原典講読『啓示された黙示録』 134直訳[5]

[5] Pariter in his: [5] 同じく、これらの中に

 

“Scortata es cum sociis multis: 「あなたは多くの仲間と淫行した――

prophanasti terram Scortationibus tuis et malitia tua: あなたはあなたの淫行とあなたの悪意で地を汚した――

num vidisti quid fecit aversa Israel abiens super omnem montem altum et Scortabatur: あなたは見なかったか、イスラエルがすべての高い山の上へ行って背いたことを行なった、また淫行した――

etiam perfida Juda abivit et Scortata est: ユダもまた裏切って行った、また淫行した。

adeo ut a voce Scortationis suae prophanaverit terram: これほどに自分の淫行の声により地を汚した。

Moechata est cum lapide et ligno” (Jerem. iii. 1, 2, 6, 8, 9{5}; 石と木材に姦通した」(エレミヤ3:1, 2, 6, 8, 9)。

 

et alibi: また他の箇所に――

 

“Discurrite per plateas Hierosolymae, et quaerite si inveniatis virum qui sit faciens judicium et quaerens veritatem: 「エルサレムの街路を通って走りまわれ、また捜せ、もしあなたがたが男を見つけるか、その者は公正を行なっている、また〝真理〟を探している――

cum saturavi eos, Scortati sunt, et in domum Meretricis turmatim venerunt” (Jerem. v. 1, 7); わたしが彼らを満足させた、彼らは淫行をした、また娼婦の家の中に、群れをなしてやって来た」(エレミヤ5:1, 7)。

“Adulteria tua, hinnitus tuos, scelus Scortationis tuae, super collibus in agro abominationes tuas vidi: 「あなたの姦淫、あなたのいななき、あなたの淫行の罪、丘の上、畑(野)の中で、あなたの忌まわしいものを見た。

vae tibi Hierosolyma, non mundaberis” (Jerem. xiii. 27); わざわいだ、あなたに、エルサレムよ、あなたは清められない」(エレミヤ13:27)。

“In prophetis Hierosolymae vidi obfirmationem horrendam, Adulterando et eundo in mendacio” (Jerem. xxiii. 14); 「エルサレムの預言者たちの中にわたしは恐ろしい〔ほどの〕頑固さを見た、姦淫とうその中を行くこと」(エレミヤ23:14)。

“Fecerunt Stultitiam in Israele, Scortati sunt, et locuti sunt Verbum Meum in Nomine Meo mendaciter” (Jerem. xxix. 23): 「彼らはイスラエルの中で愚かさを行なった、淫行した、またわたしの名前の中でわたしのことばを偽って話した」(エレミヤ29:23)。

“Peccarunt Mihi, gloriam eorum in ignominiam convertam, Scortabantur quia Jehovam dereliquerunt: 「彼らはわたしに罪を犯した、彼らの栄光を恥辱の中にわたしは変える、彼らは淫行をした、エホバを見捨てたので――

Scortatio occupavit cor eorum Scortantur filiae vestrae, et nurus vestrae Adulterantur” (Hosch. iv. 7(, 10, 11, 13)): 淫行が彼らの心を占めた、あなたがたの娘たちは淫行をした、またあなたがたの嫁はたち姦淫をする」(ホセア4:7, 10, 11,13)。

“Ego novi Ephraimum, quod omnino Scortatus sit, et pollutus sit Israel” Hosch. v. 3): 「わたしは、エフライムを知っている、すべての点で(まったく)淫行したこと、またイスラエルは汚された」(ホセア5:3)。

“In domo Israelis vidi rem foedam, ibi Scortatus est Ephraim, et pollutus est Israel” (Hosch. vi. 10). 「イスラエルの家の中にわたしは不潔な事柄を見た、そこに、エフライムは淫行した、またイスラエルは汚された」(ホセア6:10)。

 

“Israel” ibi est Ecclesia, ac “Ephraim” est intellectu Verbi, ex quo et secundum quem est Ecclesia; 「イスラエル」はここに教会である、そして「エフライム」はみことばの理解力である、そのことから、またそれにしたがって教会がある。

quare dicitur “scortatus est Ephraim et pollutus est Israel.” それゆえ、言われる「エフライムは淫行をした、またイスラエルは汚された」。

原典講読『啓示された黙示録』 134直訳[6, 7]と訳文

[6] Quoniam Ecclesia falsificaverat Verbum, mandatum est Prophetae Hoscheae ut acciperet sibi Meretricem in uxorem, dicendo, [6] 教会は、みことばを虚偽化したので、預言者ホセアは命令された、自分自身に娼婦を妻として受け入れるように、〔主は〕言って、

 

“Accipe tibi mulierem Scortationum et liberos Scortationum, quia Scortando Scortatur terra post Jehovam” (Hosch. i. 2{6}); 「あなたに、淫行の妻を受け入れよ、また淫行の子どもを、地は淫行に(=して)淫行した、エホバの後ろに」(ホセア1:2)。

denuo: 再び――

“Ama mulierem amatam socio, et Adulteram” (Hosch. iii. 1). 「女を愛せよ、仲間に愛されている、また姦淫の女を」(ホセア3:1)。

Quoniam Ecclesia Judaica talis fuit, ideo Gens Judaica a Domino vocata est ユダヤ教会はこのようなものであったので、それゆえ、ユダヤ民族は主により呼ばれた

“Generatio Adultera” (Matth. xii. 39; cap. xvi. 4; Marc. viii. 38); 「姦淫の子孫(世代の者)」(マタイ12:39、第16章4、マルコ8:38)。

et apud Esajam, また「イザヤ(書)」のもとに、

“Semen Adulteri” (lvii{7}. 3): 「姦淫者の子孫(種)」(イザヤ57:3)――

et apud Nahum: また「ナホム(書)」のもとに――

“Vae urbi sanguinum, tota in mendacio, multitudo confossorum prae multitudine Scortationum Scorti, vendentes gentes per Scortationes suas” (iii. 1, 3, 4). 「わざわいだ、血の都、まったくのうその中に〔ある〕、娼婦の淫行の群衆にまさる刺し通された者の群衆、自分の淫行によって国民を売っている者」(3:1, 3, 4)。

 

[7] Quoniam “Babylon” prae caeteris in Christiano Orbe adulterat et falsificat Verbum, ideo illa vocatur “magna Meretrix,” et haec de illa dicuntur in Apocalypsi: [7] 「バビロン」は他の者よりもキリスト教界の中で、みことばを不純化した、また虚偽化したので、それゆえ、彼女は「大淫婦」と呼ばれる、またこれらが彼女について「黙示録」の中に言われる――

“Babylon a vino irae Scortationis suae potavit omnes gentes” (xiv. 8); 「バビロンは自分の淫行の怒りのぶどう酒からすべての国民に飲ませた」(14:8)。

“Babylon a vino furoris Scortationis suae potavit omnes gentes, et reges terrae cum illa Scortati sunt” (xviii. 3); 「バビロンは自分の淫行の激怒のぶどう酒からすべての国民に飲ませた、地の王たちは彼女と淫行した」(18:3)。

Angelus dixit, “Monstrabo tibi judicium Meretricis magnae, cum qua Scortati sunt reges terrae” (xvii. 1, 2); 天使は言った、「私はあなたに大淫婦への審判を見せる、彼女と地の王たちは淫行した」(17:1, 2)。

“Judicavit Meretricem magnam, quae corrupit terram Scortatione sua” (xix. 2). 「大淫婦を裁いた、彼女は自分の淫行で地を汚した」(19:2)。

Ex his nunc manifeste patet, quod “adulterari” et “scortari” significent adulterare et falsificare bona et vera Verbi. これらから今やはっきりと明らかである、「姦淫すること」と「淫行をすること」が、みことばの善と真理を不純化することと虚偽化することであること。

@1 quadraginta pro “70” 注1 「70」の代わりに24

@2 vestras pro “suas” 注2 「suas」の代わりにvestras

@3 6 pro “5” 注3 「5」の代わりに6

@4 15 pro “16” 注4 「16」の代わりに15

@5 1, 2, 6, 8, 9 pro “6, 8″ 注5 「6, 8」の代わりに1, 2, 6, 8, 9

@6 2 pro “7” 注6 「7」の代わりに2

@7 lvii. pro “lvi.” 注7 「lvi.」の代わりにlvii.

 

(3) 訳文

 134.「わたしのしもべたちを教え、惑わすこと、淫行をすること」は、そのことから、みことばの真理を虚偽化することが生じるを意味する――

 「主のしもべたちを教え、惑わすこと」によって、みことばからの真理を教えられることができる、また欲する者を〔そうすることが〕である。「主のしもべたち」が真理の中にいると呼ばれる者であることは前に見られる(3、128番)。また「淫行をすること」によって、みことばを不純化することと虚偽化することが意味される。このことが「淫行すること」によって意味されるのは、みことばの個々のものの中に善と真理の結婚があるからである、またこの結婚は、善が真理から分離され、取り去られるとき破られる。

 みことばの個々のものの中に主と教会の、ここから善と真理の結婚があることは『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に見られる(80-90番)。そのことから、「淫行すること」によって、善を不純化することとみことばの真理を虚偽化することが意味される。またこれが霊的な淫行であるので、それゆえ、自己の理性から、みことばを虚偽化した者は、死後もまた、霊界の中にやって来る時、淫行者になる。また、依然として世の前に隠れていること〔であるが〕、信仰のみを仁愛の働きを排除までも確信した者は、母との息子の姦淫の欲望の中にいる。これほどに恐るべき姦淫の欲望の中にいる者が、しばしば、霊界の中で知覚される。

 この〔ことを〕記憶せよ、また死後に調べよ、また、あなたは確信するであろう。以前、このことを私は明らかにすることに大胆でなかった、耳を害うからである。

 [2] この姦淫が、自分の父のめかけビルハとのルベンの姦淫によって意味される(創世記35:22)。なぜなら、「ルベン」によって、その信仰が意味されるからである。その理由で、自分の父イスラエルから呪われ、その後、彼から長子の権利は奪われた。というのは、彼の父イスラエルは、息子たちについて預言して、ルベンについて言ったから、

 

 「ルベンよ、私の長子、あなたは私の力強さ、また私の力の始まり。水のように軽く、すぐれない。あなたの父の寝床に上った、その時、汚した、私の寝椅子に上った」(創世記49:3, 4)。

 

 それゆえ、長子の権利は彼から奪われた。

 

 「ルベンはイスラエルの長子〔であった〕。しかし、自分の父の寝椅子を汚したので、彼の長子の権利はヨセフの息子たちに与えられた」(歴代誌5:1)。

 

 「ルベン」によって、善からの真理、すなわち、仁愛からの信仰が、またその後、善から分離した真理、すなわち、仁愛から分離した信仰が表象されたことは、第7章5節の説明の中に見られる(であろう)。

[3] 「淫行」によって、みことばの中の善と真理の不純化と虚偽化が意味されることは、これらの箇所から明らかにすることができる――

 

 「ヨラムがエフーを見たとき、言った、エフーよ、平和か。その者は言った、何が平和か、あなたの母イゼべルの淫行〕、また多くの魔術(加持祈祷)までも〔行われているときに」(列王記Ⅱ9:22)。

 

 「イゼべルの淫行」によって何らかの淫行が意味されなず、しかし、彼(女)の行為が〔意味され〕、それらについて前に〔見られる〕(132番)。

 

 「あなたがたの息子たちは、荒野の中で四十年、〔羊を〕飼う者になる、またあなたがたの淫行を担う」(民数記14:33)。

 「わたしは、霊媒と占い師を受け入れ、淫行へ向けて彼らの後ろに〔行く〕霊魂を取り除く」(レビ記20:6)。

「〔その〕地の住民と契約を結んではならない、彼らの神々の後ろに淫行してはならない」(出エジプト記34:15)。

 「エルサレム、あなたはあなたの美を信頼し、あなたの名声のために、あなたの淫行を通り過ぎるすべての者の上に注ぎ出すまでにも淫行した。あなたは、あなたの近隣の肉の大きなエジプト人の息子と、たあなたの淫行を増して淫行した。アッシリア人の息子と淫行した、、それらの者と淫行をしたとき、あなたに何も満ち飽きることがない。あなたの淫行をカルデヤまでも増した。姦淫の女は、自分の男の形の下に他の者を受け入れる。すべての者は自分の娼婦に報酬を与える、けれども、あなたはすべての者に報酬を与えた、あなたへやって来るために、輪の中へ、あなたの淫行の中へ――それゆえ、娼婦よ、エホバのことばを聞け」(エゼキエル16:11, 16, 26, 28, 29,32, 33, 35以降)。

 

そこの「エルサレム」はイスラエルとユダヤの教会である。彼の「淫行」によって、みことばの不純化と虚偽化が意味される。また、みことばの中の「エジプト人」によって自然的な人の知識、「アッシリア人」によってそこからの推論、「カルデヤ人」によって真理の冒涜、また「バビロン」によって善の冒涜が意味されるので、それゆえ、彼らと淫行をしたことが言われる。

[4] 一人の母の娘たち〔である〕二人の女たちがエジプトで淫行し、自分の青年期の中で淫行した。一人はわたしの下で淫行し、近くのアッシリア人の恋人を愛し、彼らの上に自分の淫行を明け渡した。それにもかかわらず、自分の淫行をエジプトの中でやめなかった。もう一人は彼女よりももっと自分の愛を汚し、また自分の淫行を姉妹の淫行の上に淫行へ加えた、カルデア人を愛した。バビロンの息子たちは彼女へ、愛の同衾(寝床)へやって来た、また彼女を自分の淫行によって汚した(エゼキエル23:2, 3, 5, 7, 8, 11, 16, 17以降)。

 

 「同じ母の二人の娘たち」もまたイスラエルとユダヤの教会であり、彼女たちのみことばの不純化と虚偽化が「淫行」によってここに前のように描かれている。

[5] 同じく、これらの中に

 

 「あなたは多くの仲間と淫行した――あなたはあなたの淫行とあなたの悪意で地を汚した――あなたは、イスラエルがすべての高い山の上へ行って背いたことを行なった、また淫行したことを見なかったか――ユダもまた裏切って行った、また淫行した。これほどに自分の淫行の声により地を汚した。石と木に姦通した」(エレミヤ3:1, 2, 6, 8, 9)。

 

 また他の箇所に――

 

 「エルサレムの街路を通って走りまわれ、あなたがたが公正を行なっている、また〝真理〟を探している男を見つけるか、捜せ――わたしが彼らを満足させたとき、彼らは淫行をし、娼婦の家の中に、群れをなしてやって来た」(エレミヤ5:1, 7)。

 「あなたの姦淫、あなたのいななき、あなたの淫行の罪を、丘の上、畑(野)の中で、あなたの忌まわしいものを見た。あなたに、わざわいだ、エルサレムよ、あなたは清められない」(エレミヤ13:27)。

 「エルサレムの預言者たちの中にわたしは恐ろしい〔ほどの〕頑固さを見た、姦淫とうその中を行くこと〔である〕」(エレミヤ23:14)。

 「彼らはイスラエルの中で愚かさを行ない、淫行した、またわたしの名前の中でわたしのことばを偽って話した」(エレミヤ29:23)。

 「彼らはわたしに罪を犯した、彼らの栄光を恥辱の中にわたしは変え、彼らは淫行をした、エホバを見捨てたので――淫行が彼らの心を占め、あなたがたの娘たちは淫行をし、あなたがたの嫁たちは姦淫をする」(ホセア4:7, 10, 11,13)。

 「わたしは、エフライム、すべての点で淫行し、イスラエルが汚されたことを知っている」(ホセア5:3)。

 「イスラエルの家の中に、わたしは不潔な事柄を見た、そこに、エフライムは淫行し、イスラエルは汚された」(ホセア6:10)。

 

ここの「イスラエル」は教会であり、そして「エフライム」はみことばの理解力である、そのことから、またそれにしたがって教会がある。それゆえ、「エフライムは淫行をし、イスラエルは汚された」と言われる。

 [6] 教会は、みことばを虚偽化したので、預言者ホセアは、自分自身に娼婦を妻として受け入れるように、〔主は〕言って、命令された、

 

 「あなたに、淫行の妻を、また淫行の子どもを受け入れよ、地はエホバの後ろに淫行に淫行した」(ホセア1:2)。

 

 再び――

 

 「仲間に愛されている姦淫の女を愛せよ」(ホセア3:1)。

 

 ユダヤ教会はこのようなものであったので、それゆえ、ユダヤ民族は主により「姦淫の世代の者」と呼ばれた(マタイ12:39、第16章4、マルコ8:38)。

 

 また「イザヤ書」に、

 

 「姦淫者のすえ」(イザヤ57:3)――

 

 また「ナホム書」に――

 

 「わざわいだ、血の都、まったくのうその中に〔ある〕、娼婦の淫行の群衆にまさる刺し通された者の群衆、自分の淫行によって国民を売っている者」(3:1, 3, 4)。

 

[7] 「バビロン」は他の者よりもキリスト教界の中で、みことばを不純化し、虚偽化したので、それゆえ、彼女は「大淫婦」と呼ばれ、またこれらが彼女について「黙示録」の中に言われている――

 

 「バビロンは自分の淫行の怒りのぶどう酒からすべての国民に飲ませた」(14:8)。

 「バビロンは自分の淫行の激怒のぶどう酒からすべての国民に飲ませ、地の王たちは彼女と淫行した」(18:3)。

 天使は言った、「私はあなたに大淫婦への審判を見せる、彼女と地の王たちは淫行した」(17:1, 2)。

「大淫婦を裁いた、彼女は自分の淫行で地を汚した」(19:2)。

 

 これらから今や、「姦淫すること」と「淫行をすること」が、みことばの善と真理を不純化することと虚偽化することであることがはっきりと明らかである。

原典講読『啓示された黙示録』 135,136

(1) 原文

135. ” Ac edene idolothyta.”―Quod significet inde conspurcationem cultus, et prophanationes, patet ab explicatis supra (n. 114); nam qui adulterant bona, appropriant sibi immunda, et per illa conspurcant et prophanant cultum.

 

(2) 直訳

135. ” Ac edene idolothyta.”― 135.「そして偶像に捧げたものを食べること」――

Quod significet inde conspurcationem cultus, et prophanationes, patet ab explicatis supra (n. 114); ここから礼拝を汚すこと、また冒涜することを意味することは、上に説明されたものから明らかである(114番)。

nam qui adulterant bona, appropriant sibi immunda, et per illa conspurcant et prophanant cultum. なぜなら、善を不純化する者は、自分自身に不潔なものを自分のものとする、またそれらによって礼拝を不潔にする、また冒涜するからである。

 

(3) 訳文

 135.「そして偶像に捧げたものを食べること」――ここから礼拝を汚すこと、また冒涜することを意味することは、前に説明されたものから明らかである(114番)。なぜなら、善を不純化する者は、自分自身に不潔なものを自分のものとする、またそれらによって礼拝を不潔にし、冒涜するからである。

 

(1) 原文

136. [Vers. 21.] ” Et dedi illi tempus ut resipisceret a scortatione sua, et non resipuit,” significat quod qui confirmarunt se in illa doctrina, non recedant, tametsi vident contraria in Verbo.―Per recedere a scortatione, hic significatur recedere a falsificando Verbum; quod videant contraria doctrinae suae, patet a mille locis in Verbo, ubi dicitur quod mala fugienda sint, et bona facienda, tum quod qui bona faciunt in Caelum veniant, et qui mala in Infernum, ut et quod fides absque operibus mortua et diabolica sit. Sed quaeritur, quid Verbi falsificaverunt, seu ubinam cum Verbo spiritualiter scortati sunt; respondetur, quod falsificaverint totum Verbum; totum enim Verbum non est nisi quam Doctrina amoris in Dominum et amoris erga proximum; nam dicit Dominus, quod

 

Ex mandatis de binis illis amoribus “Lex et Prophetae pendeant” (Matth. xxii. 40{1}).

 

Est quoque in Verbo doctrina fidei, sed non talis fidei, verum fidei amoris.

@1 40 pro “38”

 

(2) 直訳

136. [Vers. 21.] ” Et dedi illi tempus ut resipisceret a scortatione sua, et non resipuit,” significat quod qui confirmarunt se in illa doctrina, non recedant, tametsi vident contraria in Verbo.― 136.(第21節)「またわたしは彼女に、自分の淫行から悔い改めるように時間を与えた、また悔い改めなかった」は、自分自身がその教えを確信した者は、たとえ、みことばの中に反対のものを見ても、〔その淫行から〕去らないことを意味する。

Per recedere a scortatione, hic significatur recedere a falsificando Verbum; 淫行から去ることによって、ここに、みことばの虚偽化から去らないことが意味される。

quod videant contraria doctrinae suae, patet a mille locis in Verbo, ubi dicitur quod mala fugienda sint, et bona facienda, tum quod qui bona faciunt in Caelum veniant, et qui mala in Infernum, ut et quod fides absque operibus mortua et diabolica sit. 自分の教えに反対のものを見ることは、みことばの中の千の箇所から明らかである、そこに教えられている、悪を避けなければならない、また善を行なわなければならないこと、なおまた、善を行なう者は天界の中にやって来ること、また悪を〔行なう者は〕地獄の中に、そのようにまた、働きなしの信仰は死んだもの、また悪魔のものであること。

Sed quaeritur, quid Verbi falsificaverunt, seu ubinam cum Verbo spiritualiter scortati sunt; しかし、質問される、みことばの何を虚偽化したのか、すなわち、みことばに、どこに、霊的な淫行をしたのか。

respondetur, quod falsificaverint totum Verbum; 答えられる、みことば全体を虚偽化したこと。

totum enim Verbum non est nisi quam Doctrina amoris in Dominum et amoris erga proximum; というのは、みことば全体は、主への愛の、また隣人に対する愛の教え以外でないならないからである。

nam dicit Dominus, quod なぜなら、主は言うからである、こと~

Ex mandatis de binis illis amoribus “Lex et Prophetae pendeant” (Matth. xxii. 40{1}). 命令から、それら二つの愛について「律法と預言者がかかっている」(マタイ22:40)。

Est quoque in Verbo doctrina fidei, sed non talis fidei, verum fidei amoris. みことばの中に信仰の教えもまたある、しかし、このようなものは信仰のもの〔教え〕ではない、けれども、愛の信仰のもの〔教えである〕。

@1 40 pro “38” 注1 「38」の代わりに40

 

(3) 訳文

 136.(第21節)「また、わたしは彼女に、自分の淫行から悔い改めるように時間を与えた、また悔い改めなかった」は、自分自身でその教えを確信した者は、たとえ、みことばの中に反対のものを見ても、〔その淫行から〕去らないことを意味する。

 淫行から去ることによって、ここに、みことばの虚偽化から去らないことが意味される。自分の教えに反対のものを見ることは、みことばの中の千もの箇所から明らかであり、そこに、悪を避けなければならない、また善を行なわなければならないこと、なおまた、善を行なう者は天界の中に、また悪を行なう者は地獄の中にやって来ること、そのようにまた、働きなしの信仰は死んだもの、また悪魔のものであることが教えられている。

 しかし、みことばの何を虚偽化したのか、すなわち、みことばのどこに、霊的な淫行をしたのか、質問される。みことば全体を虚偽化した、と答えられる。というのは、みことば全体は、主への愛の、また隣人に対する愛の教え以外のものではないからである。なぜなら、主は、命令から、それら二つの愛について「律法と預言者がかかっている」と言われいるからである(マタイ22:40)。

みことばの中に信仰の教えもまたある、しかし、このようなものは信仰の教えではない、けれども、愛の信仰の教えである。

原典講読『啓示された黙示録』 137

(1) 原文

137. [Vers. 22.] ” Ecce Ego conjiciam illam in lectum, et moechantes cum illa in afflictionem magnam,” significat quod sic relinquendi sint in sua doctrina cum falsificationibus, et quod graviter infestandi sint a falsis.―Quod per “lectum” significetur doctrina, mox videbitur; quod per “moechantes” significentur falsificationes veri, videatur supra (n. 134, 136); et quod per “afflictionem” significetur infestatio a falsis (n. 33, 95, 101{1}); inde per “afflictionem magnam” gravis infestatio. Quod “lectus” significet doctrinam, est ex correspondentia, nam sicut corpus cubat in suo lecto, ita mens in sua doctrina: sed per “lectum” significatur doctrina quam sibi quisque vel ex Verbo vel ex propria intelligentia comparat, nam in ea mens ejus quiescit et quasi dormit. Lecti in quibus cubatur in mundo spirituali, non ex alia origine sunt; est illi cuivis lectus secundum quale ejus scientiae et intelligentiae, magnifici sapientibus, viles insipientibus, ac sordidi falsariis. [2] Hoc per “lectum” significatur apud Lucam:

 

“Dico vobis, in illa nocte erunt duo in Lecto uno: unus acceptabitur, alter relinquetur” (xvii. 34{2});

 

hoc de Ultimo Judicio; “duo in uno lecto” sunt duo in una doctrina, sed non in simili vita. Apud Johannem:

 

“Jesus dixit aegroto, Surge, tolle Lectum tuum, et ambula; et sustulit Lectum suum, et ambulavit” (v. 8-12):

 

et apud Marcum:

 

“Jesus dixit paralytico, Fili, remissa sunt tibi peccata: et dixit Scribis, Quid facilius est dicere, remissa sunt tibi peccata, an dicere, tolle tuum Lectum et ambula: tunc dixit, Surge, tolle tuum Lectum et ambula; et sustulit Lectum, et exivit ab illis” (ii. 5, 9, 11, 12);

 

quod hic per “lectum” aliquid significetur, patet, quia Jesus dixit, “Quid facilius est dicere, remissa sunt tibi peccata, an dicere tolle tuum lectum et ambula;” per “portare lectum et ambulare” significatur meditari in doctrina; ita intelligitur in Caelo. [3] Per “lectum” etiam significatur doctrina apud Amos:

 

“Sicut eripuerit pastor ex ore leonis, ita eripientur filii Israelis habitantes in Samaria in angulo Lecti et in extremitate Spondae” (iii. 12);

 

“in angulo lecti” et “in extremitate spondae,” est remotius a veris et bonis doctrinae. Per “lectum” et “spondam,” ac per “cubile,” simile significatur alibi

 

(Ut Esaj. xxvii. 20; cap. lvii. 2, 7, 8; Ezech. xxiii. 41; Amos vi. 4; Mich. ii. 1; Psalm. iv. 4; Psalm. xxvi. 4; Psalm. xli. 4 [B.A. 3]; Hiob vii. 13; Levit. xv. 4, 5).

 

Quoniam per Jacobum in Propheticis Verbi significatur Ecclesia quoad doctrinam, ideo de illo dicitur

 

Quod “incurvaverit se super caput Lecti” (Genes. xlvii. 31);

Quod cum venit Josephus, “sederit super Lecto” (Genes. xlviii. 2);

Quod “collegerit pedes super Lecto, et exspiraverit” (Genes. xlix. 33).

 

Quoniam per “Jacobum” significatur doctrina Ecclesiae, ideo aliquoties, cum de Jacobo cogitavi, apparuit mihi superius antrorsum vir cubans in lecto.

@1 101 pro “100” @2 34 pro “35, 36”

 

(2) 直訳

137. [Vers. 22.] ” Ecce Ego conjiciam illam in lectum, et moechantes cum illa in afflictionem magnam,” significat quod sic relinquendi sint in sua doctrina cum falsificationibus, et quod graviter infestandi sint a falsis.― 137.(第22節) 「見よ、わたしは彼女を寝床の中に、また彼女と姦通する者を大きな苦難の中に投げ込む」は、このようにその教えの中に虚偽化されたものとともに残る、また虚偽によりひどく攻撃されることを意味する。

Quod per “lectum” significetur doctrina, mox videbitur; 「寝床」によって、教えが意味されることは、すぐに見られる。

quod per “moechantes” significentur falsificationes veri, videatur supra (n. 134, 136); 「姦通する者」によって真理の虚偽化が意味されることは、上に見られる(134,136番)。

et quod per “afflictionem” significetur infestatio a falsis (n. 33, 95, 101{1}); また「苦難」によって虚偽からの攻撃(悩ませること)が意味されること(33, 95, 101番)。

inde per “afflictionem magnam” gravis infestatio. ここから「大きな苦難」によって、きびしい攻撃(悩ませること)。

Quod “lectus” significet doctrinam, est ex correspondentia, nam sicut corpus cubat in suo lecto, ita mens in sua doctrina: 「寝床」が教えを意味することは、対応からである、なぜなら、身体がその寝床の中に横になるように、そのように心はその教えの中に〔横になる〕からである。

sed per “lectum” significatur doctrina quam sibi quisque vel ex Verbo vel ex propria intelligentia comparat, nam in ea mens ejus quiescit et quasi dormit. しかし、「寝床」によって教えが意味される、それを自分自身にあるいはみことばから、あるいは自己の知性から得る、なぜなら、その中に彼の心は休息する、またいわば眠るからである。

Lecti in quibus cubatur in mundo spirituali, non ex alia origine sunt; 寝床は、それらの中に横になる、霊界の中で、他の起源からではない。

est illi cuivis lectus secundum quale ejus scientiae et intelligentiae, magnifici sapientibus, viles insipientibus, ac sordidi falsariis. 彼らはそれぞれに寝床がある、彼の知識と知性がどのようなものか(性質)にしたがって、りっぱなものが賢明な者に、卑しいもの(価値のないもの)が愚かな者に、そしてよごれたものが欺く者に☆。

☆ falsariisがレキシコンから確認できませんがfallo(欺く)から導かれた言葉のようです。

[2] Hoc per “lectum” significatur apud Lucam: [2] これが「寝床」によって意味される、「ルカ(福音書)」のもとに――

“Dico vobis, in illa nocte erunt duo in Lecto uno: 「わたしはあなたがたに言う、その夜の中で、二人が一つの寝床の中にいる(未来)――

unus acceptabitur, alter relinquetur” (xvii. 34{2}); 一人は受け入れられる、もう一人は残される」(17:34)。

hoc de Ultimo Judicio; これは「最後の審判」について。

“duo in uno lecto” sunt duo in una doctrina, sed non in simili vita. 「一つの寝床の中の二人」は一つの教え中の二人である、しかし、似た生活(いのち)の中に〔い〕ない。

Apud Johannem: 「ヨハネ(福音書)」のもとに――

“Jesus dixit aegroto, Surge, tolle Lectum tuum, et ambula; 「イエスは病んでいる者に言った、起き上がれ、あなたの寝床を(手に)取れ、また歩け。

et sustulit Lectum suum, et ambulavit” (v. 8-12): すると、彼は自分の寝床を取った(tollo)、また歩いた」(5:8-12)。

et apud Marcum: また、「マルコ(福音書)」のもとに――

“Jesus dixit paralytico, Fili, remissa sunt tibi peccata: 「イエスは麻痺している者(中風の者)に言った、息子よ、あなたに罪は赦された――

et dixit Scribis, Quid facilius est dicere, remissa sunt tibi peccata, an dicere, tolle tuum Lectum et ambula: また書記(律法学者)に言った、何が容易であるか、言うこと、あなたに罪は赦された、それとも言うこと、あなたの寝床を取れ、また歩け――

tunc dixit, Surge, tolle tuum Lectum et ambula; その時、言った、起き上がれ、あなたの寝床を取れ、また歩け。

et sustulit Lectum, et exivit ab illis” (ii. 5, 9, 11, 12); すると寝床を取った、また彼らから出て行った」(2:5, 9, 11, 12)。

quod hic per “lectum” aliquid significetur, patet, quia Jesus dixit, “Quid facilius est dicere, remissa sunt tibi peccata, an dicere tolle tuum lectum et ambula;” ここに「寝床」によって何らかのものが意味されることが、明らかである、イエスが言ったので、「何が容易であるか、言うこと、あなたに罪は赦された、それとも言うこと、あなたの寝床を取れ、また歩け」。

per “portare lectum et ambulare” significatur meditari in doctrina; 「寝床を運ぶことと歩くこと」によって教えの中で熟考する(瞑想する)ことが意味される。

ita intelligitur in Caelo. そのように、天界の中で理解されている。

[3] Per “lectum” etiam significatur doctrina apud Amos: [3] 「寝床」によって、教えが意味されることが、さらにまた「アモス書」のもとに――

“Sicut eripuerit pastor ex ore leonis, ita eripientur filii Israelis habitantes in Samaria in angulo Lecti et in extremitate Spondae” (iii. 12); 「羊飼いがライオンの口から救い出すように、そのようにイスラエルの子たち(民族)は救い出される、サマリアの中で、寝床の隅の中に、また寝椅子の末端の中に住んでいる者は」(3:12)。

“in angulo lecti” et “in extremitate spondae,” est remotius a veris et bonis doctrinae. 「寝床の隅の中に」また「寝椅子の末端の中に」は、教えの真理と善からさらに遠くいる〔ことである〕。

Per “lectum” et “spondam,” ac per “cubile,” simile significatur alibi 「寝床」また「寝椅子」によって、そして「寝台」によって、似たものが意味される、他の箇所に

(Ut Esaj. xxvii. 20; cap. lvii. 2, 7, 8; Ezech. xxiii. 41; Amos vi. 4; Mich. ii. 1; Psalm. iv. 4; Psalm. xxvi. 4; Psalm. xli. 4 [B.A. 3]; Hiob vii. 13; Levit. xv. 4, 5). (例えば、イザヤ27:20、第57章2, 7, 8、エゼキエル23:41、アモス6:4、ミカ2:1、詩篇4:4、詩篇26:6、詩篇41:3、ヨブ記7:13、レビ記15:4, 5)。

Quoniam per Jacobum in Propheticis Verbi significatur Ecclesia quoad doctrinam, ideo de illo dicitur みことばの預言(書)の中のヤコブによって教えに関する教会が意味されるので、それゆえ、彼について言われる

Quod “incurvaverit se super caput Lecti” (Genes. xlvii. 31); 「自分自身を腰をかがめた(お辞儀をした)こと、寝床の頭部の上に」(創世記47:31)。

Quod cum venit Josephus, “sederit super Lecto” (Genes. xlviii. 2); ヨセフがやって来たとき、「寝床の上に座った」こと(創世記48:2)。

Quod “collegerit pedes super Lecto, et exspiraverit” (Genes. xlix. 33). 「足を寝床の上で集めた☆、また息絶えた」こと(創世記49:38)。

☆ ここはヘブル原文も「集めた」です(ここの内意は「低いもの(足)へ戻った(集めた)」です)。

Quoniam per “Jacobum” significatur doctrina Ecclesiae, ideo aliquoties, cum de Jacobo cogitavi, apparuit mihi superius antrorsum vir cubans in lecto. 「ヤコブ」によって教会の教えが意味されるので、それゆえ、数回(ときどき)、私がヤコブについて考えたとき、私に、前面の上の方に、寝床の中に横になっている男が見られた。

@1 101 pro “100” 注1 「100」の代わりに101

@2 34 pro “35, 36″ 注2 「35, 36」の代わりに34

 

(3) 訳文

 137.(第22節) 「見よ、わたしは彼女を寝床の中に、また彼女と姦通する者を大きな苦難の中に投げ込む」は、このようにその教えの中に虚偽化されたものとともに残る、また虚偽によりひどく攻撃されることを意味する。

 「寝床」によって、教えが意味されることは、すぐに見られる。「姦通する者」によって真理の虚偽化が意味されることは、前に見られる(134,136番)。また「苦難」によって虚偽からの攻撃(悩ませること)が意味されること(33, 95, 101番)。ここから「大きな苦難」によって、きびしい攻撃(悩ませること)〔が意味される〕。

 「寝床」が教えを意味することは、対応からである、なぜなら、身体がその寝床の中に横になるように、そのように心はその教えの中に〔横になる〕からである。しかし、「寝床」によって、自分自身にあるいはみことばから、あるいは自己の知性から得る教えが意味される、なぜなら、その中に彼の心は休息し、いわば眠るからである。

 寝床は、それらの中に横になるが、霊界の中で、他の起源からではない。知識と知性の性質にしたがって、それぞれの者に寝床がある、りっぱなものが賢明な者に、価値のないものが愚かな者に、そしてよごれたものが欺く者にある。

[2] これが「寝床」によって意味され、「ルカ福音書」に――

 

 「わたしはあなたがたに言う、その夜に、二人が一つの寝床の中にいるであろう、一人は受け入れられ、もう一人は残される」(17:34)。

 

 これは「最後の審判」について〔である〕。「一つの寝床の中の二人」は一つの教え中の、しかし、似た生活(いのち)の中にいない二人である。

「ヨハネ福音書」に――

 

 「イエスは病んでいる者に言われた、起き上がれ、あなたの寝床を取れ、また歩け。すると、彼は自分の寝床を取った、また歩いた」(5:8-12)。

 

また、「マルコ福音書」に――

 

 「イエスは麻痺している者(中風の者)に言われた、息子よ、あなたに罪は赦された――また律法学者に言われた、何〔どちらが〕が容易か、あなたに罪は赦されたと言うこと、それとも、あなたの寝床を取れ、また歩け、と言うこと――その時、言われた、起き上がれ、あなたの寝床を取れ、また歩け。すると寝床を取り、彼らから出て行った」(2:5, 9, 11, 12)。

 

 イエスが、「何〔どちらが〕が容易か、あなたに罪は赦されたと言うこと、それとも、あなたの寝床を取れ、また歩けと言うこと」を言われたので、ここに「寝床」によって何らかのものが意味されることが明らかである。「寝床を運ぶことと歩くこと」によって教えの中で熟考する(瞑想する)ことが意味される。天界の中では、そのように理解されている。

[3] 「寝床」によって、教えが意味されることは、さらにまた「アモス書」に――

 

 「羊飼いがライオンの口から救い出すように、そのようにイスラエルの子たちは、サマリアの中で、寝床の隅の中に、また寝椅子の末端の中に住んでいる者は救い出される」(3:12)。

 

 「寝床の隅の中に」また「寝椅子の末端の中に」は、教えの真理と善からさらに遠くいる〔ことである〕。

 「寝床」や「寝椅子」によって、そして「寝台」によって、似たものが他の箇所に意味される(例えば、イザヤ27:20、第57章2, 7, 8、エゼキエル23:41、アモス6:4、ミカ2:1、詩篇4:4、詩篇26:6、詩篇41:3、ヨブ記7:13、レビ記15:4, 5)。

 

 みことばの預言の中のヤコブによって教えに関する教会が意味されるので、それゆえ、彼について、「寝床の頭部の上で、お辞儀をしたこと」(創世記47:31)。ヨセフがやって来たとき、「寝床の上に座った」こと(創世記48:2)、「足を寝床の上で集め☆、息絶えた」こと(創世記49:38)が言われる。

 

 「ヤコブ」によって教会の教えが意味されるので、それゆえ、数回(ときどき)、私がヤコブについて考えたとき、私に、前面の上の方に、寝床の中に横になっている男が見られた。

 

☆ ここはヘブル原文も「集めた」です(ここの内意は「低いもの(足)へ戻った(集めた)」です)。

 

◎136番について読者から(ミスの)指摘がありました。

「淫行から去ることによって、ここに、みことばの虚偽化から去らない★ことが意味される」としましたが、(直前の文に引きずられてnonを付けてしまいました)。ここの「去らない」は「去る」が正しいです(ご指摘、ありがとうございました)。

原典講読『啓示された黙示録』 138,139

(1) 原文

138. ” Si non resipuerit ab operibus suis.”―Quod significet si non volunt recedere a separando fidem a charitate, et a falsificando Verbum, constare potest absque ulteriore explicatione.

 

(2) 直訳

138. ” Si non resipuerit ab operibus suis.”― 138.「もし自分の行ないから悔い改めないなら」――

Quod significet si non volunt recedere a separando fidem a charitate, et a falsificando Verbum, constare potest absque ulteriore explicatione. 〔これが〕もし、信仰を仁愛から分離することから、また、みことばを虚偽化することから引き下がることを欲しないなら、を意味することは、さらなる説明なしに明らかにすることができる。

 

(3) 訳文

 138.「もし自分の行ないから悔い改めないなら」――〔これが〕もし、信仰を仁愛から分離することから、また、みことばを虚偽化することから引き下がることを欲しないなら、を意味することは、さらなる説明なしに明らかにすることができる。

 

(1) 原文

139. [Vers. 23.] ” Et filios ejus occidam mortem” significat quod omnia vera ex Verbo apud illos vertentur in falsa.―Per “filio” in Verbo significantur vera, et in opposito sensu falsa, quare “occidere filios” significat vertere vera in falsa, sic enim pereunt; per “occisos et confossos Jehovae” nec aliud intelligitur: per “occidere filios ejus morte” etiam significatur damnare falsa illorum. Quod “filii” significent vera, et in opposito sensu falsa, est quia in Sensu spirituali Verbi per Generationes intelliguntur Generationes spirituales; similiter per Consanguinitates et Affinitates; ita per nomina illarum, ut per Patrem, Matrem, Filios, Filias, Fratres, Sorores, Generos, Nurus, et reliquos; ex Generatione spirituali nec alii filii et aliae filiae nascuntur, quam vera et bona: videatur infra (n. 542, 543{1}).

@1 542, 543 pro “512, 546”

 

(2) 直訳

139. [Vers. 23.] ” Et filios ejus occidam mortem” significat quod omnia vera ex Verbo apud illos vertentur in falsa.― 139.(第23節) 「また、わたしは彼(女)の息子たちを死で殺す」は、みことばからのすべての真理は彼らのもとで虚偽に変えられることを意味する。

Per “filio” in Verbo significantur vera, et in opposito sensu falsa, quare “occidere filios” significat vertere vera in falsa, sic enim pereunt; みことばの中の「息子」によって真理が意味される、また正反対の意味で虚偽が、それゆえ「息子を殺すこと」は、真理を虚偽に変えることを意味する、というのは、このように滅びる(失われるから)。

per “occisos et confossos Jehovae” nec aliud intelligitur: 「エホバの殺害また刺し通すこと」によっても他のものが意味されない。

per “occidere filios ejus morte” etiam significatur damnare falsa illorum. 「彼(女)の息子たちを死で殺すこと」によってもまた彼らの虚偽を地獄へと断罪する(地獄へ落とす)ことが意味される。

Quod “filii” significent vera, et in opposito sensu falsa, est quia in Sensu spirituali Verbi per Generationes intelliguntur Generationes spirituales; 「息子」が真理を、また正反対の意味で虚偽を意味することは、みことばの霊的な意味の中で、世代の者(一族、子孫)によって霊的な世代の者が意味されるからである。

similiter per Consanguinitates et Affinitates; 同様に、血族関係や姻族関係によって。

ita per nomina illarum, ut per Patrem, Matrem, Filios, Filias, Fratres, Sorores, Generos, Nurus, et reliquos; そのように、それらの名前によって、例えば、父、母、息子、娘、兄弟、姉妹、むこ、嫁、また他の者。

ex Generatione spirituali nec alii filii et aliae filiae nascuntur, quam vera et bona: 霊的な世代の者(一族、子孫)からも他の息子や他の娘が生まれない、真理と善以外の――

videatur infra (n. 542, 543{1}). 下に見られる(542, 543番)。

@1 542, 543 pro “512, 546″ 注1 「512, 546」の代わりに542, 543

 

(3) 訳文

 139.(第23節) 「また、わたしは彼女の息子たちを死で殺す」は、みことばからのすべての真理は彼らのもとで虚偽に変えられることを意味する。

 みことばの中の「息子」によって真理が、また正反対の意味で虚偽が意味され、それゆえ「息子を殺すこと」は、真理を虚偽に変えることを意味する、というのは、このように滅びる。「エホバの殺害や刺し通すこと」によっても他のものが意味されない。「彼女の息子たちを死で殺すこと」によってもまた彼らの虚偽を(地獄へと)断罪することが意味される。

 「息子」が真理を、また正反対の意味で虚偽を意味することは、みことばの霊的な意味で、世代の者(一族、子孫)によって霊的な世代の者が意味されるからである。同様に、血族関係や姻族関係によって。そのように、それらの名前、例えば、父、母、息子、娘、兄弟、姉妹、むこ、嫁、また他の者によって。霊的な世代の者(一族、子孫)からも、真理と善以外の他の息子や他の娘は生まれない――下に見られる(542, 543番)。