[4] Hoc mysterium paene similiter ut hic in Apocalypsi, describitur apud Danielem, ubi haec: [4] この奥義がほとんど同様にここにのように「黙示録」の中に、「ダニエル書」のもとに述べられている、そこにこれらが――
“Audivi virum indutum linteis, quod sustulerit manus suas ad Caelum, et juraverit per Viventem in aeternum, quod ad tempus statum temporum statorum et dimidium,” quum consummanda sunt omnia haec: 「私は亜麻布を着た男を見た、自分の手を天へ向けて上げていること、また永遠に生きる方によって誓う、このことを、一定の時(複数)の一定の時に向けて、また半分の〔時〕」、そのとき、これらすべてのものが完了 (完成)しなければならない――。
verum dixit, “Abi Daniel, quia occlusa et obsignata verba usque ad tempus finis” (xii. 7, 9); けれども、彼は言った、「ダニエルよ、行け。〔この〕ことばは閉ざされ、封じられているからである、終わりの時まで」(12:7, 9)。
“usque ad tempus finis” est usque ad hoc tempus. 「終わりの時まで」はこの時までも、である。
Quod tunc Filius Hominis accepturus sit Regnum, praedicit his verbis: その時、人の子が王国を受け取ることは、これらのことばで予言されている――
“Videns fui in Visionibus noctis, et ecce cum nubibus caelorum, sicut Filius Hominis, veniens fuit; 「私は夜の幻の中で見た、また、見よ、天の雲とともに、人の子のような〔方が〕、やって来た。
et Huic datum est Dominium, et Gloria, et Regnum, et omnes populi, gentes et linguae Ipsum colent; またこの方に、主権と栄光と王国が与えられた、またすべての民族と国民と言語はその方を礼拝した。
Dominium Ipsius Dominium saeculi quod non transibit, et Regnum Ipsius quod non peribit” (Dan. vii. 13, 14). その方の主権は永遠の主権、それは過ぎ去らない、またその方の王国は、それは滅びない」(ダニエル12:13, 14)。
[5] Quod “evangelizare” significet Adventum Domini, et tunc Regnum Ipsius, patet ex his locis: [5] 「福音をもたらす(宣べ伝える)こと」が主の来臨を意味すること、またその時、その方の王国を、これらの箇所から明らかである――
“Super Montem ascende tibi, Evangelizatrix Sion: 「あなたに、山の上に上れ、福音を説く女、シオン。
extolle cum virtute vocem tuam, Evangelizatrix Hierosolyma; 力とともにあなたの声を上げよ、福音を説く女、エルサレム。
dic, Ecce Deus vester: 言え、見よ、あなたがたの神を。
ecce Dominus Jehovih in forti venit, et brachium Ipsius dominabitur Ipsi” (Esaj. xl. 9, 10{1}); 見よ、主エホビは力の中でやって来る、またその方の腕はその方(のため)に統治する」(イザヤ40:9, 10)。
“Quam jucundi sunt super montibus pedes Evangelizantis, audire facientis pacem, Evangelizantis bonum, audire facientis salutem, dicentis Sioni, Regnabit Deus{2} tuus” (Esaj. lii. 7, 8; Hab. ii. 1 [B.A. i. 15]; 「山の上で福音をもたらす(宣べ伝える)者の足は何と快いか、あなたがたは平和を聞くことをつくる、善いことを宣べ伝える、救いを聞くことをする、シオンに言う、あなたの神が支配するであろう〔と〕」(イザヤ52:7, 8、ハバクク1:15)。
“Cantate Jehovae, benedicite in Nomine Ipsius, Evangelizate de die in diem Salutem Ipsius; 「エホバに歌え、その方の名前の中で祝福せよ、日について、その方の救いの日の中で福音をもたらせ(宣べ伝えよ)。
Jehovah quia venit” (Psalm. xcvi. 2, 13); エホバがやって来られるからである」(詩篇96:2, 13)。
“Spiritus Domini Jehovih super Me, ideo unxit Jehovah Me ad Evangelizandum pauperibus, ad praedicandum captivis libertatem, ac proclamandum annum beneplaciti Jehovae” (Esaj. lxi. 1, 2); 「主エホバの霊が私の上に〔ある〕、それゆえ、エホバは私に油を注いだ(ungo)、貧しい者に福音をもたらす(宣べ伝える)ために、捕えられた者に解放を語る(宣べ伝える)ために、そしてエホバの喜ばれる年を宣言(布告)するために」(イザヤ61:1, 2)。
“Angelus ad Sachariam, ecce uxor tua pariet filium, qui praecedet coram Domino Deo in spiritu et virtute Eliae, et ad parandum Domino populum ego sum Gabriel, et missus sum ad Evangelizandum tibi hoc” (Luc. i. 13, 17, 19); 「天使はザカリヤに〔言った〕、見よ、あなたの妻は子を産む、その者はエリアの霊と力の中で主なる神の前を先行する(=前触れとなる)、また私はこのことをあなたに福音を宣べ伝えるために遣わされた」(ルカ1:13, 17, 19)。
“Angelus dixit pastoribus, Ne timete, ecce Evangelizo vobis gaudium magnum: 「天使は羊飼いたちに言った、恐れるな、見よ、私はあなたがたに大いなる楽しさ(喜び)の福音をもたらす(宣べ伝える)――
quia natus est vobis hodie Salvator, Qui est Christus Dominus, in urbe Davidis” (Luc. ii. 10, 11); あなたがたに、今日、救い主が生まれたからである、その方は主キリストである、ダビデの都の中で」(ルカ2:10, 11)。
Quod Dominus Evangelizaverit Regnum Dei (Matth. iv. 23; cap. ix. 35{3}; Marc. i. 15; Luc. vii. 22; cap. viii. 1; cap. ix. 1, 2); 主は神の王国の福音をもたらした(宣べ伝えた)こと(マタイ4:23、第9章35、マルコ1:15、ルカ7:22、第8章1、第9章1, 2)。
Quod Johannes Baptista (Luc. iii. 18); バプテスマのヨハネ〔も福音を宣べ伝えた〕こと(ルカ3:18)。
Jesus etiam dixit ad Discipulos, “Euntes in universum mundum, prae dicate Evangelium omni creaturae” (Marc. xvi. 15). イエスもまた弟子たちに言われた、「全世界の中に行き、すべての被造物の前に福音を言え」(マルコ16:15)。
Hoc etiam est “Evangelium aeternum” quod Angelus volans in medio Caeli habebat, “ad evangelizandum habitantibus super terra” (Apoc. xiv. 6). これもまた「永遠の福音」である、それを天の真ん中を飛んでいる天使が持っていた、「地の上の住民に福音をもたらす(宣べ伝える)ために」(黙示録16:6)。
[6] Dicitur quod “consummabitur mysterium Dei,” per quod intelligitur, quod nunc implebitur quod non impletum est prius; [6] 「神の奥義が完了(完成)させられるであろう」ことが言われる、そのことによって意味される、今や満たされる(成就される)こと、それは以前に満たされなかった(成就されなかった)。
quod est, quod Regnum futurum sit Domini: それである、王国が主のものになること。
non enim impletum est a Judaeis, quia illi non agnoverunt Dominum; というのは、ユダヤ人によって成就されなかったから、彼らは主を認めなかったからである。
nec impletum est a Christianis, quia hi nec agnoscunt Dominum pro Deo Caeli et Terrae etiam quoad Humanum, Hoc enim faciunt simile humano alterius hominis; キリスト教徒によっても成就されなかった、これらの者は主を天地の神として認めなかった、人間性に関しても、というのは、これ〔主の人間性〕を他の人間の人間性と同様のものとしたから。
quare non Ipsum immediate adeunt, cum tamen Ipse est Jehovah Qui in mundum venit. それゆえ、その方に直接に近づかない、そのときそれでも、その方がエホバである、その方が世にやって来た。
@1 10 pro “10, 11″ 注1 「10, 11」の代わりに10
@2 Deus pro “Rex” (Conf. n. 306; tum A.C. n. 3780, 8331; Ap. Ex. n. 365, 405, 612; V.C.R. n. 303; Dicta Prob. p. 54.) 注2 「Rex」の代わりに Deus(306番参照。なおまた『天界の秘義』3780, 8331番、『黙示録講解』365, 405, 612番、『真のキリスト教』303番、『是認された教令☆』54ページ) ☆『是認された教令?』(不詳)はスヴェーデンボリの著作ではありません。
@3 35 pro “3” 注3 「3」の代わりに 35
(3) 訳文
478 「また、ご自分のしもべの預言者たちが福音を宣べ伝えるように神の奥義が成就する」、その時、両契約のみことばの中に予言され、また今まで隠されたものが現われる(見える)こと、教会を荒廃させた者の上の最後の審判の後、主の王国がやって来ることを意味する。
「成就させられる」ことによって、完成させられること、終わりを持つこと、またその時、現われることが意味される。「預言者たちが福音を宣べ伝えた神の奥義」によって、みことばの中に予言されていて、これまで隠されたことが意味される。「福音を宣べ伝えること」によって、主の来臨とその方の王国を告げることが意味される、というのは、「福音」は喜ばしい使者☆であるから。このことは、教会を荒廃させた者の上に、みことばの中でも予言された最後の審判が行なわれたの後、存在するようになった、このことがどんなものかもまた意味されている。
これらから、これらすべてのものがそれらのことばによって意味されることを明らかにすることができる。
[2] ここに、最初に、主の来臨とその方の王国の予言について、両契約のみことばの中の何らかのものが言われる。
預言と呼ばれている旧い契約のみことばの中に、その霊的な意味で、その意味が輝き出ている自然的な意味の中に、主おひとりが扱われている、すなわち、定めの時に、その方の来臨について、それは、仁愛の善と信仰の真理が教会の中にもはや存在しない時であり、それはその教会の終結(完了)、荒廃、荒涼、決定と呼ばれる。なおまた、地獄とのその方の戦いについて、そしてその勝利について、それらもまたその方により行なわれた最後の審判である。またこれらの後、新しい天界の創造と新しい教会の設立について、それらは来たるべき主の王国である。これらもまた使徒のものと呼ばれる新しい契約のみことばの中に、また特に「黙示録」の中に扱われている。
[3] 主の王国であることは、「第七の天使の声の日に、福音を宣べ伝えるであろう」ことの中に、続く(第11)章の中に、これらの中に明らかである――
「また、第七の天使がらっぱを吹いた、また天の中に大きな声があり、言っていた、『世の王国は、私たちの主のもの、またその方のキリストのものになった、また永遠に支配する』――二十四人の長老たちは自分の顔の上に伏せ、神を崇拝し、言った、『私たちはあなたに、主なる神よ、その方はいる、またその方はいた、またその方はやって来る、あなたがあなたの偉大な力を得たこと、あなたが王国を引け受けたことを感謝する』」(15-17節)。
[4] ここの「黙示録」の中とほとんど同様こ奥義が、「ダニエル書」のもとに述べられている、そこにこれらが――
「私は、亜麻布を着て、自分の手を天へ向けて上げ、永遠に生きる方によって、このことを誓う男を見た、定まった〔いくつかの〕時の定まった時に、また半分の時に向けて」、そのとき、これらすべてのものが(完成しなければならない――けれども、彼は言った、「ダニエルよ、行け。〔この〕ことばは、終わりの時まで閉ざされ、封じられているからである」(12:7, 9)。
「終わりの時まで」はこの時までも、である。その時、人の子が王国を受け取ることは、これらのことばで予言されている――
「私は夜の幻の中で見た、また、見よ、天の雲とともに、人の子のような〔方が〕、やって来た。この方に、主権と栄光と王国が与えられ、すべての民族と国民と言語はその方を礼拝した。その方の主権は永遠の主権、それは過ぎ去らない、またその方の王国は、それは滅びない」(ダニエル12:13, 14)。
[5] 「福音を宣べ伝えること」が主の来臨を、またその時、その方の王国を意味することは、これらの箇所から明らかである――
「あなたに、山の上に上れ、福音を説く女シオン。力とともにあなたの声を上げよ、福音を説く女エルサレム。言え、見よ、あなたがたの神を。見よ、主エホビは力の中でやって来る、またその方の腕はその方のために統治する」(イザヤ40:9, 10)。
「山の上で福音を宣べ伝える者の足は何と快いのか、あなたがたは平和を聞くことをする、善いことを宣べ伝える、救いを聞くことをする、シオンに言う、あなたの神が支配するであろう〔と〕」(イザヤ52:7, 8、ハバクク1:15)。
「エホバに歌え、その方の名前で祝福せよ、日について、その方の救いの日の中で福音を宣べ伝えよ。エホバがやって来られるからである」(詩篇96:2, 13)。
「主エホバの霊が私の上に〔ある〕、それゆえ、エホバは、貧しい者に福音を宣べ伝えるために、捕えられた者に解放を告げるために、そしてエホバの喜ばれる年を宣言するために、私に油を注いだ」(イザヤ61:1, 2)。
「天使はザカリヤに〔言った〕、見よ、あなたの妻は子を産む、その者はエリアの霊と力で主なる神の前を先行する。私はこのことをあなたに福音を宣べ伝えるために遣わされた」(ルカ1:13, 17, 19)。
「天使は羊飼いたちに言った、恐れるな、見よ、私はあなたがたに大いなる喜びの福音を宣べ伝える――
あなたがたに、今日、救い主がダビデの都の中で生まれたからである、その方は主キリストである」(ルカ2:10, 11)。
主は神の王国の福音を宣べ伝えられたこと(マタイ4:23、9:35、マルコ1:15、ルカ7:22、8:1、9:1, 2)。
バプテスマのヨハネ〔も福音を宣べ伝えた〕こと(ルカ3:18)。
イエスもまた弟子たちに言われた、「全世界に行き、造られたべての者の前に福音を言え」(マルコ16:15)。
これもまた「永遠の福音」である、それを天の真ん中を飛んでいる天使が、「地の上の住民に福音を宣べ伝えるために」持っていた(黙示録16:6)。
[6] 「神の奥義が完成させられるであろう」ことが言われ、そのことによって、以前に成就されなかったことが今や成就されることが意味される。それは、王国が主のものになることである。というのは、ユダヤ人によって成就されなかったから、彼らは主を認めなかったからである。キリスト教徒によっても成就されなかった、これらの者は主を天地の神として、人間性に関しても認めなかった、というのは、これ〔主の人間性〕を他の人間の人間性と同様のものとしたから。それゆえ、その方に直接に近づかない、そのときそれでも、その方が世にやって来たエホバである。
☆「福音」のギリシア語の意味は「善い+使者」です。