は、活動での信仰の継続と進行でないのか? また、あなたがたの観念にしたがうとき、救うすべてのものは信仰の中にあり、人間により仁愛の善の中に何らかのものはない、〔では〕その時、どこに宗教があるのか?」
「その時、主教たちは言った、『友よ、そのようにあなたは話す、あなたは信仰のみによる義認の秘義を知らないからである。また、それを知らない者は、内的なものからの救いの道を知らない。あなたの道は外なる道であり、庶民のものである。もし、あなたが欲するなら、それを行け。しかし、あなたは単に、すべての善は神からであること、また決して人間からでない、またこのように人間は霊的なものの中でまったく何も自分自身からできないことを知らなければならない。その時、どのように人間は霊的な善である善を自分自身から行なうことができるのか』。
[5] 「これらに、彼らと話すイギリス人は憤慨して言った、『私はあなたがたの義認の秘義をあなたがたよりもさらに知っている。腹蔵なく、あなたがたに言う、あなたがたの秘義の中の内部に、私は亡霊しか見なかった。
宗教は神を認めることと愛すること、そして悪魔を避けることと憎しみを持つことではないのか。神は善そのもの、悪魔は悪そのものではないのか。全地球の中で、その者に宗教があるだれがこのことを知らないか? 神を認めることと愛することは、善を行なうことではないのか? これは神のもの、また神からのものであるので。また悪魔を避けることと憎しみを持つ、悪を行なわないことではないのか? これは悪魔のもの、また悪魔からのものであるので。
あなたがたが十分に義とするまた救う信仰と呼ぶ、または同じこと〔であるが〕、信仰のみによって義とするあなたがたの活動と呼ぶ〕あなたがたの活動での信仰は、何らかの善を行なうことを教えないのか? それは神のもの、また神からのものである、また教えないのか、何らかの悪を避けること、それは悪魔のもの、また悪魔からのものであることを。あなたがたは。どちらの中にも救いはないと決め込んでいるので、まったく何も教えない。
あなたがたが発出するまた完全にする信仰と呼ぶ、あなたがたの状態での信仰は、活動での信仰と同じものでないなら何か。
どのようにこれは完全にされることができるのか、あなたがたが、自分自身によるように人間によるすべての善を、救いが無料(恩恵からのもの)である言って排除するとき、どのように人間は自分自身からの何らかの善によって救われることができるのか? なおまた、人間からの善とは功績を求めるものでないなら何か?〔〕、またそれでもすべての功績はキリストのものである。それゆえ、救いの理由で善を行なうことは、自分自身に帰することになる、それはキリストだけのものである、さらにまたこのように自分自身に義とすることと救うことを欲することになる〔と言って〕。なおまた、聖霊がすべてのものを、人間の何の働きもなしに働くとき、その時、人間からの何らかの付けたしの働きとは何か? 人間によるすべての善は本質的に善でないとき、どのようにだれかが善を働くことができるのか?〔と言って〕。ほかに多くのこと。
[6] これらがあなたがたの秘義ではないのか? しかし、それらは私の目の中に、あなたがたが善の働きを遠ざけるための目的のためにつくった 単なる詭弁と欺瞞である、それらは、あなたがたの信仰のみを確実にするための仁愛の善である。
またこのことをあなたがたは行なうので、あなたがたは人間を、それら〔善の働き〕に関して、また全般的に、教会と宗教のものであるすべての霊的なものに関して、丸太のように、あるいは、生命のない偶像(彫像)のように見なし、人間を神の像へ向けて創造された〔もの〕として〔見なさ〕ない、人間には理解し、意志する能力が、信じ、愛し、そして話し、行なう〔能力が〕、完全に自分自身からのように、特に霊的なものの中で与えられている、また絶えず与えられている、人間はそれらから人間であるからである。
もし、人間が霊的なものの中で考えない、また活動しないなら、自分自身からのように、その時、信仰とは何か? その時、仁愛とは何か? また、その時、礼拝とは何か? それどころか、 その時、教会と宗教とは何か? あなたがたは、愛から隣人に善んを行なうことが仁愛であることを知っている。しかし、あなたがたは、何が仁愛か知らない、そのとき、それでも、仁愛は信仰の霊魂、生活(いのち)と本質である。また仁愛はそれらすべてのものであるので、その時、仁愛から遠く離れた信仰とは死んだものでないなら何か? 死んだ信仰は亡霊以外でないなら〔何ものでも〕ない。私はそれを亡霊と呼ぶ、ヤコブが善の働きなしの信仰を、死んだものとだけでなく、悪魔のようなものともまた呼んだので』。
[7]「その時、その主教たちからのひとりは、自分の信仰が死んだもの、悪魔のもの、また亡霊と呼ばれているのを聞いたとき、自分の頭から司教冠ひったくって、『私たちの教会の敵を復讐する前に、私は取り戻さない』と言って、机の上に投げつけ、それほどに激しく怒った。また、ぶつぶつ言いながら頭を動かし、『あいつだ、ヤコブ、あいつだ、ヤコブ』と言った。
司教冠の上に金属板があり、それに「信仰のみ」と彫り込まれていた。
またその時、突然に、地から起き上がる怪物が見られた、七つの頭とともに、雌グマのような足、ヒョウのような身体、またライオンのような口とともに、「黙示録」第13章(1, 2節)に描かれている獣にまったく似て、その像が造られ、崇拝された(14, 15節、同じ章の中に)。この怪物は机から司教冠を取り、その下方を広げ、自分の七つの頭の上に置いた。その行為で、地は、その足の下に開き、地獄の中に沈んだ。それを見て、その主教は叫んだ、『暴力だ、暴力だ』。
その時、私たちは彼らから去った。見よ、私たちの目の前に階段あり、それを通って私たちは上った。私たちは地の上へ、また天界の視野の中に戻った、以前に、私たちはそこにいた」。
これらをイギリス人の賢明な者が私に語った。