原典講読『啓示された黙示録』 379(直訳[7]と訳文)

[7] Secundo, quod “Sanguis” significet Divinum Verum, clare videri potest ex sensu ejus opposito, in quo significat Divinum Verum Verbi falsificatum aut prophanatum, quod patet ex his: [7] 第二に、「血」が神的真理を意味することは、その正反対の意味からはっきりと見られることができる、その中で虚偽化されたまたは冒涜されたみことばの神的真理を意味する、それはこれらから明らかである――

 

Qui “obturat aures suas, ne audiat Sanguines, et occludit oculos, ne videat malum” (Esaj. xxxiii. 15). その者は「自分の耳をふさぐ、血を聞かないように、また目を閉じる、悪を見ないように」(イザヤ32:15)。

“Perdes loquentes mendacium, virum Sanguinum et doli abominatur Jehovah” (Psalm. v. 7 [B.A. 6]); 「あなたはうそつきの話す者を滅ぼす、エホバは血と欺きの男を忌み嫌う」(詩篇5:6)。

Omnis scriptus ad vitam in Hierosolyma, cum Dominus abluerit Sanguines ejus e medio ejus per spiritum judicii et per spiritum expurgationis (Esaj. iv.{6} 2, 3, 4): エルサレムの中でいのちのために書かれたすべての者は、そのとき主はその真ん中から(で)血を洗い落とす、審判の霊によって、また浄化の霊によって(イザヤ4:2, 3, 4)。

“In die quo nata es vidi te conculcatam in Sanguinibus, et dixi, In Sanguinibus tuis vive; 「あなたが生まれたその日の中で、わたしはあなたを見た、血の中で踏みにじられた、また、わたしは言った、あなたの血の中で生きよ。

lavi et ablui Sanguines a super te” (Ezech. xvi. 5, 6, 9, 22, 36, 38); わたしはあなたの上から血を洗った、また洗い落した」(エゼキエル26:5, 6, 9, 22, 36, 38)。

“Errarunt Caeci in plateis, polluti sunt Sanguine, et quae non possunt, tangunt vestimentis suis” (Thren. iv. 13, 14); 「盲人たちは街路の中をさ迷った、血で汚れた、また〔触る〕ことができないそれを、自分の衣服で触る」(哀歌4:13, 14)。

“Vestis est polluta Sanguinibus” (Esaj. ix. 4 (B.A. 5)); 「衣服は血で汚された」(イザヤ9:5)。

“Etiam in alis tuis inventus est Sanguis animarum innocentium” (Jerem. ii. 34{7}); 「あなたのすその中にもまた無垢な者の血が見つかった」(エレミヤ2:37)。

“Manus vestrae Sanguinibus plenae sunt, lavate vos, purificate vos, removete malitiam operum vestrorum” (Esaj. i. 15, 16); 「あなたがたの手は血で満ちている、あなたがたを洗え、あなたがたを清めよ、あなたがたの働きの悪意を取り除け」(イザヤ1:15, 16)。

“Manus vestrae pollutae sunt Sanguine, et digiti vestri iniquitate, labia vestra locuta sunt mendacium, festinant ad effundendum Sanguinem innocentem” (Esaj. lix. 3, 7); 「あなたがたの手は血で汚れている、またあなたがたの指は不法で、あなたがたの唇はうそを話した。彼らは無垢な者の血を流すために急ぐ」(イザヤ59:3, 7)。

“Jehovah exiens ad visitandum iniquitatem terrae, tunc revelabit terra Sanguines suos” (Esaj. xxvi. 21{8}; 「地の不法を視察するため出て行くエホバは、その時、血はその血を現わすであろう」(イザヤ26:21)。

“Quotquot Ipsum receperunt, dedit illis potestatem ut filii Dei essent, qui non ex Sanguinibus” (Joh. i. 12, 13); 「その方を受け入れたと同数の者、彼らに神の子となるような力を与えた、その者は血から〔生まれたのでは〕ない」(ヨハネ1:12, 13)。

In Babylonia “Sanguis Prophetarum et Sanctorum inventus est” (Apoc. xviii.{9} 24) バビロンの中で「預言者と聖徒の血が見つけられた」(黙示録18:24)。

“Mare factum est tanquam Sanguis mortui, et fontes aquarum facti sunt Sanguis” (Apoc. xvi. 3, 4; Esaj. xv. 9{10}; Psalm. cv. 29{11}); 「海は死んだ者の血のようになった、また水の泉は血になった」(黙示録16:3, 4、イザヤ15:9、詩篇105:29)。

Simile significatur per quod flumina, collectiones et stagna aquarum in Aegypto versa sint in Sanguinem (Exod. vii. 15-25{12}); 同様のものが、エジプトの中の川、水を集めたものと池が血に変えられたことによって意味される(出エジプト記7:12-15)。

“Luna vertetur in Sanguinem antequam venit dies Jehovae magnus” (Joeliii. 4{13} [B.A. ii. 31]); 「月は血に変えられるであろう、エホバの大いなる日がやって来る前に」(ヨエル2:31)。

“Luna facta est Sanguis” (Apoc. vi. 12). 「月は血になった」(黙示録6:12)。

 

In his locis et pluribus aliis, “Sanguis” significat Verum Verbi falsificatum, et quoque prophanatum; これらの箇所また他の多くのものの中で、「血」は虚偽化された、そしてまた冒涜されたみことばの神的真理を意味する。

quod tamen manifestius videri potest ex illis locis in Verbo in serie lectis. それはそれでもさらにはっきりと見られることができる、みことばの中のそれらの箇所から、連続(系列)の中であなたが読む。

Cum itaque per “Sanguinem” in opposito sensu significatur Verum Verbi falsificatum aut prophanatum, patet quod per “Sanguinem” in genuino sensu significetur Verum Verbi non falsificatum. そこで、「血」によって正反対の意味の中で虚偽化されたまたは冒涜された神的真理が意味されるとき、「血」によって本来の意味の中で虚偽化されていないみことばの真理が意味されることが明らかである。

@1 3-8 pro “3 ad n.” 注1 「3 ad n.」の代わりに 3-8

@2 xxvi. pro “xxvii.” 注2 「xxvii.」の代わりに xxvi.

@3 53-56 pro “50 ad 58″ 注3 「50 ad 58」の代わりに 53-56

@4 17 pro “8” 注4 「8」の代わりに 17

@5 13-15 pro “13, 14, 15, 16″ 注5 「13, 14, 15, 16」の代わりに 13-15

@6 iv. pro “iii.” 注6 「」の代わりに 

@7 34 pro “33, 34″ 注7「33, 34」の代わりに 34

@8 21 pro “20” 注8 「20」の代わりに 21

@9 xviii. pro “xvii.” 注9 「xvii.」の代わりに xviii.

@10 9 pro “6, 9″ 注10 「6, 9」の代わりに 9

@11 29 pro “23, 28, 29″ 注11 「23, 28, 29」の代わりに 29

@12 25 pro “27” 注12 「27」の代わりに 25

@13 iii. 4 pro “iii. 34″ 注13 「iii. 34」の代わりに iii. 4

 

(3) 訳文

 379 「また小羊の血の中で自分の衣を白くした」は、また真理によって悪の虚偽からそれらを浄化した(清めた)、またこのように主により改心された、を意味する。

 虚偽の悪と悪の虚偽がある。虚偽の悪が、口で罪人(つみびと)であることを告白しさえすれば、悪は断罪しないと宗教から信じた者のもとに〔ある〕。また悪の虚偽が悪を自分自身のもとで確信した者のもとに〔ある〕。

 「衣」によってここに、前のように(378番)、みことばからの全般的な真理が意味され、それは彼らの宗教的信念をつくる。「小羊の血の中で自分の衣を白くした」ことが言われているのとは、「白」は真理について言われ(167, 231, 232番)、そのように真理によって虚偽を清めるからである。それはさらにまた、このように主により改心されたことが意味される、世の中で悪に対して戦い、また主を信じたすべての者は、世から去った後、主により教えられ、また自分の宗教の虚偽から、真理によって導き出され、またこのように改心されるからである。その理由は、悪を罪として避けた者は、生活の善の中にいるからである、生活の善は真理を望む、またそれらを認める、また受け入れる。しかし、決して生活の悪は〔望ま〕ない。

 「小羊の血」によって、みことばの中のここにまた他の箇所に、主の十字架の受難が意味されることが信じられている。しかし、十字架の受難は最後の試練であった、それによって主は完全に地獄に勝った、またご自分の人間性を完全に栄化した、それらの二つによって人間を救った、〔このことが〕『新しいエルサレムの教え 主について』に見られる(22-24, 25-27番)、なおまた前に(67番)。また、主はそれらによって完全にご自分の人間性を栄化した、すなわち、神的なもの(神性)にしたので、それゆえ、その方の「肉」と「血」によって、その方の中のまたその方からの神性以外に何らかのものが意味されない。「肉」によって神的愛の神的善が、また「血」によってその善からの神的真理が〔意味される〕。

 [2] 「血」のことが言われるみことばの中の多くの箇所の中で、それによってどこでも霊的な意味で主の神的真理が意味され、〔これは〕さらにまたみことばの神的真理であり、また正反対の意味の中で虚偽化されたまたは冒涜されたみことばの神的真理であることを、続く箇所から明らかにすることができる。

 最初に、「血」によって、主のまたはみことばの神的真理が意味されることは、これらから――血は「契約の血」と言われた、また「契約」は結合であり、これは主によりその方の神的真理によって生じる。例えば、「ゼカリヤ書」に――

 

 「あなたの契約の血によって、わたしは縛られた者を穴から解放する」(9:11)。

 

 またモーセに――

 

モーセは民の耳の中に律法の書を読んだ後に、民の上に血の半分を振りかけ、「また、言った、見よ、契約の血を、それをエホバがあなたがたとこれらのすべてのことばの上に結んだ」(出エジプト記24:3-8)。

 「また、イエスは杯を取り、彼らに言って、言った、すべての者はこれから飲め、これはわたしの血である、それは新しい契約の〔血〕〔である〕」(マタイ26:27, 28、マルコ14:24、ルカ22:20)。

 

 「新しい契約の血」によって、旧いまた新しい「契約」と呼ばれるみことば以外の、そのようにそこに神的真理が意味され、他のものが意味されない。

 [3] 「血」によってそのことが意味されるので、それゆえ、主は彼らに、「これはわたしの血である」と言って、ぶどう酒を与えた。「ぶどう酒」は神的真理を意味する(316番)。それゆえ、さらにまた、「ブドウの血」と呼ばれる(創世記49:11、申命記32:14)。

 

 このことはさらにこれらの主のことばから明らかである――

 

 「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う、あなたがたが人の子の肉を食べ、またその方の血を飲まないなら、あなたがたの中に、あなたがたはいのちを持たない。なぜなら、わたしの肉は真の食べ物、またわたしの血は真の飲み物であるからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、彼はわたしの中にとどまり、わたしは彼の中に〔とどまる〕」(ヨハネ6:53-56)。

 

 「血」によってここに神的真理が意味されることが、はっきりと明らかである。飲む者がいのちを持ち、そして主の中に、また主は彼の中にとどまることが言われたからである。このことを神的真理が、またそれにしたがった生活がひき起こし、聖餐がそれを強めることは、教会の中でよく知られることができる。

 [4] 「血」は主の神的真理を意味したので、それはさらにまたみことばの神的真理である、またこれは旧いまた新しいその方の契約である、それゆえ、血はイスラエル教会の中で最も聖なる表象するもの、そのすべてと個々のものは霊的なものの対応するものであった。例えば、彼らは過ぎ越しの祝いの血から取り、彼らの上に災害がやって来ないように「家の側柱とかもいの上に与えた」こと (出エジプト記12:7, 13, 22)、全焼のいけにえの血が祭壇の上に、祭壇の土台に、アロンの上に、彼の息子たち、また彼らの衣服の上に振りかけられること(出エジプト記29:12, 16, 20, 21、レビ記1:5, 11, 15、3:2、8, 13、4:25, 30, 34、5:9、8:15, 24、17:6、民数記17:17、申命記12:27)、なおまた垂れ幕の上に、それは箱の上に、そこのあがないのふたの上に、また香の祭壇の角の上に(レビ記4:6, 7, 17, 18、16:12-15)。

 

 [5] 「小羊の血」によって同様のものが「黙示録」の中の続くものの中で意味されている――

 

 「天の中で戦いが起こった、ミカエルと天使たちは竜に対して戦った。また彼に勝った、小羊の血によって、また自分の証しのことばによって」(12:7, 11)。

 

 というのは、ミカエルと彼の天使たちが何らかのものによって竜に勝つことは、みことばの中の主の神的真理によって以外に考えられることができないから。なぜなら、天界の中の天使たちは何らかの血について考えることができない、主の主の受難についても考えない、しかし、神的真理についてまたその方の復活について〔考える〕からである。それゆえ、人間が主の血について考えるとき、天使たちはその方の神的真理を知覚する、また主の受難について〔人間が考える〕とき、その方の栄化を、またその時、復活だけを知覚する。

そのようであることを、〔私は〕多くの経験によって知ることが与えられた。

 [6] 「血」が神的真理を意味することは、ダビデのこれらからもまた明らかである――

 

 神は「乏しい者の霊魂を救う、その方の目の中で彼らの血は貴重であろう。また、彼らは生きる、また彼らにシェバの金から与えられる」(詩篇72:13-15)。

 

 「神の目の中で貴重な血」は、彼らのもとの神的真理のために〔である〕。「シェバの金」はここからの知恵である。

 「エゼキエル書」に――

 

 「あなたがたは、イスラエルの山々の上の大きないけにえへ集まれ、あなたがたが肉を食べ、血を飲むために、あなたがたは地の君主の血を飲め、またあなたがたは酩亭までも血を飲め、わたしのいけにえから、それをわたしはあなたがたにいけにえとしてささげる。このように、わたしはわたしの栄光を国民の間に与える」(39:17-21)。

 

 「血」によって、ここに血が意味されることができない、「地の君主の血が飲まれることになる」こと、また「酩亭までも血が飲まれることになる」ことが言われるからである。しかし、みことばの真の意味が生じるその時、「血」によって神的真理が意味される時、そこに主の教会につてもまた扱われていおり、それは異教徒のもとにもまた設立されなければならない。

 [7] 第二に、「血」が神的真理を意味することは、その正反対の意味からはっきりと見られることができる、その中で虚偽化されたまたは冒涜されたみことばの神的真理を意味する、それはこれらから明らかである――

 

 その者は「血を聞かないように自分の耳をふさぐ、また、悪を見ないように目を閉じる」(イザヤ32:15)。

 「あなたはうそを話す者を滅ぼす、エホバは血と欺きの男を忌み嫌う」(詩篇5:6)。

 エルサレムの中でいのちのために書かれたすべての者は、そのとき主はその真ん中で、審判の霊によって、また浄化の霊によって血を洗い落とす(イザヤ4:2, 3, 4)。

 「あなたが生まれたその日に、わたしは、血の中で踏みにじられたあなたを見た、また、わたしは言った、あなたの血の中で生きよ。わたしはあなたの上から血を洗い、洗い落した」(エゼキエル26:5, 6, 9, 22, 36, 38)。

 「盲人たちは街路の中をさ迷った、血で汚れた。また〔触る〕ことができないそれを、自分の衣服で触る」(哀歌4:13, 14)。

 「衣服は血で汚された」(イザヤ9:5)。

 「あなたのすその中にもまた無垢な者の血が見つかった」(エレミヤ2:37)。

 「あなたがたの手は血で満ちている、あなたがたを洗え、あなたがたを清めよ、あなたがたの働きの悪意を取り除け」(イザヤ1:15, 16)。

 「あなたがたの手は血で、またあなたがたの指は不法で汚れている、あなたがたの唇はうそを話した。彼らは無垢な者の血を流すために急ぐ」(イザヤ59:3, 7)。

「地の不法を視察するため出て行くエホバは、その時、血はその血を現わすであろう」(イザヤ26:21)。

 「その方を受け入れたと同数の者に神の子となるような力を与えた。その者は血から〔生まれたのでは〕ない」(ヨハネ1:12, 13)。

 バビロンの中で「預言者と聖徒の血が見つけられた」(黙示録18:24)。

 「海は死んだ者の血のようになった、また水の泉は血になった」(黙示録16:3, 4、イザヤ15:9、詩篇105:29)。

 同様のものが、エジプトの中の川、水を集めたもの、池が血に変えられたことによって意味される(出エジプト記7:12-15)。

 「エホバの大いなる日がやって来る前に、月は血に変えられるであろう」(ヨエル2:31)。

 「月は血になった」(黙示録6:12)。

 

 これらの箇所また他の多くのものの中で、「血」は虚偽化され、そしてまた冒涜されたみことばの神的真理を意味する。それはそれでも、みことばの中の系列の中であなたが読むそれらの箇所からさらにはっきりと見られることができる。

 そこで、「血」によって正反対の意味の中で虚偽化されたまたは冒涜された神的真理が意味されるとき、「血」によって本来の意味の中で虚偽化されていないみことばの真理が意味されることが明らかである。

原典講読『啓示された黙示録』 380,381,382

(1) 原文

380. [Vers. 15.] ” Propter hoc sunt coram Throno Dei, et serviunt Ipsi die et nocte in Templo Ipsius, et Sedens super Throno habitabit super illis,” significat quod in praesentia Domini sint, ac constanter et fideliter vivant secundum vera quae recipiunt ab Ipso in Ecclesia Ipsius, et quod Dominus veris illorum jugiter indat bonum.―”Propter hoc{1} sunt coram Throno Dei” significat quod in praesentia Domini sint; “et serviunt Ipsi die et nocte” significat quod constanter et fideliter vivant secundum vera, hoc est, praecepta, quae recipiunt ab Ipso; per “servire Domino” non aliud significatur; “in Templo Ipsius” significat in Ecclesia (n. 191). “Sedens super Throno habitabit super illis,” significat quod Dominus jugiter indat bonum veris quae recipiunt ab Ipso; quod hoc per “habitare super illis” significetur, est quia in Verbo “habitare” praedicatur de bono, et “servire” de vero.

Hic nunc hoc Arcanum detegendum est; quod conjugium Domini cum Ecclesia in eo consistat, quod Dominus influat apud Angelos et Homines cum bono amoris, et quod angeli et homines recipiant Ipsum seu bonum amoris Ipsius in veris; quod per id fiat conjugium boni et veri, quod conjugium est ipsa Ecclesia, et fit Caelum apud illos: quia talis est influxus Domini et receptio Ipsius, ideo Dominus aspicit angelos et homines in fronte, et illi respiciunt Dominum per oculos: frons enim correspondet bono amoris, et oculi correspondent veris ex illo bono, quae sic per conjunctionem fiunt vera boni: influxus autem Domini cum veris apud angelos et homines, non est sicut influxus boni apud illos; est enim mediatus profluens ex bono, sicut lux ex igne, et recipitur intellectu ab illis, ac in tantum voluntate quantum faciunt vera. Hoc itaque est conjugium amoris et sapientiae, seu boni et veri a Domino, apud recipientes in Caelis et in terris. Hoc arcanum detectum est, ut sciatur quomodo intelligendum est, quod Dominus veris illorum jugiter indat bonum.

@1 hoc pro “haec”

 

(2) 直訳

380. [Vers. 15.] ” Propter hoc sunt coram Throno Dei, et serviunt Ipsi die et nocte in Templo Ipsius, et Sedens super Throno habitabit super illis,” significat quod in praesentia Domini sint, ac constanter et fideliter vivant secundum vera quae recipiunt ab Ipso in Ecclesia Ipsius, et quod Dominus veris illorum jugiter indat bonum.― 380(15節) 「このことのゆえに、彼らは神の王座の前にいる、また昼にまた夜にその方の神殿の中で仕える、また王座の上に座っている方は彼らの間に住む」は、主の臨在の中にいる、そして常にまた忠実に真理にしたがって生きることを、それ(真理)をその方の教会の中でその方から受け入れている、また主は彼らの真理に常に善を与えることを意味する

“Propter hoc{1} sunt coram Throno Dei” significat quod in praesentia Domini sint; 「このことのゆえに、彼らは神の王座の前にいる」は、主の臨在の中にいることを意味する。

“et serviunt Ipsi die et nocte” significat quod constanter et fideliter vivant secundum vera, hoc est, praecepta, quae recipiunt ab Ipso; 「また昼にまた夜にその方の神殿の中で仕える」は、常にまた忠実に真理にしたがって生きることを意味する、すなわち、戒め〔にしたがって〕、それを主から受け入れている。

per “servire Domino” non aliud significatur; 「主に仕えること」によって、他のものは意味されない。

“in Templo Ipsius” significat in Ecclesia (n. 191). 「その方の神殿の中で」は教会の中でを意味する(191番)。

“Sedens super Throno habitabit super illis,” significat quod Dominus jugiter indat bonum veris quae recipiunt ab Ipso; 「王座の上に座っている方は彼らの間に住む」は、主が常に善を真理に与えることを意味する、それ(真理)をその方から受け入れる。

quod hoc per “habitare super illis” significetur, est quia in Verbo “habitare” praedicatur de bono, et “servire” de vero. このことが「彼らの間に住むこと」よって意味されることは、みことばの中の「住むこと」は善について述べられるからである、また「仕えること」は真理について。

Hic nunc hoc Arcanum detegendum est; ここに、今や、このアルカナ(秘義)が明らかにされなければならない。

quod conjugium Domini cum Ecclesia in eo consistat, quod Dominus influat apud Angelos et Homines cum bono amoris, et quod angeli et homines recipiant Ipsum seu bonum amoris Ipsius in veris; 教会との主の結婚がそのことの中に存する(成り立つ)こと〔である〕、主が天使と人間のもとに愛の善とともに流入すること、また天使と人間がその方を、すなわち、その方の愛の善を真理の中に受け入れること。

quod per id fiat conjugium boni et veri, quod conjugium est ipsa Ecclesia, et fit Caelum apud illos: そのことによって善と真理の結婚が生じること、その結婚は教会そのものである、また彼らのもとの天界になる。

quia talis est influxus Domini et receptio Ipsius, ideo Dominus aspicit angelos et homines in fronte, et illi respiciunt Dominum per oculos: 主の流入がまたその方の受け入れ(受容)がこのようなものであるので、それゆえ、主は天使と人間を額の中で☆熟視する(注視する)、また彼らは主を目を通して受け入れる。

☆ in frone で「まともに、向かい合って」の熟語ですが、ここは直訳が正しくなります。

frons enim correspondet bono amoris, et oculi correspondent veris ex illo bono, quae sic per conjunctionem fiunt vera boni: というのは、額は愛の善に対応するから、また目はその善からの真理に対応する、それらはこのように結合によって善の真理になる。

influxus autem Domini cum veris apud angelos et homines, non est sicut influxus boni apud illos; けれども、真理とともに天使と人間のもとの主の流入は、彼らのもとの善の流入のようではない。

est enim mediatus profluens ex bono, sicut lux ex igne, et recipitur intellectu ab illis, ac in tantum voluntate quantum faciunt vera. というのは、善から流れ出る間接的なものであるから、火からの光のように、また彼らにより理解力で受け入れられる、そしてそれだけ意志の中に〔受け入れられる〕、どれだけ真理を行なうか〔によって〕。

Hoc itaque est conjugium amoris et sapientiae, seu boni et veri a Domino, apud recipientes in Caelis et in terris. そこで、これが愛と知恵の結婚である、すなわち(または)、主からの善と真理の〔結婚〕、天界の中また地の中で受け入れる者のもとの。

Hoc arcanum detectum est, ut sciatur quomodo intelligendum est, quod Dominus veris illorum jugiter indat bonum. このアルカナ(秘義)が明らかにされた、どのように理解されるべきか知られるために、主が彼らの真理に常に善を与えていること。

@1 hoc pro “haec” 注1 「haec」の代わりに hoc

 

(3) 訳文

380(15節) 「このことのゆえに、彼らは神の王座の前にいて、昼にまた夜にその方の神殿の中で仕え、王座の上に座っている方は彼らの間に住む」は、主の臨在の中にいる、そして常にまた忠実に真理にしたがって生きる、それをその方の教会の中でその方から受け入れている、また主は彼らの真理に常に善を与えることを意味する。

 「このことのゆえに、彼らは神の王座の前にいる」は、主の臨在の中にいることを意味する。「また昼にまた夜にその方の神殿の中で仕える」は、常にまた忠実に真理にしたがって、すなわち、主から受け入れている戒めにしたがって生きることを意味する。

「主に仕えること」によって、他のものは意味されない。「その方の神殿の中で」は教会の中でを意味する(191番)。

 「王座の上に座っている方は彼らの間に住む」は、主が常にその方から受け入れる真理に善を与えることを意味する。このことが「彼らの間に住むこと」よって意味されることは、みことばの中の「住むこと」は善について、また「仕えること」は真理について述べられるからである。

 ここに、今や、このアルカナ(秘義)が明らかにされなければならない。教会との主の結婚が、主が天使と人間のもとに愛の善とともに流入すること、また天使と人間がその方を、すなわち、その方の愛の善を真理の中に受け入れること、このことの中に存することである。そのことによって善と真理の結婚が生じ、その結婚は教会そのものであり、また彼らのもとの天界になる〔ことである〕。主の流入がまたその方の受け入れがこのようなものであるので、それゆえ、主は天使と人間を額で眺め、彼らは主を目を通して受け入れる。というのは、額は愛の善に対応し、目はその善からの真理に対応し、それらはこのように結合によって善の真理になるからである。けれども、真理とともに天使と人間のもとの主の流入は、彼らのもとの善の流入のようではない。というのは、火からの光のように善から流れ出る間接的なものであり、彼らにより理解力で受け入れられる真理をどれだけ行なうか〔によって〕、それだけ意志の中に〔受け入れられる〕からである。

そこで、これが天界の中また地上で受け入れる者のもとの愛と知恵の、すなわち、主からの善と真理の結婚である。

主が彼らの真理に常に善を与えていることが、どのように理解されるべきか知られるために、このアルカナ(秘義)が明らかにされた。

 

(1) 原文

381. [Vers. 16.] ” Non esurient amplius nec sitient amplius,”significat quod posthac non deficient illis bona et vera.―Per “non esurire” significatur non defectum boni habere, et per “non sitire” significatur non defectum veri; esurire enim dicitur de pane et cibo, et sitire de vino et aqua, et per “panem” et “cibum” significatur bonum, ac per “vinum” et “aquam” significatur verum; videatur supra (n. 323).

 

(2) 直訳

381. [Vers. 16.] ” Non esurient amplius nec sitient amplius,”significat quod posthac non deficient illis bona et vera.― 381(16節) 「彼らはもはや飢えない、もはや渇かない」は、この後、彼らに善と真理は不足しないことを意味する。

Per “non esurire” significatur non defectum boni habere, et per “non sitire” significatur non defectum veri; 「飢ることがない」によって、善の不足を持たないことが意味される、また「渇くことがない」によって真理の不足がない〔ことが〕意味される。

esurire enim dicitur de pane et cibo, et sitire de vino et aqua, et per “panem” et “cibum” significatur bonum, ac per “vinum” et “aquam” significatur verum; というのは、飢えることはパンと食べ物について言われるから、また渇くことはぶどう酒と水について、また「パン」と「食べ物」によって善が意味される、そして「ぶどう酒」と「水」によって真理が意味される。

videatur supra (n. 323). 上に見られる(323番)。

 

(3) 訳文

 381(16節) 「彼らはもはや飢えない、もはや渇かない」は、この後、彼らに善と真理が不足しないことを意味する。

「飢ることがない」によって、善の不足がないことが意味され、「渇くことがない」によって真理の不足がない〔ことが〕意味される。というのは、飢えることはパンと食べ物についてまた渇くことはぶどう酒と水について言われ、また「パン」と「食べ物」によって善が意味され、そして「ぶどう酒」と「水」によって真理が意味されるからである。前に見られる(323番)。

 

(1) 原文

382. Neque cadet super illos Sol neque ullus aestus,” significat quod non posthac illis concupiscentiae ad malum, neque ad falsum mali. ― “Non cadet super illos sol” significat quod non illis concupiscentiae ad malum; “neque cadet super illos ullus aestus” significat quod non illis concupiscentiae ad falsum: quod “sol” significet Divinum Amorem et inde affectiones boni, et in opposito sensu diabolicum amorem et inde concupiscentias ad malum, videatur supra (n. 53): quod autem “aestus” significet concupiscentias ad falsum mali, est quia falsum producitur ex malo, sicut aestus a sole; dum enim voluntas amat malum, intellectus amat falsum, et aestuat a concupiscentia confirmandi illud, ac confirmatum malum in intellectu est falsum mali; falsum mali est inde malum in sua forma. “Aestus” et “aestuare” similia significant in sequentibus locis:

 

“Beatus vir qui confidit in Jehovah, non videbit cum venit Aestus” (Jerem. xvii. 7, 8);

“Factus es refugium egeno ab inundatione, umbra, et Aestu; Aestum per umbram nubis reprimet” (Esaj. xxv. 4, 5);

“Cum Aestuaverint, inebriabo illos, ut dormiant somnum saeculi” (Jerem. li. 39{1});

“Omnes Aestuant sicut clibanus, non clamans inter illos ad Me” (Hosch. vii. 7);

“Non respicit viam vinearum, siccitas et Aestus rapient aquas nivis” (Hiobxxiv. 18, 19);

“Quartus Angelus effudit phialam super solem, et datum est illi adurere homines Aestu magno, et blasphemarunt Nomen Dei” (Apoc. xvi. 8, 9);

“Ad dicendum vinctis, Exite, non esurient neque sitient, non percutiet illos Aestus” (Esaj. xlix. 9, 10).

 

@1 39 pro “9”

 

(2) 直訳

382.Neque cadet super illos Sol neque ullus aestus,” significat quod non posthac illis concupiscentiae ad malum, neque ad falsum mali. ― 382 「そして彼らの上に太陽は落ちない、そしてどんな熱もない」は、この後、彼らに悪への欲望はない、そして悪の虚偽への〔欲望〕もないことを意味する。

“Non cadet super illos sol” significat quod non illis concupiscentiae ad malum; 「彼らの上に太陽は落ちない」は、彼らに悪への欲望がないことを意味する。

“neque cadet super illos ullus aestus” significat quod non illis concupiscentiae ad falsum: 「彼らの上に、どんな熱も落ちない」は、彼らに虚偽への欲望がないことを意味する。

quod “sol” significet Divinum Amorem et inde affectiones boni, et in opposito sensu diabolicum amorem et inde concupiscentias ad malum, videatur supra (n. 53): 「太陽」が神的愛をまたここから善の情愛を意味することは、また正反対の意味の中で悪魔のような愛をまたここから悪への欲望を、上に見られる(53番)。

quod autem “aestus” significet concupiscentias ad falsum mali, est quia falsum producitur ex malo, sicut aestus a sole; けれども、「熱」が悪の虚偽への欲望を意味することは、虚偽が悪から生み出されるからである、熱が太陽からのように。

dum enim voluntas amat malum, intellectus amat falsum, et aestuat a concupiscentia confirmandi illud, ac confirmatum malum in intellectu est falsum mali; というのは、意志が悪を愛する時、理解力は虚偽を愛する、またそれを確信しようとする欲望から熱くなる、そして理解力の中で確信された悪は悪の虚偽である。

falsum mali est inde malum in sua forma. 悪の虚偽は、ここからその形の中の悪である。

“Aestus” et “aestuare” similia significant in sequentibus locis: 「熱」と「熱くなること」は続く箇所の中で同様のものを意味している――

“Beatus vir qui confidit in Jehovah, non videbit cum venit Aestus” (Jerem. xvii. 7, 8); 「男は幸いだ、その者はエホバに信頼する、熱が来るときを見ない」(エレミヤ17:7, 8)。

“Factus es refugium egeno ab inundatione, umbra, et Aestu; 「あなたは乏しい者の逃げ場(避け所)である、洪水から、陰、また暑さ〔避ける〕。

Aestum per umbram nubis reprimet” (Esaj. xxv. 4, 5); 〔その方は〕熱を雲の陰によって制する」(イザヤ25:4, 5)。

“Cum Aestuaverint, inebriabo illos, ut dormiant somnum saeculi” (Jerem. li. 39{1}); 「彼らが熱くなったとき、わたしは彼らを酔わせる、永遠の眠りを眠るように」(エレミヤ51:398)。

“Omnes Aestuant sicut clibanus, non clamans inter illos ad Me” (Hosch. vii. 7); 「すべての者はかまどのように熱くなる、彼らの中にわたしを叫ぶ者はない」(ホセア7:7)。

“Non respicit viam vinearum, siccitas et Aestus rapient aquas nivis” (Hiobxxiv. 18, 19); 「彼はブドウ畑の道を眺めない、干ばつと熱が雪の水を奪う」(ヨブ記24:18, 19)。

“Quartus Angelus effudit phialam super solem, et datum est illi adurere homines Aestu magno, et blasphemarunt Nomen Dei” (Apoc. xvi. 8, 9); 「第四の天使が太陽の上に鉢を注ぎ出した、またそれ〔太陽〕は人間を大きな熱で焼くことが与えられた、また彼らは神の名前を汚した」(黙示録16:8, 9)。

“Ad dicendum vinctis, Exite, non esurient neque sitient, non percutiet illos Aestus” (Esaj. xlix. 9, 10). 「縛られた者に言う(こと)、(あなたがたは)出よ、彼らは飢えない、渇きもしない、彼らを熱は打たない」(イザヤ49:9, 10)。

 

@1 39 pro “9” 注1 「9」の代わりに 39

 

(3) 訳文

 382 「そして彼らの上に太陽は落ちない、そしてどんな熱もない」は、この後、彼らに悪への欲望はない、そして悪の虚偽への〔欲望〕もないことを意味する。

 「彼らの上に太陽は落ちない」は、彼らに悪への欲望がないことを意味する。「彼らの上に、どんな熱も落ちない」は、彼らに虚偽への欲望がないことを意味する。「太陽」が神的愛をまたここから善の情愛を、また正反対の意味の中で悪魔のような愛をまたここから悪への欲望を意味することは、前に見られる(53番)。けれども、「熱」が悪の虚偽への欲望を意味することは、熱が太陽からのように、虚偽が悪から生み出されるからである。というのは、意志が悪を愛する時、理解力は虚偽を愛し、それを確信しようとする欲望から熱くなり、そして理解力の中で確信された悪は悪の虚偽であるからである。悪の虚偽は、ここから悪の形である。

 「熱」と「熱くなること」は、続く箇所の中で同様のものを意味している――

 

 「エホバに信頼する男は幸いだ、(その者は)熱が来るときを見ない」(エレミヤ17:7, 8)。

 「あなたは。乏しい者の洪水からの避け所、また暑さ〔を避ける〕陰である。

 〔その方は〕熱を雲の陰によって制する」(イザヤ25:4, 5)。

 「彼らが熱くなったとき、わたしは彼らを永遠の眠りを眠るように酔わせる」(エレミヤ51:398)。