[9] さらに例をあげましょう。
二つの手は人間の最外部のものです。
それから続く内的なものは、頭から首を通り、なおまた胸を、肩甲骨、腕また前腕を通っていませんか。無数の筋肉の構造物が、無数の組織集団の運動繊維、無数の神経と血管の束、そして多くの骨の関節がその靭帯や膜とともに存在しませんか。人間はそれらについて何らかのものを知っていますか? またそれでも彼の手はそれらのすべてのものから働きます。
左の手の手首の周りのそれらの内的なものが、それ自体を曲げ、入らない、と想像してみてください。前腕から切り離され、そして引き離された手は、何らかの生命のないもののように腐りませんか? それどころか、あなたが信じることを欲するなら、人間が首を折られるなら、その身体のようになります。
人間の心も、そしてそのいのちの二つのもの、意志と理解力もまったく似ています。信仰と仁愛のものである神的な活動が人間にまでも、途中で、また連続によって、伸びないなら、確かに、その時、人間は獣になるだけでなく、しかし、腐った丸太です。〔今述べた〕これらは理性にしたがっています。
[10] さて、あなたが聞きたいなら、同じことが聖書にもまたしたがっている〔ことを話します〕。
主は言われていませんか、
「わたしにとどまりなさい、わたしもあなたがたの中にとどまります。……わたしはブドウの木で、あなたがたは枝です。わたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、この人は多くの実を結びます。わたしなしにあなたがたは何も行なうことができないからです」(ヨハネ15:4, 5)。
実は善い働きであり、それを主は人間によって、人間は主により自分自身からのように行なうのではありませんか。
さらにまた、主は言われていませんか、戸に立って、叩くこと、また開く者は入れられ、そして彼と食事をし、また彼はその方と食事をすることです(黙示録3:20)。
主はミナとタラントを人間がそれらで商売し、また利益を得え、また利益を得るかぎり、永遠のいのちを与えられるのではありませんか?
なおまた(主は)、報酬をそれぞれの者にその方のブドウ畑の中の労働にしたがって与えること(マタイ20:1-17)を(言われていませんか)?
しかし、これらはわずかです。人間は木のように実を結ばなくてはならないこと、戒めにしたがって行なうべきであり、神と隣人を愛すべきであることについて、みことばからの多くのもので紙面を満たすことができます。
しかし、私は、あなたがたのプロプリウム(固有)の知性が、みことばからのものであるものと、このような共通のものを持つことができないこと、本質的にそのようなものを、たとえあなたがたが話しても、それでもあなたがたの観念がそれらをゆがめることを知っています。また、あなたがたは伝達とここからの結合に関して、神のすべてのものを人間から遠ざけているので、あなたがたはこれと異なってできません。その時、礼拝のすべてのもの以外に何が残りますか?
[11] その後、私に天界の光の中で見られ、それは、それぞれの者がどんなものであるかあばき、明らかにする〔光であった〕。またその時、私は、〔彼らが〕前のように空中の船の中に、あたかも天界の中にように、紫色でその中に、そして頭に関して月桂樹でいるのを見なかった。しかし、〔彼らが〕砂だらけの場所の中に、小片からの衣服の中で、そして腰の周りにあたかも漁に使うような綱の帯を締め、それらを通して裸であるのが見られた――またその時、マキアヴェリの追随者の境界にある社会の中に降された。