[4] Quoniam pauci hodie sciunt, quid intelligitur per Sensuale, et qualis est sensualis homo, ac “locustae” significant illum, ideo adducentur ex Arcanis nostris Caelestibus de illo sequentia:― [4] 今日、わずかな者が知っているので、何が感覚的なものによって意味されるか、また感覚的な人間がどんなものか(性質)、そして「イナゴ」がそれを意味する、それゆえ、『天界の秘義』から示される、それらについて次のものが――
Quod Sensuale sit ultimum vitae mentis hominis, adhaerens et cohaerens quinque sensibus corporis ejus (n. 5077, 5767, 9212{7}, 9216, 9331, 9730); 感覚的なものは人間の心のいのちの最外部のものであること、その身体の五つの感覚にくっつい(付着し)ているまた密着している(5077, 5767, 9212, 9216, 9331, 9730番)。
Quod is sensualis homo dicatur, qui omnia judicat ex sensibus corporis, et qui nihil credit nisi quod oculis videre et manibus tangere potest, haec dicens esse aliquid, reliqua rejiciens (n. 5094, 7693); 彼は感覚的な人間と言われる、その者は身体の感覚から判断する、またその者は何も信じない、目で見ることまた手で触れることができるものでないなら、これらを何らかのものであることを言って、他のものを退けて(5094, 7693番)。
Quod interiora mentis ejus, quae vident ex luce Caeli, clausa sint, ut ibi nihil veri, quod Caeli et Ecclesiae est (videatur{8} n. 6564, 6844, 6845); 彼の心の内的なものは、それが天界の光から見る、閉ざされている、そこに真理の何も〔見られ〕ないように、天界と教会のものがあること(6567, 6844. 6845番に見られる)。
Quod talis homo cogitet in extremis, et non interius ex aliqua luce spirituali (n. 5089, 5094, 6564, 7693); このような人間は最外部のものの中で考える、また何らかの霊的な光の中で内的に〔考え〕ないこと(5089, 5094, 6564, 7693番)。
Verbo, quod in crasso lumine naturali sint (n. 6201, 6310, 6564, 6844, 6845, 6612, 6612, 6622, 6624); 一言でいえば、〔彼らは〕自然的な粗野な光の中にいること(6201, 6310, 6564, 6844, 6845, 6612, 6612, 6622, 6624番)。
Quod inde interius sint contra illa quae Caeli et Ecclesiae sunt, sed quod exterius possint loqui pro illis, ardenter secundum dominationem per illa (n. 6201, 6316, 6844, 6845, 6948, 6949); ここから〔彼らは〕内的にそれらに反抗していること、それらは天界と教会のものである、しかし、外的にそれらのために(味方して)話すことができる、それらによっての支配にしたがって熱心に(6201, 6316, 6844, 6845, 6948, 6949番)。
Quod docti et eruditi, qui se confirmaverunt profunde in falsis, et plus qui contra vera Verbi, caeteris sensuales sint (n. 6316); 学識(博学)のある者と学者は、その者は自分自身で虚偽の中に深く確信した、またさらに、その者はみことばに反抗して、他の者よりも感覚的である(6316番)。
Quod sensuales homines ratiocinentur acriter et solerter, quia cogitatio illorum est tam prope loquelam ut paene in illa, et sicut in labiis, et quia in loquela ex sola memoria ponunt omnem intelligentiam: 感覚的な人間は鋭く、また巧みに推論する、彼らの思考はこれほどに話しに近いからである、ほとんどその中に〔ある〕ように、また唇の中に〔ある〕ように、また話しの中に記憶だけからすべての知性を置くからである。
tum quod quidam ex illis dextre possint confirmare falsa, et quod post confirmationem credant quod vera sint (n. 195, 196, 5700, 10,236); なおまた、彼らからのある者は巧みに虚偽を証明することができること、また確信(証明)の後、信じること、真理であることを(195, 196, 5700, 10,236番)。
Sed quod ex fallaciis sensuum ratiocinentur et confirment, a quibus captatur et persuadetur vulgus (n. 5084, 6948, 6949, 7693); しかし、〔彼らは〕感覚の欺きから推論する、また確信する、それらにより大衆(一般の人間)は捕えられる、また説得される(5084, 6948, 6949, 7693番)。
Quod sensuales homines astuti sint et malitiosi prae reliquis (n. 7693, 10,236); 感覚的な人間は詐欺的である(ずるい)こと、また他の者よりも悪意がある(7693, 10,236番)。
Quod avari, adulteri, voluptuosi et dolosi, imprimis sensuales sint, tametsi coram mundo non tales apparent (n. 6310); 貪欲な者、姦淫者、快楽にふける者、また狡猾な者は、特に感覚的であること、それでも世の前でそのような者に見えない(6310番)。
Quod interiora mentis eorum sint foeda et spurca (n. 6201); 彼らの心の内的なものは不潔で汚れていること(6201番)。
Quod per illa communicent cum infernis (n. 6311); それらによって地獄と伝達していること(6311番)。
Quod illi qui in infernis sunt, sensuales sint, et eo plus quo profundius (n. 4623, 6311); 彼らは、その者は地獄の中にいる、感覚的であること、またそれだけさらにますます、深くに〔いるほど〕(4623, 6311番)。
Quod sphaera spirituum infernalium se conjungat cum sensuali hominis a tergo (n. 6312); 地獄の霊のスフェアはそれ自体を人間の感覚的なものと背後から結合していること(6312番)。
Quod illi qui ratiocinati sunt ex solis sensualibus, et inde contra genuina vera Ecclesiae, ab antiquis dicti fuerint serpentes arboris scientiae (n. 195, 196, 197, 6398, 6399,{9} 10,313): 彼らは、その者は感覚的なものだけから推論する、またここからみことばの本物の真理に反抗した、古代人により知識の木のヘビと言われたこと(195, 196, 197, 6398, 6399,{9} 10,313番)。
Porro, sensuale hominis et sensualis homo describitur (n. 10,236); さらに、人間の感覚的なものと感覚的な人間が述べられている(10,236番)。
et extensio sensualium apud hominem (n. 9731); また、人間のもとの感覚的なものの拡大(9731番)。
Quod sensualia ultimo loco esse debeant, et non primo; 感覚的なものは最後の場所にあるべきであること、また最初〔場所にあってはなら〕ない。
et quod apud hominem sapientem et intelligentem ultimo loco sint, et subjecta interioribus, at quod apud hominem insipientem primo loco sint, et dominantia; また知恵と知性の〔ある〕人間のもとで最後の場所にある、また内的なものに服従した〔ものである〕、しかし愚かな人間のもとで最初の場所にある、また支配する〔ものである〕。
hi sunt qui proprie dicuntur sensuales (n. 5077, 5125, 5128, 7645); これらの者である、その者は正しく(まさしく)感覚的な者と言われる(5077, 5125, 5128, 7645番)。
Si sensualia ultimo loco sunt, quod per illa aperiatur via ad intellectum, ac elimentur vera per modum extractionis (n. 5580); もし、感覚的なものが最後の場所にあるなら、それらによって理解(会得)への道が開かれること、そして真理は抽出の方法によって引き出される(精錬される) (5580番)。
Quod sensualia illa proxime exstent mundo, et admittant quae e mundo alluunt, et quasi cribrent illa (n. 9726); それら感覚的なものは最も近く世にさらす(示す)、また入れる、それらは世から到着する、またいわばそれらをふるいにかける(9726番)。
Quod homo per sensualia illa communicet cum mundo, et per rationalia cum Caelo (n. 4009); 人間は感覚的なものによって世と伝達(交通)していること、また理性的なものによって天界と(4099番)。
Quod sensualia subministrent illa quae inserviunt interioribus mentis (n. 5077, 5081); 感覚的なものはそれらを与える(供給する)こと、それらは心の内的なものに仕える(5077, 5081番)。
Quod sint sensualia subministrantia parti intellectuali et subministrantia parti voluntariae (n. 5077); 知性の部分に与える(供給する)感覚的なものがあること、また意志の部分に与える(供給する) (5077番)。
Quod nisi cogitatio a sensualibus elevatur, homo parum sapiat (n. 5089); 思考が感覚的なものから高揚されないなら、人間はほとんど賢明ではないこと(5089番)。
Quod sapiens homo supra sensualia cogitet (n. 5089, 5094); 賢明な人間は感覚的なものを超えて考えること(5089, 5094番)。
Quod homo, cum cogitatio ejus supra sensualia elevatur, in lumen clarius veniat, et tandem in lucem caelestem (n. 6183, 6313, 6315, 9407, 9730, 9922); 人間は、彼の思考が感覚的なものの上に高揚されるとき、明るい光の中で見ること、また最後に天界の光の中で(6183, 6313, 6315, 9407, 9730, 9922番)。
Quod elevatio supra sensualia, et abductio ab illis, antiquis nota fuerit (n. 6313); 感覚的なものの上への高揚、またそれらからの離脱は古代人によく知られていたこと(6313番)。
Quod homo spiritu suo animadvertere possit quae in mundo spirituali fiunt, si abduci possit a sensualibus, et elevari in lucem Caeli a Domino (n. 6622); 人間は自分の霊でそれらを認めることができる、〔それらは〕霊界の中で行なわれる、もし、感覚的なものから導き出されること、また主により天界の光の中に高揚されることができるなら(6622番)。
Causa est, quia corpus non cogitat sed spiritus hominis in corpore: 理由がある、身体は考えないからである、しかし人間の霊が身体の中で。
et quantum in corpore, tantum obscure et in tenebris, et quantum non in corpore, tantum clare et in luce;
sed in spiritualibus (n. 4622, 6614, 6622); またどれだけ身体の中で〔考えるかによって〕、それだけぼんやりと(暗く)、また暗やみの中で〔考える〕、またどれだけ身体の中で〔考える〕ないかによって、それだけはっきりと、また光の中で〔考える〕(4622, 6614, 6622番)。
Quod ultimum intellectus sit scientificum sensuale, ac ultimum voluntatis sit jucundum sensuale (n. 9996); 知性の最終的なもの(最外部のもの)は感覚的な記憶知であること、そして意志の最終的なもの(最外部のもの)は感覚的な快いものである(9996番)。
Quae differentia inter sensualia communia cum bestiis, et inter sensualia non communia cum illis (n. 10,236); 獣に共通な感覚的なものの間とそれらと共通でない感覚的なものの間の相違がどんなものか(10,236番)。
Quod sint sensuales non mali, quia interiora illorum non ita clausa sunt, de quorum statu in altera vita (n. 6311). 悪ではない感覚的な者がいること、彼らの内的なものがそのよう閉ざされていないので、来世の中のそれらの状態について(6311番)。
@1 33 pro “13” 注1 「13」の代わりに 33
@2 22 pro “21” 注2 「21」の代わりに 22
@3 15, 17 pro “15, 16, 17″ 注3 「15, 16, 17」の代わりに 15, 17
@4 4 pro “4, 5″ 注4 「4, 5」の代わりに 4
@5 25 pro “24, 25″ 注5 「24, 25」の代わりに 25
@6 12 pro “10” 注6 「10」の代わりに 12
@7 9212 pro “9121” 注7 「9121」の代わりに 9212
@8 videatur pro “videat” 注8 「videat」の代わりに videatur
@9 6399 pro “6349” 注9 「6349」の代わりに 6399
(3) 訳文
424(3節) 「また、煙から地上にイナゴが出て来た」は、感覚的なものになった、そしてすべてのものを感覚からまたその〔感覚の〕欺きから見る、また判断する者にあるような彼らからの最外部の中の虚偽を意味する。
人間のいのち(生活)の最外部の中にある最外部の中の虚偽が言われ、それらは感覚的なものと呼ばれる、それらについては以下に〔述べる〕。これらはみことばの中の「イナゴ」によって意味されている。しかし、牧草地と作物を跳び、荒らす、平野の中のイナゴのように見られないこと、しかし、ピグミーまたはこびとのように見えることを知らなければならない、さらにまた、「頭の上に冠を、人間のような顔を、女のような髪を、ライオンのような歯を、鉄の胸当てを、また自分たち自身の上に深淵の御使いを持っていた」それらの記述から明らかである。
さらにまた、こびとが古代人により「イナゴ」と呼ばれたことはこれらから結論づけることができる――
カナンの地の偵察者たちは言った、「アナク人の子孫のネフィリム人を見た、また私たちは彼らの目の中でイナゴのようであった」(民数記13:33)。
エホバは「その方は地の環の上に住まれる、その住民はイナゴのようである」(イザヤ40:22)。
[2] しかし、彼らのもとにあるような最外部の中の虚偽が、みことばの中で「イナゴ」によって意味されるので、それゆえ、「ナホム書」のもとでもまた「冠をいだいた者」また「支配する者」のように「イナゴ」と呼ばれた、――
「あなたを火で食い尽す、あなたをバッタのように食い尽す。あなたをバッタのように増やせ、あなたをイナゴのように増やせ。あなたの「冠をいだいた者」はイナゴのようだ、あなたの「支配する者」はイナゴのイナゴのようだ」(3:15, 17)。
最外部の中の虚偽は、人間のもとに生まれる教会の真理と善を食い尽すので、平野の中の草をまた畑の中の草本を食い尽す「イナゴ」によって意味されることは、これらの箇所から明らかである――
「あなたは畑の中に多くの種を連れ出す、しかし、それをイナゴが食い尽す」(申命記28:38)。
「毛虫の残したものをイナゴが食い尽し、イナゴの残したものを地虫が食い尽し、地虫の残したものをバッタが食い尽した」(ヨエル2:4)。
「わたしはあなたがたに、イナゴ、地虫、バッタ、また毛虫が食い尽した年を整えよう」(ヨエル2:25)。
[3] 同様のものが「エジプトの中のイナゴ」によって意味され、それらについて「モーセの書」にこのように――
「モーセは杖をエジプトの地の上に伸ばした、東風がイナゴを生み出し、イナゴがエジプトの全地の上に上った。それ以前に、このようなイナゴはなかった、また畑のすべての草を食い尽した」。またモーセは杖を伸ばした、「すると、イナゴはスフの海の中へ投げ込まれた」(出エジプト記10:12以降)。
また「ダビデの書」に――
「彼らの産物をバッタに、彼らの労働(の成果)をイナゴに与えた」(詩篇104:34, 35)。
エジプトの中の奇跡によって教会の荒廃が、また奇跡によって最外部の中の虚偽よる荒廃が述べられている。また人間のいのち(生活)の最外部は、内的なものが閉ざされる時、〔最外部は〕それらから依存する〔が〕、地獄のものである。それゆえ、「イナゴはスフの海の中に投げ込まれ」、それによって地獄が意味される。
[4] 今日、何が感覚的なものによって意味されるか、また感覚的な人間がどんなものか(性質)、そして「イナゴ」がそれを意味する〔ことを〕知っている者はわずかなので、それゆえ、『天界の秘義』から、それらについて次のものが示される――
感覚的なものは人間の心のいのちの最外部のものであり、その身体の五つの感覚に付着し、密着している(5077, 5767, 9212, 9216, 9331, 9730番)。
身体の感覚から判断し、目で見ることまた手で触れることができるもの何らかのものであることを言って、そうでないなら何も信じないで、他のものを退ける者は感覚的な人間と言われる(5094, 7693番)。
彼の心の内的なものは、それが天界の光から見るが、そこに天界と教会のものがあること、真理の何も〔見られ〕ないように、閉ざされている(6567, 6844. 6845番に見られる)。
このような人間は最外部のものの中で考え、何らかの霊的な光の中で内的に〔考え〕ないこと(5089, 5094, 6564, 7693番)。
一言でいえば、〔彼らは〕自然的な粗野な光の中にいること(6201, 6310, 6564, 6844, 6845, 6612, 6612, 6622, 6624番)。
ここから〔彼らは〕内的に天界と教会のものであるそれらに反抗している、しかし、外的にそれらのために(味方して)、それらによっての支配にしたがって熱心に話すことができること(6201, 6316, 6844, 6845, 6948, 6949番)。
自分自身が虚偽の中に深く確信した、またさらに、みことばに反抗した、博学な者と学識ある者は、他の者よりも感覚的である(6316番)。
感覚的な人間は、鋭く、巧みに推論する、彼らの思考が、ほとんどその中に〔あるか〕ように、また唇の中に〔あるか〕ように、これほどに話しに近いからであり、話しの中に記憶だけからすべての知性を置くからである。なおまた、彼らからのある者は巧みに虚偽を証明することができること、また証明の後、真理であることを信じること(195, 196, 5700, 10,236番)。
しかし、〔彼らは〕感覚の欺きから推論し、確信する、それらにより大衆は捕えられ、説得される(5084, 6948, 6949, 7693番)。
感覚的な人間はずるくて、他の者よりも悪意があること(7693, 10,236番)。
貪欲な者、姦淫者、快楽にふける者、狡猾な者は、特に感覚的である、それでも世の前でそのような者に見えないこと(6310番)。
彼らの心の内的なものは不潔で汚れていること(6201番)。
それらによって地獄と伝達していること(6311番)。
地獄の中にいる者は感覚的であり、深くに〔いるほど〕それだけさらにますます〔感覚的である〕こと(4623, 6311番)。
地獄の霊のスフェアはそれ自体を人間の感覚的なものと背後から結合していること(6312番)。
感覚的なものだけから推論し、ここからみことばの本物の真理に反抗した者は、古代人により知識の木のヘビと言われたこと(195, 196, 197, 6398, 6399,{9} 10,313番)。
さらに、人間の感覚的なものと感覚的な人間が述べられている(10