原典講読『啓示された黙示録』 417(訳文)

(3) 訳文

 417 これらに私はこのメモラビリアを加える――

 

私は霊界の中で一つは雄ヤギ、もう一つは羊の二つの群れを見た。

 私はそれが何であるのかいぶかった、確かに、私は、霊界の中で見られる動物は動物ではなく、そこにいるそれらからの情愛とここからの思考の対応であることを知っていた。それゆえ、私はさらに近くへと近づいた、また私が近づくほど、動物に似ているものは消え、それらの代わりに人間が見られた。また、雄ヤギの群れを構成した者は自分自身に信仰のみによる義認の教えを確信した者であったこと、また羊の群れを構成した者は仁愛と信仰が一つである、このように善と真理が一つであることを信じたものであったことが明らかにされた。

[2] またその時、雄ヤギのように見られた者と話した。私は言った、「なぜ、あなたがたはそのように集まっているのですか?」

 大部分の者は聖職者からであり、その学識から称賛された者であった、信仰のみによる義認のアルカナ(秘義)を知っていたからである。

 彼らは、会議に座るために集まった、と言った、パウロの言ったことを聞いたからである(ローマ3:28)、

 

人間は、律法の行ないなしに、信仰で義とされること、

 

 パウロは「律法の働き」によってユダヤ人のための〔ものである〕モーセの律法の働きを意味したので、〔これが〕正しく理解されていない――「さらにまた私たちははっきりと見る、ペテロへの彼のことばから、

 

ユダヤ人〔の風習に〕に倣った、 それを叱責した、それでも〔次のことを〕知っているとき、「だれも律法の働き(行ない)によって義とされないこと」(ガラテヤ2:14-16)。なおまた信仰の律法と働き(行ない)の律法の間を区別した、そしてユダヤ人と異邦人の間を、すなわち、割礼と無割礼者(包皮)、(また割礼によってユダヤ教が意味される、他のところどこでものように)。そしてまた、それらをこれらのことばによって閉じ込めたこと、

 

 「それゆえ、律法の私たちは信仰によっては意志すのですか?〔そんなことは〕ありません、しかし、律法を私たちは確立させます」これらのすべては一つの連続の中で言われている(ローマ3:27-31)。

 

 そしてまた、先行する章の中で言っている、

 

 「律法を聞く者が義とされない、神により、しかし、律法を行なう者が義とされる」(ローマ2:13)。

 

 なおまた、

 

 神はそれぞれの者を彼の行ないしたがって報いること(ローマ2:6)。

 

 またさらに、

 

 「すべての者は、私たちはキリストの厳しい罰の前に現わされなければならない、そのどんなものでも獲得するために、それは善にしろあるいは悪にしろ身体によって行なわれた」(コリントⅡ5:10)。

 

 そこにほかにも多くのもの。それらから、パウロはヤコブと等しく善の行ないなしの信仰を退けたことが明らかである(手紙2:17-26)。

[3] パウロによりユダヤ人のためのモーセの律法の行ないが意味されたことは、ほかにも、モーセのもとのユダヤ人のためのすべての法令が「律法」そのように「律法の行ない」と言われたことから私たちは確証される、それを私たちはこれらから見る――

 

 「これは穀物の捧げ物の律法」(レビ記6:14, 18以降)。

「これはいけにえ律法」(レビ記7:1)。

「「これは平和をもたらす(仲裁の)いけにえの律法」(レビ記7:7, 11以降)。

「これは全焼のいけにえのための、穀物の捧げ物のための、罪と有罪のための、満たすための律法」(レビ記7:37)。

 「これは獣(動物)と鳥のための律法」(レビ記11:46以降)。

 「これは息子または娘のための産む者の律法」(レビ記12:7)。

 「これはらい病のための律法」(レビ記13:59、14:2, 32, 54, 57)。

 「これは流出を働きかけられた者のための律法」(レビ記15:32)。

 「これはねたみの律法」(民数記5:29, 30)。

 「これはナジル人の律法」(民数記6:13, 21)。

 「これは清めることの律法」(民数記14:14)。

 「これは赤い雌牛についての律法」(民数記19:2)。

 「王のための律法」(申命記17:15-19)。

 

 実に、モーセの全部の書物が「律法の書」と呼ばれている(申命記31:9, 11, 12, 26)。なおまたさらに「福音書」のもとに、(ルカ2:22、24:44、ヨハネ1:45、7:22, 23、8:5、また他の箇所に)

 

これらに、パウロのもとにも見られることを言い足した、〔それは〕十戒の戒めが見られるべきであること、また仁愛により満たされることである(ローマ13:8-11)。そのように信仰のみからではない。

 

 彼らは、これらのために呼び集められた、と言った。

[4] しかし、私は彼らを騒がせないように退いた。またその時、再び、遠方から、雄ヤギのようなものが、ある時には伏せ、またある時には立っているように見られた。しかし、他の羊の群れへ向かった。

熟考したとき伏せているように、結論したとき立っているように見えた。

 しかし、私の視覚を彼らの角に保った。また私は、彼らの額の中に角が、ある時は前方にまた上方へ差し出されたように、ある時には背の方へ後方へ曲げられ、また最後に完全に向きを変えて見られたことを不思議に思った。またその時、急に、羊の群れへ向きを変えた、しかし、それでも雄ヤギのように見えた。

 それゆえ、再び、私は近づき、質問した、「何を、今〔しようとしているのですか〕?」

彼らは木が実を生み出すように、信仰が善の働きと呼ばれる仁愛の善を生み出すことを結論した、と言った。

 しかし、その時、雷鳴が聞かれ、上からの稲光が見えた。また間もなく、二つのそれらの群れの間に立っている天使が現われ、羊の群れへ叫んだ、「聞くな。彼らは前の自分の信仰から引き下がっていない、それは、父なる神が子のために哀れみを示した、その信仰は神への信仰ではない。信仰は木でない、しかし、人間が木である。しかし、悔い改めを行なえ、また主へ目を向けよ、すると、あなたがたは信仰を持つ」。そのこと依然の信仰は、その中に何らかのものが生きている信仰ではない」。

 その時、雄ヤギは角の向きを変えて羊に近づくことを欲した。しかし、彼らの間に立っている天使は、羊を二つの群れに分けた。また、左からの彼らに言った、「あなたがたは雄ヤギに加われ、しかし、私はあなたがたに言う、オオカミがやって来ること、それは彼らを、また彼らとともにあなたがたを襲う」。

[5] しかし、その後、二つの羊の群れは分かれた。また左からの彼らは、天使のおどしの言葉を聞き、お互いに眺め合って、言った、「私たちのかつての仲間と会話しよう」。

 またその時、左の群れが右の群れに言って、話した、「なぜ、あなたがたは私たちの羊飼いから去ったのですか?

 信仰と仁愛は木と実が一つであるように一つではありませんか? というのは、木は枝によって実の中に続いているからです。木が連続を通して実の中に流入する何らかのものを枝から引き離しなさい、実は また実と一緒に、再び何らかの木の生まれるすべての種は滅びるのではありませんか? 

 そのようであるかどうか、私たちの聖職者に質問してください」。

 またその時、質問した。聖職者は他の者を見回した、その者は、「よく話した」と言うようにと、まぶたでウインクした。またその後、そのようであり、「信仰は実によって(存在を)保たれる」と答えた。しかし、善の働きの中への信仰が続く、と言うことを欲しなかった。

[6] またその時、右からの羊の間にいた聖職者からのある者が、立ち上がり、言った、「彼らはあなたがたに、そのようであることを答えました、しかし、自分自身にそのようではありません、というのは、異なって考えるからです」。

 それゆえ、彼らは質問した、「その時、どのように考えているのですか? 彼らは教えるように考えないのですか?」

 彼は言った、「いいえ。救いまたは永遠のいのちのために人間により行なわれる善の働きと呼ばれるすべての仁愛の善を、善ではなく悪であると考えます、その理由は、人間は自分自身による働きによって自分自身そのものが救われることを、唯一の救い主の功績を自分自身の義として要求して、欲するからです。またそのようであることを、すべての善の働きに、その中に人間は自分の意志を感じるからです。それゆえ、自分自身のもとに人間による善の働きを祝福されないもの、しかし、呪われたものと呼び、また天界よりもむしろ地獄に値します。

[7] しかし、左の群れから言った、「あなたは彼らに反する偽りを言っています。彼らは、仁愛とその働きを、それを信仰の働きと呼んで、私たちの前で明らかに説教していませんか?」

 また、彼は答えた、「あなたがたは彼らの説教を理解していません。〔ここに〕いる聖職者だけが、留意し、理解しています。彼らは道徳的な仁愛だけを、またその市民的なまた政治上の善行を考え、それらを信仰のものと呼びますが、まったく〔そうでは〕ありません。というのは、人間は、無神論者はそれらを同様に、また同じ形の下に行なうことができるからです。それゆえ、だれも何らかの働きによって救われない、しかし、信仰のみによって救われる、と一致して言っています。けれども、このことを比較(たとえ)によって説明しましょう――リンゴの実を生じる木はリンゴを生み出します、しかし、その木が延長によってリンゴを生み出すように、もし人間が救いのために善行をなすなら、その時、そのリンゴは内部で腐り、虫で満ちます。さらに言いましょう、ブドウの木がブドウを生み出します、しかし、もし人間が霊的な善行をなしたなら、ブドウの木はブドウを野ブドウのようにします」。

[8] しかしその時、質問した、「彼らに、信仰の実であるどのような仁愛の善行または働きがあるのですか?」

 「聖霊から人間の中の内部に目だなないものがあり、それについて人間は何も知らない」と答えた。

 しかし、彼らは言った、「もし人間がそれらについて何も知らないにしても、確かに何らかの結合があるはずです――そうでなければ、どのように信仰の働きと呼ぶことができるのですか? おそらくその時、仁愛の善行は、神により何らかの流入によって人間の自発的な働きの中に、何らかの情愛・熱望・霊感・興奮・願いの喚起・思考の中の静かな知覚、またここからの勧告・悔恨、またこのように良心、またここから強制、幼児のようにまたは賢明な者のように十戒とみことばの従順によって、またはそれらと似た何らかのある媒介するものによるかように徐々にしみ込みます、そうでなければ、どのように信仰の実と呼ばれることができるのですか?」

 しかし、〔聖職者は〕答えた、「いいえ。またもし、「信仰によって」そのようなものによって何かが行なわれた、と言うなら、それでもそれを言葉とともに説教の中ででっちあげています、それらから結果として、信仰からでないことが生じます。それでも、あるものを、このようなものを述べました、しかし、信仰のしるしとしてであり、仁愛とのそのきずな(ひも)としてではありません。それでも、ある者は、みことばによる結合を考え出しました」。

またその時、彼らは言った、「このような結合がありませんか(それを人間は、みことばにしたがって自発的に行なう)?」

 しかし、答えた、「このことを考えません、しかし、理解〔すること〕によって何らかのものがはっきりと人間の思考と意志の中に入らないようにみことばの理解〔すること〕によってではありません。単にみことばを聞くことによって〔結合があります〕。というのは、人間の意志のすべてのものは功績を求めるものであり、人間は霊的なものの中で丸太よりもさらに何らかのものを考えること、意志すること、働くこと、協力することができません、しかし、それでも、信仰によって説教者の話しの中に聖霊が流入するとき、何らかのものがあります、これらは口の活動であり、身体の活動ではないからです、なおまた、信仰によって人間は神とともに、しかし仁愛によって人間とともに働きます」と主張するからです。

[9] しかし、ある者が、みことばの聞くことだけによって、またみことばの理解〔すること〕によってではないことを聞いたとき、憤慨して言った、「このように、みことばの理解〔すること〕によって、聖霊だけによってなのですか、人間が集会の中で他を向く、または丸太のようにつんぼ〔のままに〕座っている、または眠っている時、またはみことばの書物からの発散気だけからですか。しかし、何とばかばかしいもの〔でしょう〕」。

 この後、右の〔羊の〕群れから、判断力で他の者に高度に発達したある男が、聞いてくれるように願った。

また話して言った「私はある者が、『私はブドウ畑を植えた、今や、私はブドウ酒を飲む、酩酊〔する〕までも』と言っているのを聞きました。しかし、他の者が質問した、「あなたは、あなたの右手によってその酒杯からブドウ酒を飲むのですか?」 また、言った、『いいえ、しかし、目に見えない酒杯から、目に見えない手によってです』。また、他の者が答えた、『確かに、その時、あなたは酔いません』。

 間もなく、同じ男が言った、「しかし、どうが私〔の言うこと〕に聞いてください。私はあなたがたに、みことばの理解力からブドウ酒を飲みなさい、と言いましょう。主がみことばであることを(あなたがたは)知っていませんか? みことばは主からではありませんか? そのように(したがって)その方はその中にいませんか? それゆえ、もし、あなたがたがみことばから善を行なうなら、それをみことばから、その方の口から、意志から行ないませんか? また、もしその時、あなたがたが主に目を向けるなら、その方もまたあなたがたを導き、教えます、また、あなたがたはそれを主のことばから行ないます。

 何らかのことを王から、その王の口と意志で行なう者が、『このことを私は、私から、私の口から、または命令、また私の意志から行なう』と、だれが言うことができますか」。

 [10] この後、聖職者へ向きを変え、言った、「神に仕える者よ、群れを迷わすな」。

 これらを聞いて、左の群れの大部分は去り、右の群れに合流した。

 さらにまたその時、聖職者からのある者が言った、「私たちは以前にないものを聞きました。私たちは羊飼いです、羊を置き去りにしません」。また、彼らと一緒に去った。また言った、「その男は真理のことばを話しました。みことばから、そのように主から、その方の口と意志で行なう者が、『このことを私は、私から行なう』とだれが言うことができますか? 王から、その〔王の〕口と意志で行なう者が、『このことを私は、私から行なう』と、だれが言うのですか?

 私たちは、教会の社会により認められている信仰と善の働きの結合が、なぜ見つからなかったか、今や、神的な摂理〔であったこと〕を見ます。見つけられることができなかったのは、存在することができなかったからです、というのは、みことばである主への信仰がなく、またここからみことばからの信仰もないたからです」。

 しかし、雄ヤギの群れからであった残りの聖職者たちは、立ち去った、また自分の帽子(かぶりもの)を振り、叫んだ、「信仰のみ、信仰のみ、それでも(やはりそれは)生きる」。

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