(3) 訳文
1. 「サルデスの教会の天使に書け」は、死んだ礼拝の中に、すなわち、仁愛のものである善なしのもの、また信仰のものである真理なしのものである、礼拝の中にいる者に向けて、また彼らについてを意味する(154番)。「神の七つの霊を、また七つの星を持つ方がこれらを言う」は、すべての〝真理〟また善と真理のすべての認識のもとである主を意味する(155番)。「わたしはあなたの働きを知った」は、主は彼らの内的なものと外的なもののすべてのものを同時に見ることを意味する(156番)。「あなたは生きているという名前を持っている、〔でも〕あなたは死んでいる」は、霊的に生きていると彼ら自身からまた他の者から見られて、信じられている、そのときそれでも霊的に死んでいることを意味する(157番)。
2. 「あなたは目覚めていなさい」は、真理の中に、またそれにしたがった生活の中にいるように、を意味する(158番)。「死んでしまう〔かもしれない〕残りのものを強くせよ」は、彼らの礼拝のものがいのちを受ける、を意味する(159番)。「というのは、わたしはあなたの働きが神の前に十分でない〔ことを〕見いだしたから」は、彼らの礼拝の内なるものが主と結合していないことを意味する(160番)。
3. 「それで、どのようにあなたは受け、聞くか思い出せ」は、すべての礼拝が初めに自然的であり、またその後、真理によって〔礼拝の〕ほかに(加えて)多くのものが霊的になることを考えるように、を意味する(161番)。「また、守れ、悔い改めよ」は、それらに留意し、自分の死んでいる礼拝を生かすように〔せよ〕を意味する(162番)。
「もし、あなたが目覚めていないなら」は、ここに前のような〔もの〕を意味する(163番)。「わたしはあなたに泥棒かのようにやって来る、また、あなたは、何の時間に、わたしがあなたにやって来るか知らない」は、礼拝に属すものが取り去られること、またこれがいつ、またどのようにか知られないことを意味する(164番)。
4. 「あなたは、サルデスの中にまた、わずかな名前を持っている」は、彼らの間にもまた自分の礼拝の中にいのちを持っている者がいることを意味する(165番)。「それらは自分の衣服を汚さなかった」は、真理の中にいて、生活の悪とここからの虚偽によって礼拝を汚さなかった者を意味する(166番)。「また、わたしとともに白の衣服で歩くのに、ふさわしい者であるからである」は、主とともに生きる者を意味する、その方からの真理の中にいるからである(167番)。
5. 「勝利する者は白い衣服を着せられる」は、改心させられた者が霊的になることを意味する(168番)。「また、わたしは彼の名前をいのちの書から消さない」は、彼らは救われることを意味する(169番)。「また、わたしは彼の名前をわたしの父の前に、またその天使の前に言明する」は、主からの神的善の中に、また神的真理の中にいる者が受け入れられることを意味する(170番)。
6. 「耳を持つ者は、霊が教会に何を言うか聞け」は、ここに前のような〔もの〕を意味する(171番)。
7. 「また、フィラデルフィヤの教会の中の天使に書け」は、主による善からの真理の中にいる者へ向けて、また彼らについてを意味する(172番)。「これらを、聖なる方、真実である方が言う」は、神的真理に関する主を意味する(173番)。「ダビデの鍵を持っている方、開くとだれも閉じない、そして閉じるとだれも開けない」は、その方おひとりに救う全能〔の力〕がある、を意味する(174番)。
8. 「わたしはあなたの働きを知った」は、ここに前のような〔もの〕を意味する(175番)。「わたしはあなたの前に開かれた戸を与えた」は、主による善からの真理の中にいる者に天界が開かれることを意味する(176番)。「また、だれもそれを閉じることができない」は、地獄が彼らに対して勝たないことを意味する(177番)。「あなたはわずかな力を持っているからである」は、自分自身からでは何も力がないことを知っているからである、を意味する(178番)。「また、わたしのことばを守って」は、主のみことばの中のその方の戒めにしたがって生きるからである、を意味する(179番)。「また、わたしの名前を否定しないで」は、主の礼拝の中にいることを意味する(180番)。
9. 「見よ、わたしはサタンの会堂からの者に与える」は、教えに関して虚偽の中にいる者を意味する(181番)。
” dicentium se ipsos Judaeos esse, et non sunt, sed mentiuntur,”significat qui dicunt quod apud illos Ecclesia sit, et tamen non est [n. 182]; 「自分自身をユダヤ人そのものであることを言っている、また〔そう〕ではない、しかし、うそをついている」は、言う者を意味する、彼らのもとに教会があること、またそれでもない(182番)。「見よ、わたしは彼らがあなたの足へやって来て、崇拝するようにする」は、教えに関する虚偽の中にいる多くの者が新しい教会の真理を受けること意味する(183番)。「また、わたしがあなたを愛したことを知る」は、主により愛され、天界の中に受け入れられるのを見ることを意味する(184番)。
10. 「あなたがわたしの忍耐のことばを守ったので」は、悪に対して戦ったからである、を意味する(185番)。「また、わたしはあなたを、全世界の上にやって来て、地上の住民を試す将来の試練の時から守る」は、最後の審判の日に守られ、保護されることを意味する(186番)。
11. 「見よ、わたしはすぐに来る」は、主の来臨を意味する(187番)。「あなたが持っているものを保持せよ」は、その間、自分の真理と善の中にとどまるように、を意味する(188番)。「だれもあなたの王冠を受けないように」は、永遠の幸福のもとである知恵が滅びないように、を意味する(189番)。
12. 「勝利する者」は、善からの真理の中に存在し続ける者を意味する(190番)。「わたしはわたしの神の聖所の柱とする」は、主による善からの真理が、彼らのもとにある教会を支えることを意味する(191番)。
「また、もはや外へ出て行かない」は、そこに、永遠にとどまることを意味する(192番)。「また、わたしは彼らの上にわたしの神の名前を書く」は、彼らの心に神的真理が刻まれることを意味する(193番)。「また、わたしの神の都、新しいエルサレム」は、心に新しい教会の教えが刻まれることを意味する(194番)。「それは、わたしの神より天界から降る」は、天界の中の〔ある〕ように、主の神的真理から存在する、を意味する(195番)。「また、わたしの新しい名前」は、前の教会の中になかった新しいものとともに、主おひとりへの礼拝を意味する(196番)。
13. 「耳を持つ者は、霊が教会に何を言うか聞け」は、ここに前のような〔もの〕を意味する(197番)。
14. 「また、ラオデキヤの教会の天使に書け」は、教会の中で、交替に自分自身から、また交替にみことばから信じ、このように聖なるものを冒涜する者へ向けて、また彼らについてを意味する(198番)。
「これらを、アーメン、忠実また真実な証人が言う」は、主からの神的真理であるみことばに関する主を意味する(199番)。「神の産物の最初の方」は、みことばを意味する(200番)。
15. 「わたしはあなたの働きを知った」は、ここに前のような〔もの〕を意味する(201番)。「〔あなたは〕冷たくもなく、熱くもないこと」は、その者が、時には神的真理また聖なるものであることを否定し、時には認めるような者であることを意味する(202番)。「あなたが冷たいかまたは熱ければよいのに」は、心からみことばと教会の聖なるものを否定するかあるいは心からそれらを否定するようにすることがまさっていることを意味する(203番)。
16. 「そこで、あなたは生ぬるく、冷たくもない、熱くもないので、あなたをわたしの口から吐き出だそう」は、冒涜と主からの分離を意味する(204番)。
17. 「あなたは、私は富んでいる、また豊かになったと言う」は、天界と教会のものである善と真理の認識(知識)をまったく豊富に所有している、と自分自身に信じていることを意味する(206番)。「また必要であるものは何もない」は、さらに賢明であることは必要でないことを意味する(207番)。「〔でも〕あなたは、自分がみじめであることを知らない」は、それらについて知っているすべてのものが、すこしも密着しない(首尾一貫しない)ことを意味する(208番)。☆直訳でこの部分の訳を落してしまいました。「また哀れ、また貧しい」は、真理の理解力と善の意志がないことを意味する(209番)。☆ここは正しくは「~真理と善がないことを意味する」です。「盲目、裸」は、真理の理解力と善の意志がないことを意味する(210番)。☆この箇所は原文から落ちています。18. 「わたしはあなたにわたしから買うことを忠告する、あなたが富む者になるために火で試された金を」は、賢明になるために、主からのみことばによって自分自身に愛の善を得るように、との勧告を意味する(211番)。「また、あなたが着るために白い衣服を」は、自分自身に知恵の本物の真理を得るために、を意味する(212番)。「あなたの裸の恥が見られないように」は、天的な愛の善が冒涜され、不純化されないために、を意味する(213番)。「また、あなたが見るためにあなたの目に塗る眼の膏薬を」は、理解力がいやされるために、を意味する(214番)。
19. 「わたしはだれでも愛し、叱り、懲らしめる」は、その時、愛されているので、試練の中に入れられることしかできないことを意味する(215番)。「それゆえ、熱意をかきたてよ、悔い改めよ」は、これが真理の情愛から行なわれるために、を意味する(216番)。
20. 「見よ、わたしは戸に立ち、叩いている」は、主はみことばの中でそれぞれの者に現在され、そしてそこで、受け入れねばならないことを主張し〔ここの訳は変えたい〕、そしてどのように〔学んだらよいか〕か教えられることを意味する(217番)。「もし、だれかがわたしの声を聞き、また戸(扉)を開けるなら」は、みことばを信じ、それにしたがって生きる者を意味する(218番)。「わたしは彼のところに入り、彼とまた彼はわたしと食事をする」は、主がご自分を彼らに、また彼らをご自分に結合することを意味する(219番)。
21. 「勝利する者」は、みことばの中のその方の戒めにしたがった生活によって主との結合の中にいる者を意味する(220番)。「わたしはわたしとともにわたしの王座の中に座ることを与える」は、彼らに天界の中で主との結合があることを意味する(221番)。「わたしが勝利し、わたしが父とともにその王座の中に座るように」は、主と父が一つであり、天界であるように、を意味する(222番)。
22. 「耳を持つ者は、霊が教会に何を言うか聞け」は、ここに前のような〔もの〕を意味する(223番)。