原典講読『啓示された黙示録』 466

(1) 原文

466. ” Circumdatum nube et iris Supra caput,” significat Divinum Naturale et Divinum Spirituale Ipsius.―Per “nubem,” qua circumdatus, significatur Divinum Naturale; quare Verbum in Sensu naturali, quod etiam est ab Ipso, ita Ipsius et Ipse, significatur per “nubem” (n. 24); per “iridem” significatur Divinum Spirituale, quod quia est supra Naturale, ideo Iris visa est supra caput. Sciendum est, quod Dominus in Divino Suo Naturali sit apud homines, in Divino autem Spirituali apud Angelos Regni spiritualis, et in Divino Caelesti apud Angelos Regni caelestis; sed usque non est divisus, at apparet cuique secundum quale ejus. Divinum Spirituale Domini etiam significatur per “iridem” apud Ezechielem:

 

Super expanso Cheruborum “similitudo Throni, et super illo aspectus Hominis: et ex igne lumborum Ejus sicut aspectus Iridis quae in nube in die pluviae; hic aspectus gloriae Jehovae” (i. 26-28{1});

 

per ‘Thronum” significatur Caelum, per “Hominem super illo” Dominus, per “ignem lumborum” amor caelestis, et per “iridem” Divinum Verum spirituale, quod etiam est Divinae Sapientiae Ipsius. Per “iridem,” de qua haec apud Mosen,

 

“Arcum Meum dedi in nube, qui erit in signum foederis inter Me et inter Terram:” et cum videro illum in nube, “recordabor foederis aeterni” (Gen. ix. 12-17),

 

non aliud intelligitur quam Divinum Verum spirituale in naturali apud hominem qui regeneratur, fit enim homo, cum regeneratur, a naturali spiritualis; et quia tunc est conjunctio Domini cum illo, ideo dicitur, quod arcus in nube esset “in Signum foederis.” “Foedus” significat conjunctionem. Quod non aliqua conjunctio Domini cum homine sit per irides in mundo, patet.

@1 26-28 pro “26, 28, 29”

 

(2) 直訳

466. ” Circumdatum nube et iris Supra caput,” significat Divinum Naturale et Divinum Spirituale Ipsius.― 466 「雲に囲まれた、また頭の上に虹」は、その方の神的自然的なもの(自然的な神性☆)と神的霊的なもの(霊的な神性☆)を意味する。

☆ どのように訳すかの問題でもありますが、「自然的な神性」、「霊的な神性」その後の「天的な神性」がよいようです。そしてこれらについては、この後、ここで出版した改訂版『スヴェーデンボリ用語辞典』から引用しておきますので、参考にしてください。(入手ご希望の方はSPSC(スヴェーデンボリ読者の会)へお問い合わせください、同書には「天的」「霊的」の違いなどが詳しく載っています、つでに同書の「まえがき」ここに掲載しておきます)。

Per “nubem,” qua circumdatus, significatur Divinum Naturale; 「虹」によって、それによって囲まれた、自然的な神性が意味される。

quare Verbum in Sensu naturali, quod etiam est ab Ipso, ita Ipsius et Ipse, significatur per “nubem” (n. 24); それゆえ、霊的な意味の中のみことばは、それもまたその方からである、そのようにその方のものまたその方、「雲」によって意味される(24番)。

per “iridem” significatur Divinum Spirituale, quod quia est supra Naturale, ideo Iris visa est supra caput. 「虹」によって、霊的な神性が意味される、それは自然的なものの上にあるからである、それゆえ、虹が頭の上に見られた。

Sciendum est, quod Dominus in Divino Suo Naturali sit apud homines, in Divino autem Spirituali apud Angelos Regni spiritualis, et in Divino Caelesti apud Angelos Regni caelestis; 知らなければならない、主は人間のもとでご自分の自然的神性の中にいること、けれども霊的な王国の天使のもとで霊的な神性の中に、また天的な王国の天使のもとで神的天的なもの(天的な神性☆)の中に。

sed usque non est divisus, at apparet cuique secundum quale ejus. しかしそれでも分割されない、しかし、それぞれの者に彼の性質にしたがって見られる。

Divinum Spirituale Domini etiam significatur per “iridem” apud Ezechielem: 主の霊的な神性が「エゼキエル書」のもとの「虹」によっても意味される――

Super expanso Cheruborum “similitudo Throni, et super illo aspectus Hominis: ケルビムの大空の上に「王座に似たもの、またその上に人間の外観〔があった〕。

et ex igne lumborum Ejus sicut aspectus Iridis quae in nube in die pluviae; またその腰の火から、虹の外観のような〔ものがあった〕、それは雨の日の中の雲の中に。

hic aspectus gloriae Jehovae” (i. 26-28{1}); これはエホバの栄光の外観〔であった〕」(1:26-28)。

per ‘Thronum” significatur Caelum, per “Hominem super illo” Dominus, per “ignem lumborum” amor caelestis, et per “iridem” Divinum Verum spirituale, quod etiam est Divinae Sapientiae Ipsius. 「王座」によって天界が意味される、「その上の人間」によって主が、「腰の火」によって天的な愛が、また「虹」によって霊的な神的真理が、それもまたその方の神的知恵である。

Per “iridem,” de qua haec apud Mosen, 「虹」によって、それについてこれらがモーセ(の書)のもとに、

“Arcum Meum dedi in nube, qui erit in signum foederis inter Me et inter Terram:” 「わたしの弓をわたしは雲の中に置いた(与えた)、それはわたしの間と地の間の契約のしるし(として)となる」。

et cum videro illum in nube, “recordabor foederis aeterni” (Gen. ix. 12-17), また、わたしがそれを雲の中に見るとき、「わたしは永遠の契約を思い出す」(創世記9:12-17)。

non aliud intelligitur quam Divinum Verum spirituale in naturali apud hominem qui regeneratur, fit enim homo, cum regeneratur, a naturali spiritualis; 何らかのものが意味されない、人間のもとの、その者は再生される、自然的なものの中の霊的な神的真理以外の、というのは、人間は、再生されるとき、自然的なものから霊的なものになるから。

et quia tunc est conjunctio Domini cum illo, ideo dicitur, quod arcus in nube esset “in Signum foederis.” また、その時であるからである、彼との主の結合は、それゆえ、言われる、雲の中に弓がある「契約のしるしとして」。

“Foedus” significat conjunctionem. 「契約」は結合を意味する。

Quod non aliqua conjunctio Domini cum homine sit per irides in mundo, patet. 人間との主の何らかの結合でないことは、世の中の虹によって、明らかである。

@1 26-28 pro “26, 28, 29″ 注1 「26, 28, 29」の代わりに 26-28

 

(3) 訳文

 466 「雲に囲まれ、頭の上に虹〔がある〕」は、その方の自然的な神性と霊的な神性を意味する。

 「虹」によって、それによって囲まれた、自然的な神性が意味される。それゆえ、霊的な意味のみことばは、それもまたその方から、そのようにその方のものまたその方であり、「雲」によって意味される(24番)。「虹」によって、霊的な神性が意味される、それは自然的なものの上にあるからである、それゆえ、虹が頭の上に見られた。

 主は人間のもとでご自分の自然的神性の中に、けれども霊的な王国の天使のもとで霊的な神性の中に、また天的な王国の天使のもとで天的な神性の中にいることを知るべきである。それでも分割されない、しかし、それぞれの者に彼の性質にしたがって見られる。

 主の霊的な神性が「エゼキエル書」の「虹」によっても意味されている――

 

 ケルビムの大空の上に「王座に似たもの、またその上に人間の外観〔があった〕。またその腰の火から、雨の日の中の雲の中の虹の外観のような〔ものがあった〕。これはエホバの栄光の外観〔であった〕」(1:26-28)。

 

 「王座」によって天界が、「その上の人間」によって主が、「腰の火」によって天的な愛が、また「虹」によって霊的な神的真理が意味される、その真理はその方の神的知恵でもある。

 「虹」によって、それについてこれらが「モーセの書」に、

 

 「わたしの弓をわたしは雲の中に置いた、それはわたしの間と地の間の契約のしるしとなる」。また、わたしがそれを雲の中に見るとき、「わたしは永遠の契約を思い出す」(創世記9:12-17)。

 

 再生する人間のもとの自然的なものの中の霊的な神的真理以外の何らかのものが意味されない、というのは、人間は、再生するとき、自然的なものから霊的なものになるから。また、彼との主の結合はその時であるからである、それゆえ、雲の中に「契約のしるしとして」弓があると言われる。

 「契約」は結合を意味する。

 世の虹による人間との主の何らかの結合でないことは明らかである。

 

* * *

 

◎『スヴェーデンボリ用語辞典』より

 

自然的な神性 Divinum Naturale. 栄化された主の人間性は自然的な神性である/真教109(聖書99).信仰の善は,したがって服従の善は最も低い天界の善であり,自然的な神性と呼ばれる/秘義10,087.☞ 主の栄化.

霊的な神性 Divinum Spirituale. 霊的な神性は天的な神性から発出する神的な真理であり,したがって,中間のすなわち第二の天界の中に受け入れられる主の神性である/秘義9811.主の神的人間性から発出する霊的な神性は,天界や教会の中のその方からの神的な真理である.霊的なものはその本質では他のものではない/秘義4669.仁愛の善は中間のすなわち第二の天界の善であり,霊的な神性と呼ばれる…仁愛の善は意志することから善を行なうことである/秘義10,087:1, 2.☞ 天的な神性.

天的な神性 Divinum coeleste. 主は神的な善以外の何ものでもない.その方の神的な善から発出して連会の中に流入するものは,その方の天的な王国の中で天的な神性,その方の霊的な王国の中で霊的な神性と呼ばれる.そのように受け入れに比べて天的な神性や神的霊的な神性と相対的に言われる/秘義6417.主の神的な愛から発出するものは天的な神性と言われ,そのすべてのものは善である.その方の神的な知恵から発出するものは霊的な神性と言われ,そのすべてのものは真理である.両方のものから自然的な神性があり,最後のものの中で,それらの複合体となっている/真教195.天的な神性は最内部の天界の中の主の神性である,というのは,そこの天使は天的な天使と呼ばれ,その意志の部分に神的な真理を受け入れるものであるから/秘義9810.第三の天界,すなわち,最内部の天界の天的な神性は主への愛であり,そこの霊的な天的なものは仁愛である/秘義3969:10.

天的な神性と霊的な神性 Divinum coeleste et Divinum spirituale. 天的な神性と霊的な神性は,主の神性を受け入れる者にとって相対的なものである,なぜなら,主は,それぞれの者に,受け入れる者がどのような者であるか〔によってそのように〕見られるからである/秘義3235.主から発出している神性は,受容からそのように呼ばれ,二つの神性,天的な神性と霊的な神性ではない.なぜなら,神的な善が,受容から天的な神性と呼ばれ,神的な真理が,ら受容から霊的な神性と呼ばれ,このように,二つのものではなく一つのもののように結合して発出しているからである/講解448:5.

 

 ◎ついでに同書の「まえがき」を紹介します。ここには例として「天的な霊的な」の語順の違いを述べていますので参考になるでしょう。

 

訳者まえがき

 

0.序論

本書は内行詩の表題のように「用語集」すなわち、スヴェーデンボリが『神学著作』の中で用いた特別な用語や語句の彼自身によるその意味」です。

以下の内容は「まえがき」よりもむしろ予備知識として知っておくとよい「序論」と言えます(「汎例」も含みます」。

 

1.用語辞典とは

スヴェーデンボリは「ある言葉」をどのように使っているでしょうか? その言葉をどこでどのようにして定義しているでしょうか? スヴェーデンボリは「ある概念」を説明するのに、彼独自の「言葉」を彼独自の「意味」で使用しています。こうした場合、彼の思想・神学体系を理解するには、その言葉をよくわきまえておかなければなりません。

それらの言葉は「著作」のいろいろな箇所にでてきます。何度も読んでいるうちに「このような意味だな」と徐々に把握できることもありますが、それでも、「あれ、この言葉はどんな意味だったけな? どこでどのように使っていたかな? どのように定義していたっけ?」と思うことがしばしばあります。私もそのひとりです。

このようなとき『用語辞典』があれば便利です。すなわち、『国語辞典』のようなものでは、「通常の意味」しか載っていないので、その意味からだけではスヴェーデンボリの「著作」を正しく明確に読むことは困難です。どうしても、スヴェーデンボリの「著作」で使われた「専門語」を集めた辞典がほしくなります。これがこの『用語辞典』です。本人が説明し、定義した言葉が載っています。

 

2. 本書についての書評から

ボッグは、本書について「これはほんの〝始まり〟であって、今後、さらによいものが出てくるであろう」と述べていますが、この後、他の人から「用語集」が出されましたが、これを超えるものは出ていません。

それで100年も前に出されたものであっても、ここで翻訳、出版する価値があると思っています。ただし、本人は本書を数年間、教科書として使用してから、ロングフェローの少女にたとえたようです――「彼女は良い時には、非常に、非常に良い、しかし、悪い時には、ぞっとする」。

すなわち、ボッグはこの用語辞典の「見出し語」として真に価値あるものを集めましたが(語数 1,600 あまり)、同時に、どう見ても無意味であり、まとはずれなものもあったことです(例えば、「束にしたもの」です)。

このような欠点があるにしても、当面は本書はスヴェーデンボリの研究に十分に役立ちます。私もまた、今後、さらによい編集者が現われることを待ち望んでいます。

 

3.内容について(汎例)

 (1) まず、「見出し語」とその原語(ラテン語)があります。語義解説の部分はラテン語原文から訳しました(。原著は英文です)。その解説内容に合わせて、見出し語を変えたものとそのままとしたものがあります。原語についてはこれを示しておく必要性をボッグも「まえがき」で述べています。訳語が定まっていない現状では(後述)、また研究する上で、これは必要不可欠でしょう。

 また、異なる見出し語であってもその原語が同じものは一緒にしました。このことは改行して、○印をつけあることからわかるようにしてあります(例えば「真の結婚愛」、「霊的に考えること」など)。(ほんの少しばかり、「見出し語とその参照箇所」を適当でないとして削除したものがあります)

 (2) 続いて、語義解説ではその定義や意味を原典から選び、述べています。その出典箇所は「略称」で示しました。「出典箇所」は重要な情報であり、簡略な説明だけでよくわからないとき、その前後を調べれば、理解が深まるでしょう。

 (3) 最後に「☞」で参照箇所や関連箇所を示しました。

(4) スヴェーデンボリの「著作」の訳語については定まっていないで、まだまだ研究の余地があるかと思っています。それで「訳語考察」をしてみた用語があります(記号◇)。今後の訳語を定める上で参考になるかと思っています。

(5) 巻末の「見出し語のラテン語索引」は原著にありません。アルファベット順に並べた原語を一覧表とすることで、用語や訳語を学ぶヒントが得られると思い、この索引を作成しました。

(6) 文中の記号「*」は複数を示しています。これは翻訳途中でこの必要性に気づき、また日本語にその適当な表示法がないので、いろいろ考えたすえ、こうしました。これについては次の4の「わかったこと」で詳しく述べます。

 

4.『用語辞典』に取り組んで、わかったこと

 「このようなものがあれば便利であろう」といった気分だけで翻訳を始めましたが、途中でいろいろと学べました。しかもこのことは極めて重大であって、私の翻訳の根本をゆるがすほどのもの、すなわち、これまでの翻訳を見直さなければならなくなったほどのものです。以下に二つだけ述べます。

 

(1) 「単数」と「複数」の違い

 日本語には、国々、山々、人たち、諸外国といった複数を示す表現がありますが、通常は単に数の多いことを意味するだけです。それで例えば単数で「真理(verum)」、複数で「真理(vera)」とあっても、後者を特に「諸真理」とすることはあっても、通常、「真理」として訳して、それほど違和感がありません、というよりも、単数と複数の違いが「数の違い」だけであって、両者を特に区別しないからです。日本語の特性といえます。別の言い方なら、日本語に単数と複数の違いとして、一般的で明確な表記法がないので(これは日本語にこの概念が希薄であることを意味します)、単数形だけで用がたります。

 しかし、この『用語辞典』を訳していて、単数と複数では「見出し」が異なっていることに気づきました、すなわち、その内容(概念)が異なるのです! 

 「真理」を例とします。「真理」と「諸真理」はどこが違うでしょうか?(日本語で)普通に考えれば、単に数が多いのが「諸真理」(すなわち複数)としか思いません、しかし、決定的に異なります! これは「抽象的なもの」と「具体的なもの」の違いとも言えます。

 「花」で言えば、単数の「花」は「花なるもの」という抽象的な概念を意味します。「高嶺の花」「花の乙女」と言うときの「花」です。「花々」と言うと、(数が多いことも意味しますがそれ以上に)抽象性が薄れ、「バラ」「桜」などの具体的な花が思い浮かびます。この違いです。真理と諸真理なら、抽象的な真理(単数)と具体的な真理(複数)の違いです。

 日本語にはこの違いうまく表現する方法がないでしょう、それで、このことを表示するために本書ではそのことばの右肩に*を付けることにしました。そこで「用語*」とあれば、複数の「用語」を意味する、すなわち、具体的な個々の「用語」を指しているとわかります。

 しかし、これよりももっと重要なことがありました、それが語順の違いです!

 

(2) 語順の違いは意味の違い

ラテン語は語順は自由であり、ある語がどこにあっても意味は変わらないとされています(余談ながら英語は語順が重要な言語です、「熊・食う・人間」と「人間・食う・熊」ではまったく意味が違います)。

ところが、スヴェーデンボリの著作では語順が重要となります、繊細な事柄を語順の違いで表現しているからです

「著作」の読者は「天的な霊的な~」や「霊的な天的な~」の表現をしばしば見かけたと思います。このような語順の違いが「著作」の中に数多くあります、これをどのように理解されましたか? 例えば「霊的天的な王国」と「天的霊的な王国」、「霊的天的な天使」と「天的霊的な天使」です。「どちらも大して変わりないだろう」と思っていませんか? でも、大多数の人は、「変わりはあるのだろうが、どのように異なるのかよくわからない」といったところでしょう。私もそうでした。

 まずは日本語で考えてみます(日本語自体に厳密ではない部分がありますが、「著作」が語の順序を厳密に守っているかぎり、それに即して、訳文で日本語の語順を厳密に使うことがその基盤または受け入れる「面」となるからです)。

 「近くて遠い親戚」と「遠くて近い親戚」の違いは(ちょっと例がよくないかもしれませんが)何でしょうか?

 このように「形容するもの」(形容辞)が二つある場合(あるいは三つのこともあります)、その語順で何がどう異なるのかを問題としてみます(実はこの考察の発端は「天的な霊的なもの」と「霊的な天的なもの」の違いでした)。

 このことについて、私は“日本語の形容辞は「主体」の「遠いところ」から「近くのところ」あるいは「外面的なもの」から「内面的なものへ」向かって、付けられる、と思いました。

 すなわち、この例では「近いところに住んでいるが、気持ちは遠い親戚」、「遠く離れていても心は親密な親戚」といったニュアンスです。

 日本語では上記のように「形容辞(遠い)」+「形容辞(近い)」+「主体」の語順ですが、ラテン語では「主体」+「形容辞(近い)」+「形容辞(遠い)」の語順となります。(前から後ろへ)

具体的には Angelus coeleste spilitualeなら「霊的な天的な天使」と訳すことになります。(後ろから前へ)

「近い」「遠い」と説明しましたが、これは日本語で「小分類(範疇)」と「大分類(範疇)」と言い換えることもできます。これは「住所」の表示と同じです、すなわち、日本語では「東京都、東大和市・・・」としますが、英語表記では「・・・東大和市、東京」のように「近いもの(小分類)」から「遠いもの(大分類)」へ向かいます。

 

ここで「天的な霊的な天使」と「霊的な天的な天使」について説明しておきます。天界は三つに大分類されます。すなわち「天的」「霊的」「自然的」な天界です。そしてそれぞれに天的な王国と霊的な王国があります、これが小分類です。そこで「天的な霊的な天使」は「天的な(天界の中の)霊的な(王国の)天使」です。

このままではよくわからないでしょうから「最大の人(maximus homo)」で説明します。天的な天界は「最大の人」の頭部に対応します。そのうち、「首」に「天的な霊的な天使」が対応します。この天使たちが霊的な天界と伝達を持ちます。また、霊的な天界は「最大の人」の胴体と腿(もも)に対応します(なお「自然的な天界」はひざから下の足の部分です)。「霊的な天的な天使」は「最大の人」の胸部に対応します。これが天的な天界と伝達しています(なお胸部から上の部分を「高い天界」その下の部分を「低い天界」と言うこともあります)。

 

ついでに「神的真理(Divinum Verum)」と「神的な真理(Verum Divinum)」について述べておきます。このように原語では、二つの主格の言葉の語順が前後しています。ラテン語は、基本的に語順は「主」+「従」となります。それであえてその違いを述べればDivinum Verumは「真理」のうちの「神的なもの」であり、Verum Divinumは「神的なもの」のうちの「真理」となります。これをそれぞれ「神的真理」(これは「神の真理」とも訳せます)と「神的な真理」としています。「な」が入るだけの一文字の違いなので、訳語をどうするかは今後の課題でしょう。

 

5.「用語」と「訳語」について雑感 

 ここで考察したように「用語」と「訳語」は裏腹(となり合せ)です。すなわち、正しく厳密な用語が定まっていなければ、思考を深めることができません。しかしその用語は訳語がしっかりと定まったものでないあやふやなものとなります。用語を上部構造、訳語を下部構造(インフラ)と見なすことができます。そしてこのインフラ整備は上部構造を見据えてなくてはできません。そしてここで「用語」を定め、その用語から、再度、私が学んだように、訳語を見直すことが求められると思います。

現在、訳語はまだまだ定まっていないでしょう。例えば、『真のキリスト教』の各章末の「霊界での体験談」はどのような訳語がよいのかわかりません、それで「メモラビリア」と音訳しています、「メモ」と訳すのは論外ですが、「説話」や「記憶すべき事」と訳してはその真意を伝えているとは思えません。いずれ、研究が進み、よい訳語が見つかるでしょう、あるいは、これまでにない新しい概念なので、明治初期のように「造語」が必要となるかもしれません。これはプロプリウムでもいえます(ただ、この頃、英訳ではプロプリウムと音訳しているようです)。この『用語辞典』が「辞典」としての役立ち以外に、こうした研究の一助となれば訳者としてうれしいです。

 

2016年10月末                                   鈴木之