原典講読『啓示された黙示録』 50 訳文

(3) 訳文

 50 「その方の声は多くの水のよう〔であった〕」は、自然的な神的真理を意味する――

 「声」が主からのとき、神的真理を意味することは、前に見られる(37番)。「水」が真理を、また特に、みことばからの知識である自然的な真理を意味することは、みことばの中の多くの箇所から明らかであり、それらから続く(次の)ものだけが示される――

 

 「水が海をおおうように、地はエホバの知識が満ちている」(イザヤ11:9)。

 「その時、あなたがたは、喜びとともに、救いの泉から水を汲む」(イザヤ12:3)。

 「公正の中で歩き、正直に話す者は、パンが与えられ、水が忠実〔である〕」(イザヤ33:15, 16)。

 「水を求めている貧しい者と乏しい者、しかし、〔水は〕ない。彼らの舌は渇いて衰えた。わたしは丘の上に川を開く、また谷間の真ん中に泉を、荒野を水の池の中に、また乾いた地を水の噴水の中に置く、彼らが見、認め、聞き、理解するためである」(イザヤ41:17, 18,20)。

 「わたしは渇きの上に水を注き、乾いた土地の上に流れを〔置く〕、わたしはわたしの霊を注ぐ」(イザヤ44:3)。

 「暗やみの中であなたの光が上がる、あなたがよく潤った庭園のようであるように、また水の出口のように、その水は偽らない」(イザヤ58:10, 11)。

 「二つの悪をわたしの民は行なった、わたしを、いのちの水の泉を見捨てた、〔泉の〕くぼみを自分自身に切り出した、それは水を保たない」(エレミヤ2:13)。

 「大人物は少年を水のために送った。くぼみへやって来た、水を見つけなかった、彼らの空(から)の器で帰った」(エレミヤ14:3)。

 「彼らは生きた水の泉エホバを見捨てた」(エレミヤ17:3)。

「彼らは泣くこととともにやって来る、また、泣くことへ、わたしは彼らを連れて来る、わたしは彼らをまっ直ぐな道の中で水の泉へ導く」(エレミヤ31:9)。

 「わたしはパンの杖を折る、また彼らは量られた水を、驚いて飲み、不法のために衰弱するようになる」(エゼキエル:16, 17、第12章18, 18、イザヤ51:14)。

 「見よ、日がやって来る、その日に、わたしは地の中に飢饉を送る。パンへの飢饉ではない、水への渇きでもない、しかし、エホバのみことばを聞くことへ〔の飢饉である〕。彼らは海から海へさまよい、エホバのみことばを聞くことへ走りまわる、また見つけない。その日に、乙女と若者たちは渇きで衰える」(アモス8:11-13)。

 「その日に、生きた水がエルサレムから出てくる」(ゼカリヤ14:8)。

 「エホバは私の羊飼い、私を静かな水へ導く」(詩篇23:1, 2)。

 「彼らは渇かない、〔主は〕岩から水を彼らに流れ出ることをする、また岩を、水が流れ出るように裂く」(イザヤ48:21)。

 「神よ、朝に、私はあなたを求める、私の霊魂は渇き、水なしに疲れた」(詩篇63:1)。

 「エホバは、みことばを送り、水が流れるように風が吹くことをされる」(詩篇147:18)。

 「エホバをほめたたえよ、天の天よ、また天の上からの水よ」(詩篇148:4)。

 イエスはヤコブの泉に座って、女に言われた、「この水から飲むすべての者は再び乾く。けれども、わたしが与える水から飲む者は永遠に渇かない。わたしが与える水は、彼の中で、永遠のいのちの中へわき出る水の泉となる」(ヨハネ4:7-15)。

 「イエスは言われた、もしだれかが渇いているなら、わたしに来い、飲め。だれでもわたしを信じる〔者は〕、聖書が言うように、彼の腹から生きている水の川が流れ出る」(ヨハネ7:37, 38)。

 「渇いている者は、いのちの水の泉からただで与えられる」(黙示録21:6)。

 「彼は神と小羊の王座から出て来るいのちの水の川を見せた」(黙示録22:1)。

 「霊と花嫁は言う、来い、また聞く者は言う、来い、また渇いている者はやって来る、また欲する者はいのちの水をただで受ける」(黙示録22:17)。

 

 「水」によって、これらの箇所の中で真理が意味される。ここから、「多くの水の声」によって、みことばの中の主の神的真理を意味することが明らかである、同じくこれらの箇所の中に――

 

 「見よ、イスラエルの神の栄光が東の道からやって来る、またその方の声は多くの水の声、また地はその方の栄光により照らされた」(エゼキエル43:2)。

 「私は天から、あたあかも多くの水のような声を聞いた」(黙示録14:2)。

 「水の上のエホバの声、エホバは多くの水の上に〔いる〕」(詩篇29:3)。

 

 みことばの中の「水」によって自然的な人間の中の真理が意味されることが知られるとき、イスラエル教会の中の洗うことによって何が意味されるか、そしてまた洗礼によって、そしてまた「ヨハネ福音書」の主のこれらのことばによって何が意味されるか、明らかにすることができる――

 

 「人間は水と霊から生まれないなら、神の王国の中へ入ることができない」(3:5)。

 

 「水から」は真理によってを意味し、「霊から」はそれにしたがった生活を意味する。「水」が正反対の意味の中で虚偽を意味することは、続くものの中に見られる。

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