原典講読『啓示された黙示録』 478(直訳[4]~[6]と訳文)

[4] Hoc mysterium paene similiter ut hic in Apocalypsi, describitur apud Danielem, ubi haec: [4] この奥義がほとんど同様にここにのように「黙示録」の中に、「ダニエル書」のもとに述べられている、そこにこれらが――

“Audivi virum indutum linteis, quod sustulerit manus suas ad Caelum, et juraverit per Viventem in aeternum, quod ad tempus statum temporum statorum et dimidium,” quum consummanda sunt omnia haec: 「私は亜麻布を着た男を見た、自分の手を天へ向けて上げていること、また永遠に生きる方によって誓う、このことを、一定の時(複数)の一定の時に向けて、また半分の〔時〕」、そのとき、これらすべてのものが完了 (完成)しなければならない――。

verum dixit, “Abi Daniel, quia occlusa et obsignata verba usque ad tempus finis” (xii. 7, 9); けれども、彼は言った、「ダニエルよ、行け。〔この〕ことばは閉ざされ、封じられているからである、終わりの時まで」(12:7, 9)。

“usque ad tempus finis” est usque ad hoc tempus. 「終わりの時まで」はこの時までも、である。

Quod tunc Filius Hominis accepturus sit Regnum, praedicit his verbis: その時、人の子が王国を受け取ることは、これらのことばで予言されている――

“Videns fui in Visionibus noctis, et ecce cum nubibus caelorum, sicut Filius Hominis, veniens fuit; 「私は夜の幻の中で見た、また、見よ、天の雲とともに、人の子のような〔方が〕、やって来た。

et Huic datum est Dominium, et Gloria, et Regnum, et omnes populi, gentes et linguae Ipsum colent; またこの方に、主権と栄光と王国が与えられた、またすべての民族と国民と言語はその方を礼拝した。

Dominium Ipsius Dominium saeculi quod non transibit, et Regnum Ipsius quod non peribit” (Dan. vii. 13, 14). その方の主権は永遠の主権、それは過ぎ去らない、またその方の王国は、それは滅びない」(ダニエル12:13, 14)。

[5] Quod “evangelizare” significet Adventum Domini, et tunc Regnum Ipsius, patet ex his locis: [5] 「福音をもたらす(宣べ伝える)こと」が主の来臨を意味すること、またその時、その方の王国を、これらの箇所から明らかである――

“Super Montem ascende tibi, Evangelizatrix Sion: 「あなたに、山の上に上れ、福音を説く女、シオン。

extolle cum virtute vocem tuam, Evangelizatrix Hierosolyma; 力とともにあなたの声を上げよ、福音を説く女、エルサレム。

dic, Ecce Deus vester: 言え、見よ、あなたがたの神を。

ecce Dominus Jehovih in forti venit, et brachium Ipsius dominabitur Ipsi” (Esaj. xl. 9, 10{1}); 見よ、主エホビは力の中でやって来る、またその方の腕はその方(のため)に統治する」(イザヤ40:9, 10)。

“Quam jucundi sunt super montibus pedes Evangelizantis, audire facientis pacem, Evangelizantis bonum, audire facientis salutem, dicentis Sioni, Regnabit Deus{2} tuus” (Esaj. lii. 7, 8; Hab. ii. 1 [B.A. i. 15]; 「山の上で福音をもたらす(宣べ伝える)者の足は何と快いか、あなたがたは平和を聞くことをつくる、善いことを宣べ伝える、救いを聞くことをする、シオンに言う、あなたの神が支配するであろう〔と〕」(イザヤ52:7, 8、ハバクク1:15)。

“Cantate Jehovae, benedicite in Nomine Ipsius, Evangelizate de die in diem Salutem Ipsius; 「エホバに歌え、その方の名前の中で祝福せよ、日について、その方の救いの日の中で福音をもたらせ(宣べ伝えよ)。

Jehovah quia venit” (Psalm. xcvi. 2, 13); エホバがやって来られるからである」(詩篇96:2, 13)。

“Spiritus Domini Jehovih super Me, ideo unxit Jehovah Me ad Evangelizandum pauperibus, ad praedicandum captivis libertatem, ac proclamandum annum beneplaciti Jehovae” (Esaj. lxi. 1, 2); 「主エホバの霊が私の上に〔ある〕、それゆえ、エホバは私に油を注いだ(ungo)、貧しい者に福音をもたらす(宣べ伝える)ために、捕えられた者に解放を語る(宣べ伝える)ために、そしてエホバの喜ばれる年を宣言(布告)するために」(イザヤ61:1, 2)。

“Angelus ad Sachariam, ecce uxor tua pariet filium, qui praecedet coram Domino Deo in spiritu et virtute Eliae, et ad parandum Domino populum ego sum Gabriel, et missus sum ad Evangelizandum tibi hoc” (Luc. i. 13, 17, 19); 「天使はザカリヤに〔言った〕、見よ、あなたの妻は子を産む、その者はエリアの霊と力の中で主なる神の前を先行する(=前触れとなる)、また私はこのことをあなたに福音を宣べ伝えるために遣わされた」(ルカ1:13, 17, 19)。

“Angelus dixit pastoribus, Ne timete, ecce Evangelizo vobis gaudium magnum: 「天使は羊飼いたちに言った、恐れるな、見よ、私はあなたがたに大いなる楽しさ(喜び)の福音をもたらす(宣べ伝える)――

quia natus est vobis hodie Salvator, Qui est Christus Dominus, in urbe Davidis” (Luc. ii. 10, 11); あなたがたに、今日、救い主が生まれたからである、その方は主キリストである、ダビデの都の中で」(ルカ2:10, 11)。

Quod Dominus Evangelizaverit Regnum Dei (Matth. iv. 23; cap. ix. 35{3}; Marc. i. 15; Luc. vii. 22; cap. viii. 1; cap. ix. 1, 2); 主は神の王国の福音をもたらした(宣べ伝えた)こと(マタイ4:23、第9章35、マルコ1:15、ルカ7:22、第8章1、第9章1, 2)。

Quod Johannes Baptista (Luc. iii. 18); バプテスマのヨハネ〔も福音を宣べ伝えた〕こと(ルカ3:18)。

Jesus etiam dixit ad Discipulos, “Euntes in universum mundum, prae dicate Evangelium omni creaturae” (Marc. xvi. 15). イエスもまた弟子たちに言われた、「全世界の中に行き、すべての被造物の前に福音を言え」(マルコ16:15)。

Hoc etiam est “Evangelium aeternum” quod Angelus volans in medio Caeli habebat, “ad evangelizandum habitantibus super terra” (Apoc. xiv. 6). これもまた「永遠の福音」である、それを天の真ん中を飛んでいる天使が持っていた、「地の上の住民に福音をもたらす(宣べ伝える)ために」(黙示録16:6)。

[6] Dicitur quod “consummabitur mysterium Dei,” per quod intelligitur, quod nunc implebitur quod non impletum est prius; [6] 「神の奥義が完了(完成)させられるであろう」ことが言われる、そのことによって意味される、今や満たされる(成就される)こと、それは以前に満たされなかった(成就されなかった)。

quod est, quod Regnum futurum sit Domini: それである、王国が主のものになること。

non enim impletum est a Judaeis, quia illi non agnoverunt Dominum; というのは、ユダヤ人によって成就されなかったから、彼らは主を認めなかったからである。

nec impletum est a Christianis, quia hi nec agnoscunt Dominum pro Deo Caeli et Terrae etiam quoad Humanum, Hoc enim faciunt simile humano alterius hominis; キリスト教徒によっても成就されなかった、これらの者は主を天地の神として認めなかった、人間性に関しても、というのは、これ〔主の人間性〕を他の人間の人間性と同様のものとしたから。

quare non Ipsum immediate adeunt, cum tamen Ipse est Jehovah Qui in mundum venit. それゆえ、その方に直接に近づかない、そのときそれでも、その方がエホバである、その方が世にやって来た。

@1 10 pro “10, 11″ 注1 「10, 11」の代わりに10

@2 Deus pro “Rex” (Conf. n. 306; tum A.C. n. 3780, 8331; Ap. Ex. n. 365, 405, 612; V.C.R. n. 303; Dicta Prob. p. 54.) 注2 「Rex」の代わりに Deus(306番参照。なおまた『天界の秘義』3780, 8331番、『黙示録講解』365, 405, 612番、『真のキリスト教』303番、『是認された教令☆』54ページ) ☆『是認された教令?』(不詳)はスヴェーデンボリの著作ではありません。

@3 35 pro “3” 注3 「3」の代わりに 35

 

(3) 訳文

 478 「また、ご自分のしもべの預言者たちが福音を宣べ伝えるように神の奥義が成就する」、その時、両契約のみことばの中に予言され、また今まで隠されたものが現われる(見える)こと、教会を荒廃させた者の上の最後の審判の後、主の王国がやって来ることを意味する。

 「成就させられる」ことによって、完成させられること、終わりを持つこと、またその時、現われることが意味される。「預言者たちが福音を宣べ伝えた神の奥義」によって、みことばの中に予言されていて、これまで隠されたことが意味される。「福音を宣べ伝えること」によって、主の来臨とその方の王国を告げることが意味される、というのは、「福音」は喜ばしい使者☆であるから。このことは、教会を荒廃させた者の上に、みことばの中でも予言された最後の審判が行なわれたの後、存在するようになった、このことがどんなものかもまた意味されている。

 これらから、これらすべてのものがそれらのことばによって意味されることを明らかにすることができる。

 [2] ここに、最初に、主の来臨とその方の王国の予言について、両契約のみことばの中の何らかのものが言われる。

預言と呼ばれている旧い契約のみことばの中に、その霊的な意味で、その意味が輝き出ている自然的な意味の中に、主おひとりが扱われている、すなわち、定めの時に、その方の来臨について、それは、仁愛の善と信仰の真理が教会の中にもはや存在しない時であり、それはその教会の終結(完了)、荒廃、荒涼、決定と呼ばれる。なおまた、地獄とのその方の戦いについて、そしてその勝利について、それらもまたその方により行なわれた最後の審判である。またこれらの後、新しい天界の創造と新しい教会の設立について、それらは来たるべき主の王国である。これらもまた使徒のものと呼ばれる新しい契約のみことばの中に、また特に「黙示録」の中に扱われている。

 [3] 主の王国であることは、「第七の天使の声の日に、福音を宣べ伝えるであろう」ことの中に、続く(第11)章の中に、これらの中に明らかである――

 

 「また、第七の天使がらっぱを吹いた、また天の中に大きな声があり、言っていた、『世の王国は、私たちの主のもの、またその方のキリストのものになった、また永遠に支配する』――二十四人の長老たちは自分の顔の上に伏せ、神を崇拝し、言った、『私たちはあなたに、主なる神よ、その方はいる、またその方はいた、またその方はやって来る、あなたがあなたの偉大な力を得たこと、あなたが王国を引け受けたことを感謝する』」(15-17節)。

 [4] ここの「黙示録」の中とほとんど同様こ奥義が、「ダニエル書」のもとに述べられている、そこにこれらが――

 

 「私は、亜麻布を着て、自分の手を天へ向けて上げ、永遠に生きる方によって、このことを誓う男を見た、定まった〔いくつかの〕時の定まった時に、また半分の時に向けて」、そのとき、これらすべてのものが(完成しなければならない――けれども、彼は言った、「ダニエルよ、行け。〔この〕ことばは、終わりの時まで閉ざされ、封じられているからである」(12:7, 9)。

 

 「終わりの時まで」はこの時までも、である。その時、人の子が王国を受け取ることは、これらのことばで予言されている――

 

 「私は夜の幻の中で見た、また、見よ、天の雲とともに、人の子のような〔方が〕、やって来た。この方に、主権と栄光と王国が与えられ、すべての民族と国民と言語はその方を礼拝した。その方の主権は永遠の主権、それは過ぎ去らない、またその方の王国は、それは滅びない」(ダニエル12:13, 14)。

 

 [5] 「福音を宣べ伝えること」が主の来臨を、またその時、その方の王国を意味することは、これらの箇所から明らかである――

 

 「あなたに、山の上に上れ、福音を説く女シオン。力とともにあなたの声を上げよ、福音を説く女エルサレム。言え、見よ、あなたがたの神を。見よ、主エホビは力の中でやって来る、またその方の腕はその方のために統治する」(イザヤ40:9, 10)。

 「山の上で福音を宣べ伝える者の足は何と快いのか、あなたがたは平和を聞くことをする、善いことを宣べ伝える、救いを聞くことをする、シオンに言う、あなたの神が支配するであろう〔と〕」(イザヤ52:7, 8、ハバクク1:15)。

 「エホバに歌え、その方の名前で祝福せよ、日について、その方の救いの日の中で福音を宣べ伝えよ。エホバがやって来られるからである」(詩篇96:2, 13)。

 「主エホバの霊が私の上に〔ある〕、それゆえ、エホバは、貧しい者に福音を宣べ伝えるために、捕えられた者に解放を告げるために、そしてエホバの喜ばれる年を宣言するために、私に油を注いだ」(イザヤ61:1, 2)。

 「天使はザカリヤに〔言った〕、見よ、あなたの妻は子を産む、その者はエリアの霊と力で主なる神の前を先行する。私はこのことをあなたに福音を宣べ伝えるために遣わされた」(ルカ1:13, 17, 19)。

 「天使は羊飼いたちに言った、恐れるな、見よ、私はあなたがたに大いなる喜びの福音を宣べ伝える――

あなたがたに、今日、救い主がダビデの都の中で生まれたからである、その方は主キリストである」(ルカ2:10, 11)。

 主は神の王国の福音を宣べ伝えられたこと(マタイ4:23、9:35、マルコ1:15、ルカ7:22、8:1、9:1, 2)。

 バプテスマのヨハネ〔も福音を宣べ伝えた〕こと(ルカ3:18)。

 イエスもまた弟子たちに言われた、「全世界に行き、造られたべての者の前に福音を言え」(マルコ16:15)。

 

 これもまた「永遠の福音」である、それを天の真ん中を飛んでいる天使が、「地の上の住民に福音を宣べ伝えるために」持っていた(黙示録16:6)。

 [6] 「神の奥義が完成させられるであろう」ことが言われ、そのことによって、以前に成就されなかったことが今や成就されることが意味される。それは、王国が主のものになることである。というのは、ユダヤ人によって成就されなかったから、彼らは主を認めなかったからである。キリスト教徒によっても成就されなかった、これらの者は主を天地の神として、人間性に関しても認めなかった、というのは、これ〔主の人間性〕を他の人間の人間性と同様のものとしたから。それゆえ、その方に直接に近づかない、そのときそれでも、その方が世にやって来たエホバである。

 

☆「福音」のギリシア語の意味は「善い+使者」です。

原典講読『啓示された黙示録』 479

(1) 原文

479. [Vers. 8.] ” Et vox quam audivi e Caelo iterum loquens cum me, dicens, Recipe Libellum apertum in manu Angeli stantis super mari et super terra,” significat mandatum e Caelo ut haurirent{1} illam doctrinam de Domino, sed ut manifestaretur per Johannem quomodo illa in Ecclesia reciperetur, antequam illi qui per “Draconem,” “Bestiam,” et “Pseudoprophetam” intelliguntur, remoti sunt.―Per “vocem quam audivit e Caelo” nunc iterum loquentem cum illo, intelligitur vox quae dixit illi, quod obsignaret quae locuta sunt septem tonitrua, et ne illa scriberet (vers. 4), per quae significatum est, quod doctrina illa de Domino non reciperetur, quam postquam illi, qui per “Draconem,” “Bestiam” et “Pseudoprophetam” intelliguntur, e Mundo spirituum ejecti sunt, quia periculum si prius, videatur supra (n. 473); quod ita sit, manifestatur nunc per Johannem, per quod “devoraret Libellum,” de quo sequitur: quod per “Libellum” intelligatur Doctrina de Domino (videatur n. 469, 472); et quod per “Angelum stantem super mari et terra “intelligatur Dominus (n. 465, 470).

@1 haurirent pro “hauriret

 

(2) 直訳

479. [Vers. 8.] ” Et vox quam audivi e Caelo iterum loquens cum me, dicens, Recipe Libellum apertum in manu Angeli stantis super mari et super terra,” significat mandatum e Caelo ut haurirent{1} illam doctrinam de Domino, sed ut manifestaretur per Johannem quomodo illa in Ecclesia reciperetur, antequam illi qui per “Draconem,” “Bestiam,” et “Pseudoprophetam” intelliguntur, remoti sunt.― 479(8節)  「また声が、それを私は天から聞いた、再び私に話している、また言っている、〔海の上と〕地の上に立っている天使の手の中の開かれた小さな本(巻き物)を受けよ」は、天界からの命令を意味する、「主について」のその教えを吸収する(学ぶ)ように、しかし、ヨハネによって明らかにされるように、それらをどのように教会の中に受け入れられるか、彼らが、その者は「竜」、「獣」また「偽預言者」によって意味される、遠ざけられる前に。

Per “vocem quam audivit e Caelo” nunc iterum loquentem cum illo, intelligitur vox quae dixit illi, quod obsignaret quae locuta sunt septem tonitrua, et ne illa scriberet (vers. 4), per quae significatum est, quod doctrina illa de Domino non reciperetur, quam postquam illi, qui per “Draconem,” “Bestiam” et “Pseudoprophetam” intelliguntur, e Mundo spirituum ejecti sunt, quia periculum si prius, videatur supra (n. 473); 「声、それを〔彼が〕天から聞いた」によって、今や、再び彼と話した、声が意味される、それを彼が言った、封じること、それらを七つの雷鳴が話した、またそれらを書いてはならない(4節)、それらによって意味されている、主についてのその教えが受け入れられないこと、彼らが、その者は「竜」、「獣」また「偽預言者」によって意味される、霊界から追い出される後に、以外に、もし以前になら危険〔である〕からある、上に見られる(473番)。

quod ita sit, manifestatur nunc per Johannem, per quod “devoraret Libellum,” de quo sequitur: そのようであることは今や、ヨハネによって明らかにされる、「小さな本(巻き物)を食い尽す」ことによって、そのことについて続けられる――

quod per “Libellum” intelligatur Doctrina de Domino (videatur n. 469, 472); 「小さな本(巻き物)」によって主についての教えが意味される(469, 472番に見られる)。

et quod per “Angelum stantem super mari et terra “intelligatur Dominus (n. 465, 470). また、「地と海の上に立っている天使」によって主が意味される(465, 470番)。

 

@1 haurirent pro “hauriret“ 注1 「haurire」の代わりに haurirent

 

(3) 訳文

 479(8節)  「また私が天から聞いた声が、再び私に話して、言った、『海の上と地の上に立っている天使の手の中の開かれた小さな巻き物を受けよ』」は、「竜」、「獣」、「偽預言者」によって意味される者が遠ざけられる前に、「主について」のその教えを学ぶようにとの天界からの命令を意味する、しかし、それらをどのように教会の中に受け入れられるかヨハネによって明らかにされるように〔ならなければならない〕。

 「天から聞いた声」によって、今や、再び彼と話した、声が意味され、それは天使が、七つの雷鳴が話したことを封じ、またそれらを書いてはならない、言ったものである(4節)、それらによって「竜」、「獣」、「偽預言者」によって意味される者が、霊界から追い出された後でないなら、主についてのその教えが受け入れられないことが意味されている、もし以前になら危険〔である〕からある、〔このことが〕前に見られる(473番)。そのようであることは、今や、ヨハネによって、「小さな巻き物が食い尽くされる」ことによって明らかにされ、そのことについて続けられる――「小さな巻き物」によって主についての教えが意味される(469, 472番に見られる)。 また、「地と海の上に立っている天使」によって主が意味される(465, 470番)。

原典講読『啓示された黙示録』 480

(1) 原文

480. [Vers. 9.] ” Et abivi ad Angelum, dicens Ei, Da mihi Libellum,” significat motionem animi apud plures in Ecclesia ad recipiendum doctrinam.―Hoc significatur, quia per Johannem hic manifestatur quomodo Doctrina de Domino in Ecclesia a pluribus recipitur, ut mox supra dictum est; motio animi apud hos ad recipiendum illam intelligitur, quia inclinatio apud Johannem, abivit enim et petiit. Quoniam haec involvunt talia, ideo primum dictum est Johanni ut acciperet Libellum, dein abivit et petiit, tum dixit Angelus quod daturus illum, sed quod Libellus amaricaturus ventrem, et demum quod datus sit, et quod ita factum; omnia illa significant.

 

(2) 直訳

480. [Vers. 9.] ” Et abivi ad Angelum, dicens Ei, Da mihi Libellum,” significat motionem animi apud plures in Ecclesia ad recipiendum doctrinam.― 480(9節) 「また、私は天使へ出かけた、彼に言って、私に小さな本(巻き物)を与えよ」は、多くの者のもとの心(アニムス)の動くこと(感情)を意味する、教えを受け入れることへ向けて。

Hoc significatur, quia per Johannem hic manifestatur quomodo Doctrina de Domino in Ecclesia a pluribus recipitur, ut mox supra dictum est; このことが意味される、ヨハネによってここに明らかにされているからである、どのように主についての教えが教会の中で多くのものによって受け入れられるか、直ぐ上に言われたように。

motio animi apud hos ad recipiendum illam intelligitur, quia inclinatio apud Johannem, abivit enim et petiit. それらを受け入れようとすることへ向けてこれらの者のもとの心(アニムス)の動くこと(感情)が意味される、ヨハネのもとの性向〔である〕ので、というのは、彼は行った、また求めたから。

Quoniam haec involvunt talia, ideo primum dictum est Johanni ut acciperet Libellum, dein abivit et petiit, tum dixit Angelus quod daturus illum, sed quod Libellus amaricaturus ventrem, et demum quod datus sit, et quod ita factum; これら〔のことば〕がそのようなものを含んでいるので、それゆえ、最初にヨハネに言われた、小さな本(巻き物)を受け取るように、その後、出かけた、また求めた、なおまた天使が言った、それを与えること、しかし、小さな本(巻き物)は腹を苦くする☆、また最後に、与えられたこと、またそのようになったこと。

☆ amaricaturus が何だかわかりませんが「未来分詞」の形をしています、意味は「苦くする」でよいと思います。(形容詞 amarus は「苦い」)

omnia illa significant. すべてのものがそれら〔の心(アニムス)の動くこと(感情)〕を意味している。

 

(3) 訳文

 480(9節) 「また、私は天使へ出かけ、彼に言った、『私に小さな巻き物を与えよ』」は、教えを受け入れることへ向けて多くの者のもとの心(アニムス)の動くこと(感情)を意味する( 480番)。

 このことが意味される、直ぐ前に言われたように、ヨハネによってここに、どのように主についての教えが教会の中で多くのものによって受け入れられるか明らかにされているからである――それらを受け入れようとすることへ向けてこれらの者のもとの心(アニムス)の動くこと(感情)が意味される、ヨハネのもとの性向〔である〕ので、というのは、彼は行った、また求めたからである。

 これら〔のことば〕がそのようなものを含んでいるので、それゆえ、最初にヨハネに、小さな巻き物を受け取るように言われ、その後、出かけ、求めた、なおまた天使が、それを与えること、しかし、小さな本(巻き物)は腹を苦くすることを言った、また最後に、与えられ、またそのようになったこと。すべてのものが、それら〔の心(アニムス)の動くこと(感情)〕を意味している。