(3) 訳文
298(2節) 「また、私は見た、また、見よ、白い馬」は、これらの者のもとのみことばからの真理と善の理解力を意味する。
「馬」によって、みことばの理解力が、また「白い馬」によって、みことばからの真理の理解力が意味される。というのは、「白」は真理について述べられるから(167番)。
「馬」がみことばの理解力を意味することは、特定的な小著『白い馬について』の中に示されている。しかし、そこに何らかの箇所だけが引用されているので、確信のためにここに多くのものが引用される。このことは、「馬」が小羊が開いた巻き物から出て行くことが見られたこと、また「動物」が「来い、見よ」と言ったことからはっきりと明らかである。というのは、「動物」によってみことばが意味されるから(239, 275, 289番)。また「巻き物」によって同様に(256番)。また「人の子」によって、その方はここに「小羊」である、みことばに関する主が(44番)。これらから初めて、「馬」によってここにみことばの理解力以外に何らかのものが意味されないことが明らかである。
このことは「黙示録」の中の次のこれらからはっきりと明らかである――
私は開かれた天を見た、その時、見よ、白い馬を、その上に乗っている方は神のみことばと呼ばれる。また衣服(衣)の上にまたその方のももの上に書かれたご自分の名前、「王の王、また主の主」を持っている。また天の中のその方の軍勢が白い馬の上に〔乗って〕その方に従った(19:11, 13,14, 16)。
[2] 「馬」がみことばの理解力を意味することは、続く箇所からさらに明らかにすることができる――
海に対してあなたの憤りがあるのか、エホバよ、あなたの馬の上に乗っていること。あなたの救いの戦車は、海を、泥水を、あなたの馬で踏んだ(ハバクク2:8, 15)。
エホバの馬のひづめはごつごつの岩のように見なされる(イザヤ5:28)。
その日に、わたしはすべての馬を驚きで、またその騎手を狂乱で打つ。また、わたしは民のすべての馬を盲目で打つ(ゼカリヤ12:4)。
その日に、馬の鈴の上にエホバの聖なるものがある(ゼカリヤ16:20)。
神は彼女に知恵を忘れさせた、知性を分け与えもしなかったので、彼女が〕自分自身を高いところに上げる時に、〔彼女は〕馬とその騎手を笑う(ヨブ記39:17, 18)。
わたしはエルサレムから馬を取り除き、諸国民に対して平和を話す(ゼカリヤ11:10)。
あなたの叱責のために、ヤコブの神よ、戦車と馬は眠り込んだ(詩篇76:6)。
わたしは王の座をひっくり返す、そして戦車とその中の乗る者をひっくり返す。馬とその騎手は降りる(ハガイ2:22)。
わたしは、あなたによって王国を追い散らし、あなたによって馬とその騎手を追い散らす」(エレミヤ51:20, 21)。
あなたがたは、わたしのいけにえの上に集まれ。わたしの食卓の上で馬と戦車を食べ飽きよ。このように、わたしはわたしの栄光を国民の間に与える(エゼキエル39:17, 20, 21)。
あなたがたは神の大きな晩餐に集まれ。またあなたがたは馬の、またその上に座っている者の肉を食べよ(黙示録19:17, 18)。
ダンは小道の上のコブラ、馬のかかとを咬んでいる、その騎手は後ろに落ちる。あなたの救いを、私は待ち望む、エホバよ(創世記49:17, 18)。
あなたの剣を腰に帯びよ、力強い者よ。乗れ、〝真理〟のみことばの上に(馬に)乗れ(詩篇45:3, 4)。
神を歌え、雲の上に乗っている者を称賛せよ(詩篇68:4)。
見よ、雲の上に乗っているエホバを(イザヤ19:1)。
昔の天の天の上に乗っている主を演奏せよ(ほめ歌を歌え)(詩篇68:32, 33)。
神はケルブの上に乗った(詩篇18:10)。
その時、あなたはエホバの中で楽しむ、わたしはあなたを地の高いところへ乗せる(イザヤ58:14)。
主だけが彼を導いた。わたしは彼を地の高いところへ乗せる(申命記32:12, 13)。
わたしはエフライムを乗せる(ホセア10:11)。
[3] 「エフライム」もまたみことばの理解力を意味する。
エリヤとエリシャは、みことばに関する主を表象したので、それゆえ、彼らは「イスラエルの戦車とその騎手」と呼ばれた――
エリシャはエリヤに言った、「私の父、私の父、イスラエルの戦車とその騎手」(列王記2:12)。
また、王ヨアシュはエリシャへ〔言った〕、「私の父、私の父、イスラエルの戦車とその騎手」(列王記13:14)。
エホバがエリシャの少年の目を開いた、また見た。見よ、山は馬と日の戦車でエリシャのまわりに満ちて〔いた〕(列王記6:17)。
「戦車」は、みことばからの教えを、また「騎手」はここからの知恵を意味する。
同様のものが、青銅の山の間から出て来ている四つの戦車、またそれらに結び付けられている四つの馬によって、それらは赤い、黒い、白いまたまだら(毛)の〔馬〕、それらもまた四つの霊と呼ばれるまた全地の主のすぐ近くに立っている〔こと〕から出て行くことと言われることにによって意味される(ゼカリヤ6:1-8, 15)。
これらの箇所の中で「馬」によって、みことばの理解力が、またはみことばからの真理の理解力が意味される。ほかに、他の箇所の中に。
[4] このことは正反対の意味の中で名前を上げられ「馬」から、その中で誤まった推論によって虚偽化され、そしてまた失われた、みことばと真理の理解力が、なおまたプロプリウムの知性が意味されていることをさらに明らかにすることができる。例えば、続くものの中に――
わざわい〔あれ〕、助けのためにエジプトに降る者に。馬をあてにし、イスラエルの聖なる者に留意しない。なぜなら、エジプトは人間〔であり〕、神ではない、またその馬は肉〔であり〕、霊ではないからである(イザヤ31:1, 3)。
あなたはイスラエルの上にエホバが選んだ者を王として置かねばならない。ただ自分自身に馬を増やさでたはならない、馬を増やすために民をエジプトの中に戻さないように〔せよ〕(申命記17:15, 16)。
これらが、プロプリウムの(自己固有の)知性から知識と誤まった推論が意味されるので言われた、ここからみことばの真理の虚偽化〔があり〕、それがここに「馬」である。
アッシリアは私たちを救わない、馬の上に私たちは乗らない」(ホセア14:3)。
これらの者は戦車に、またそれらの者は馬に、けれども、私たちは私たちの神の名前に誇る」(詩篇20:7)。
馬は救いに偽りである(詩篇33:17)。
エホバは馬の力を喜ばない(詩篇147;10)。
イスラエルの聖なる者は言った、「信頼の中にあなたがたの力がある」。 しかし、あなたがたは言った、「いいえ、私たちは馬の上で逃げる。私たちは速いもの〔馬〕の上に乗る」(イザヤ30:15, 16)。
エホバはユダを栄光の馬のようにする。馬に乗る者は恥じる(ザカリヤ10:3, 5)。
わざわい〔あれ〕血の都に、全部に偽りが、いななく馬が、た跳び続ける戦車が満ちている。騎手が上ろうとしている」(ナホム3:1-4)。
わたしはツロに対してバビロンの王を連れて来る、馬、戦車、騎手とともに。馬の満ちることのために、あなたをそのちりで覆う。騎手と戦車の声のために、あなたの城壁は揺り動かされる。自分の馬のひづめによって、あなたのすべての街路を踏みつける(エゼキエル26:7-11)。
「ツロ」によって真理の知識(認識)に関する教会が、ここに虚偽の中のそれら〔知識(認識)〕が意味され、それらが「バビロンの馬」である。
(ほかに他の箇所の中に、例えば、イザヤ5: 26, 28、エレミヤ6:22, 23、8:16、46:4, 9、50:37, 38, 42{11}、エゼキエル17:15、23:6, 20、ハバクク1:6, 8-10、詩篇76:12)
失われたみことばの理解力もまた「赤い馬」「黒い」また「青ざめた」によって、今や、続くものの中に意味される。
「馬」がみことばからの理解力を意味するのは、霊界の中の外観からであることが小著『白い馬について』の中に見られる。