原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (18)(直訳と訳文)

(2) 直訳(4律法と福音)

4{1}. DE LEGE ET EVANGELIO.― 4 律法と福音について――

Quod Lex a Deo data sit, ut sciatur quid peccatum, et sic ut id comminatione et metu, et dein promissione et annuntiatione gratiae, arceatur; 律法が神により与えられたこと、何が罪か知られるために、またこのようにそれが脅しと恐れのために、またその後、恩恵の約束と告知〔のために〕、抑制される。

quare praecipuum officium Legis est, ut peccatum originale et omnes fructus ejus revelentur, ac sciatur quam horrendum in modum natura hominis lapsa et funditus depravata est; それゆえ、律法の主要な役割は、原罪とそのすべての果実(産物・成果)が現わされる(示される)ために、そして知られる、人間の性質の様式(制限)の中でどれほど恐ろしい堕落、また根本から腐敗したか。

hac ratione hominem perterrefacit, humiliat, prosternit, usque ut desperet de se ipso, et anxie desideret auxilium; この論拠で人間を脅す、卑しめる、ひれ伏す(=ひれ伏せさせる)、自分自身そのものについて絶望するようにまでも、また心配(不安)で助けを願う。

hic effectus Legis vocatur Contritio, quae non est activa seu factitia, sed passiva, et conscientiae cruciatus. 律法のこの効果(結果)は痛悔と呼ばれる、それは活動的または人造のものではない、しかし、受動的、また良心の責め苦である。

Evangelium autem est tota Doctrina de Christo et de fide, et sic de remissione peccatorum, ita laetissimus nuntius non arguens et terrens, sed consolans: けれども、福音は教えの全体である、キリストについてまた信仰について、またこうして罪の赦しについて、そのように最も喜ばしい使者〔である〕、責め〔ない〕、また怖がらせない、しかし、慰める。

per Legem ira Dei revelatur super omnem impietatem, et homo damnatur, quare facit ut homo ad Christum respiciat, et ad Evangelium; 律法によって、神の怒りはすべて不敬な者の上に現わされる(啓示される)、また人間は断罪される、それゆえ、人間はキリストへ向く(留意する)ようにする(=される)、また福音へ。

praedicatio de utraque erit, quia conjuncta sunt: 両方のものについて伝道(説教)がなくてならない、結合しているからである。

Evangelium docet, quod Christus in Se susceperit omnem maledictionem Legis, et omnia peccata expiaverit, et quod remissionem per fidem consequamur. 福音は教える、キリストはご自分の中に律法のすべての呪いを、またすべての罪をあがなった(償った)こと、また赦しを信仰によって私たちは達成すること。

Quod Spiritus Sanctus non per Legis sed per Evangelii praedicationem detur et accipiatur, et cor hominis renovetur, et quod Spiritus dein ministerio Legis utatur, ut doceat et in Decalogo monstret, quae sit voluntas Dei bona et placens; 聖霊は、律法によってではなく福音の伝道によって、与えられる、また受け入られること、また人間の心を更新する、また〔聖〕霊はその後、律法の仕えること(機能)を用いる、教え、また十戒の中で示すために、それは神の善と喜ぶ意志(みこころ)である。

sic Spiritus mortificat et vivificat. このように〔聖〕霊は死なす、また生かす。

Quod discrimen faciendum sit inter opera Legis et inter opera Spiritus; 相違を行なわなければならないこと、律法の働きの間と〔聖〕霊の働きの間の。

quare fideles non sunt sub Lege sed sub Gratia, nempe illa ratione. それゆえ、忠実な者は律法の下にいない、しかし恩恵の下に、すなわち、その論拠で。

Quod justitia Legis non justificet, hoc est, non reconciliet, neque regeneret, neque per se faciat acceptos Deo, sed donato Spiritu Sancto sequitur Legis impletio: 律法の義(公正)は義としないこと、すなわち、和解させない、再生もさせない、それ自体によって神の受け入れもしない、しかし聖霊の贈り物で律法の成就が生ずる。

quod opera secundae tabulae Decalogi non justificent, quia per illam agimus cum hominibus, et non proprie cum Deo, et tamen in justificatione agendum est cum Deo. 十戒の第二の板の働きは義としないこと、それら〔十戒の働き〕によって私たちは人間とともに行なうからである、また正しく神とともにでなく、またそれでも義認の中で神とともに行なわなくてはならない。

Quod Christus, quia sine peccato subiit poenam peccati, et victima pro nobis factus est, sustulerit illud jus Legis, ne damnet credentes, quia Ille est propitiatio pro illis, propter quam justi reputantur. キリストは、罪なしに罪の罰を受けたので、また私たちのためにいけにえとなった、そのことは律法の権利を手に持った、信じる者が断罪されないように、それは彼らのための贖罪(和解)である、そのために正しい者と見なされる。

@1 4 pro “III.” 注1 「III.」の代わりに4

 

(3)訳文

4 律法と福音について――

 何が罪か知られに、またこのようにそれが脅しと恐れのために抑制され、またその後、恩恵の約束と告知のために、。律法が神により与えられた。それゆえ、律法の主要な役割は、原罪とそのすべての果実が現わされ、そして、人間の性質の様式の中でどれほど恐ろしい堕落また根本から腐敗したことが知られることである。この論拠で人間を、自分自身そのものについて絶望し、また不安で助けを願うようにまでも、脅し、卑しめ、ひれ伏せさせる。律法のこの効果は痛悔と呼ばれ、それは活動的なものまたは人造のものではない、しかし、受動的であり、良心の責め苦である。

 けれども、福音は、キリストについてまた信仰について、またこうして罪の赦しについて教えの全体であり、そのように、責めない、怖がらせない、しかし、慰める最も喜ばしい使者である。律法によって、神の怒りはすべて不敬な者に現わされ、また人間は断罪され、それゆえ、人間はキリストへ、また福音へ向くようにされる。両方のものについて伝道がなくてならない、結合しているからである。

 福音は、キリストがご自分の中で律法のすべての呪いを、またすべての罪をあがなった(償った)ことを、また信仰によって私たちが赦しを成することを教えている。

 聖霊は、律法によってではなく福音の伝道によって、与えられ、受け入られ、また人間の心を更新する、またその後、聖霊は、律法の機能を、また十戒の中で示し、教えるために用いる、それは神の善と喜ぶ意志(みこころ)である。このように聖霊は死なし、また生かす。

 律法の働きと聖霊の働きの間の相違が行なわなければならない。それゆえ、すなわち、その論拠で、忠実な者は律法の下にいない、しかし恩恵の下にいる。

 律法の義は義としない、すなわち、和解させない、再生もさせない、それ自体によって神を受け入れもしない、しかし聖霊の賜物によって律法が成就される。十戒の第二の板の働きは義としない、それら〔十戒の働き〕によって私たちは人間とともに、また正しく神とともにでなく行なうからである、またそれでも義認の中で神とともに行なわなくてはならない。

 キリストは、罪なしに罪の罰を受けた、また私たちのためにいけにえとなったので、そのことは、信じる者が断罪されないように律法の権利を手に持たれた、それは正しい者と見なされるための彼らのための贖罪(和解)である。

原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (19)(直訳と訳文)

(2) 直訳(5悔い改めと告白?)

5{1}. DE PAENITENTIA ET CONFESSIONE.― 5 悔い改めと告白について――

Quod Paenitentia constet ex duabus partibus, una quae est contritio seu terror incussus conscientiae propter peccata; 悔い改めは二つの部分から成っていること、一つは、それは痛悔、すなわち、罪のために恐怖が良心に打ち当てられる(ひき起こされる)(incutio)ことである。

altera quae est fides quae concipitur ex Evangelio, et per remissionem peccatorum consolatur conscientiam, et ex terroribus liberat. もう一つは、それは福音からみごもる(心の中で形成される)信仰である、また罪の赦しによって良心を慰める、また恐怖から解放する。

Qui confitetur totum se esse peccatum, is comprehendit omnia peccata, nullum excludit, et nullius obliviscitur; 自分自身全体が罪であることを告白する者は、彼はすべての罪を把握する、何も除外しない、また何も忘れていない。

sic purgantur peccata, homo purificatur, rectificatur, sanctificatur, quoniam Spiritus Sanctus non sinit peccatum dominari, sed reprimit et coercet. こうして罪はきよめられる(きれいにされる)、人間は浄化される、聖別される、聖霊が罪をさせておかないので、支配することを、しかし制圧する、また制止する。

Quod enumeratio peccatorum debeat esse libera, si velit aut non velit; 罪の数えること(列挙)は自由であるべきである、もし欲するまた欲しないなら。

et quod confessio et absolutio privata magnificienda sit; また個人に関する(私的な)告白と放免(救罪)が称賛されなければならない。

quare si quis vult, potest confiteri peccata, et Absolutionem a Confessionario accipere, et quod peccata tunc remissa sint; それゆえ、もしだれかが欲するなら、罪を告白することができる、また「告白者」から「放免(赦罪)」を受け取ること、また罪はその時に赦されること。

verba, quae Minister tunc responsurus est, sint, Deus tibi sit propitius, et confirmet fidem tuam, fiat tibi sicut credis, et ego ex mandato Domini remitto tibi peccata (at alii, annuntio tibi remissionem peccatorum): 一言でいえば、それは聖職者がその時、答えるもの、である、神はあなたに好意を有する(=恵み深い)、またあなたの信仰を強める、あなたに、あなたが信じるように、生じる、また私は主の命令からあなたに罪を許す(しかし、他の者たちは、私はあなたに罪の許しを告げる)。

quod tamen usque non per paenitentiam, sicut nec per opera, sed per fidem peccata remittantur. それでもなおやはり悔い改めによってではない、働きによってでもないように、しかし、信仰によって罪は赦されること。

Quare paenitentia Clericorum est modo confessio coram Deo quod peccatores sint, et oratio ut in fide perseverent. それゆえ、聖職者の悔い改めは、神の前の単なる告白であること、罪人(つみびと)とであること、また祈りは〔以下のものでしかない〕信仰の中に存続するように。

Quod expiationes et satisfactiones non sint necessariae, quia Christus est Expiatio et Satisfactio. 償い(複数)☆と贖罪(謝罪) (複数)☆は必要ではないこと、キリストが「償い」と「贖罪(謝罪)」であるからである。

☆ 複数形はさまざま具体的なもの(ここでは該当する行為)を意味します。単数形は「抽象的な概念」を意味します。なのでここではこれらの「行為」は必要でないことを意味します。ただ日本語ではこの表現は難しいです「諸~」とするところでしょうか。

@1 5 pro “IV.”  注1 「IV.」の代わりに5

 

(3) 訳文

5 悔い改めと告白について――

 悔い改めは二つの部分から成っている、一つは、それは痛悔、すなわち、罪のために良心に恐怖がひき起こされることである。もう一つは、それは福音から抱かれる信仰であり、罪の赦しによって良心を慰め、恐怖から解放する。

 自分自身全体が罪であることを告白する者は、すべての罪を把握し、何も除外せず、何も忘れていない。こうして罪はきよめられ、人間は浄化され、聖別される、聖霊が、罪が支配することをさせておかない、しかし制圧し、制止するからである。

欲するにしろ欲しないにしろ、罪を数えることは自由であるべきである。また私的な告白と放免が称賛されなければならない。それゆえ、もしだれかが欲するなら、罪を告白することが、また「告白者」から「放免」を受け取ることができ、その時、罪は赦される。一言でいえば、その時に聖職者が答えるものは、「神はあなたに恵み深い、あなたの信仰を強め、あなたが信じるようにあなたに生じる。また私は主の命令からあなたに罪を許す」である、(しかし、他の者たちは、「私はあなたに罪の許しを告げる」である)。それでもやはりなお、悔い改めによってではなく、働きによってでもないように、しかし、信仰によって罪は赦される。

 それゆえ、聖職者の悔い改めは、罪人(つみびと)とであることの神の前の単なる告白であり、また祈りは信仰の中にあり続けますように〔といったものでしかない〕。

 〔さまざまな〕償いと贖罪☆は必要ではない、キリストが「償い」と「贖罪」であるからである。

原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (20)(直訳と訳文)

(2) 直訳(6原罪)

6{1}. DE PECCATO ORIGINALI docent :― 6 原罪について、教えている――

Quod post lapsum Adami omnes homines secundum naturam propagati nascantur cum peccato, hoc est, sine metu Dei, et cum concupiscentiis, quodque hoc damnet et afferat nunc quoque mortem aeternam illis qui non renascuntur per Baptismum et per Spiritum Sanctum: アダムの堕落の後、すべての人間は繁殖の性質にしたがって罪とともに生まれたこと、すなわち、神(へ)の恐れなしに、また欲望とともに、そしてこのことは(地獄へと)断罪する、また持ってくる(加える)こと、今や、彼らに永遠の死もまた、その者は洗礼によってまた聖霊によって再生しない。

quod sit privatio originalis justitiae, et cum hac inordinata dispositio partium animae, et habitus corruptus. 原始の(始めから存在する)義の剥奪であること、また、このこととともに霊魂の部分(複数)の無秩序な配置(配列)、また汚された状態〔である〕。 

Quod sit discrimen inter ipsam naturam, in quam homo creatus est, quae etiam post lapsum est et permanet Dei Creatura, et inter peccatum originale; 性質そのものの間と、その中に人間は創造されている、それは堕落後もまた存在する、また神の被造物〔としての性質〕を持続する(にとどまる)、また原罪との間に相違があること。

ita quod sit discrimen inter corruptam naturam, et inter corruptionem quae naturae infixa est, et per quam natura est corrupta: そのように相違があること、堕落(腐敗)の性質の間と、また堕落(腐敗)の間に、それは性質に固定された(植え付けられた)、またその性質によって堕落(腐敗)された。

quod naturae corruptionem ab ipsa natura nemo nisi solus Deus separare possit; 堕落(腐敗)の性質は性質そのものから、だれも、神だけでないなら、分離することができないこと。

id quod in beata resurrectione plane fiet, quia tunc ipsa natura, quam in mundo homo circumfert, absque peccato originali, resurrectura est, ac aeterna felicitate fruitura; そのことは、祝福された復活の中で完全に生じること、その時、性質そのものは、それを世の中で人間は持ってまわる、原罪なしに、復活する(未来)、そして永遠の幸福を享受する(未来)。

quod sit discrimen sicut inter opus Dei et opus Diaboli; 神の働きと悪魔の働きの間のような相違があること。

quod peccatum hoc non eo modo naturam invaserit, quasi Satan aliquod malum substantialiter creaverit, et illud cum natura commiscuerit, sed quod justitia concreata et originalis amissa sit: この罪は、それだけの方法で性質を侵入しなかったこと、あたかもサタンが何らかの悪を実体的に創造したような、またそれを性質に混入させた、しかし、固まったまた原始の義が失われたこと。

quod peccatum originis sit accidens; 原罪は偶発的なものであること。

et quod homo ratione ejus coram Deo spiritualiter quasi mortuus sit. また、人間はその論拠で神の前に霊的に、あたかも死んでいるようであること。

Quod hoc malum per solum Christum contegatur et condonetur: この悪はキリストだけによっておおわれる、また赦されること。

quod ipsum semen, ex quo homo formatur, peccato illo contaminatum sit: 種(精子)そのものが、それから人間は形成される、その罪で汚されていること。

quod inde etiam sit, quod homo a parentibus accipiat pravas inclinationes ac internam immunditiem cordis. さらにまたここからである、人間は両親から悪い性向そして心の内なる不潔を受け取っていること。

@1 6 pro “V.” 注1 「V.」の代わりに6

 

(3) 訳文

6 原罪について、教えている――

 アダムの堕落の後、すべての人間は繁殖の性質にしたがって罪とともに、すなわち、神(へ)の恐れなしに、また欲望とともに生まれた、そしてこのことは(地獄へと)断罪し、その時、洗礼によってまた聖霊によって再生しない者に永遠の死もまた加える――原始の義の剥奪であり、このこととともに霊魂の部分(複数)の無秩序な配列と汚された状態である。 

人間が創造されている性質そのものの間と、堕落後もまた存在し、神の被造物〔としての性質〕にとどまる原罪との間に相違がある。そのように、堕落の性質の間と、また、それは性質に植え付けられた、またその性質によって堕落されたその堕落の間に相違がある。性質そのものから堕落の性質は、だれも、神だけでないなら、分離することができない。そのことは、祝福された復活の中で完全に生じ、その時、世の中で人間が持ってまわる性質そのものは、原罪なしに、復活し、そして永遠の幸福を享受する。神の働きと悪魔の働きの間のような相違がある。この罪は、あたかもサタンが何らかの悪を実体的に創造したような、その方法で性質に侵入せず、またそれを性質に混入させなかった、しかし、固まったまた原始の義が失われたのであった。原罪は偶発的なものである。人間はその論拠で神の前に霊的に、あたかも死んでいるようである。この悪はキリストだけによっておおわれ、赦される。種(精子)そのものがその罪で汚されている、人間はそれから形成される――さらにまたここから、人間は両親から悪い性向そして心の内なる不潔を受け取っている。

原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (21)(直訳と訳文)

(2) 直訳(7洗礼)

7{1}. DE BAPTISMO.― 7 洗礼について――

Quod Baptismus non sit simpliciter aqua, sed quod sit aqua Divino mandato comprehensa, et Verbo Dei obsignata, et sic sanctificata: 洗礼は単純に(単に)水ではないこと、しかし、神の命令でつかまえられた(取り入れられた)水であること、また神のみことばで封印された(印を押された)、またこのように聖別された。

quod Baptismi virtus, opus, fructus et finis sit, ut homines salventur, et in Christianam Communionem cooptentur: 洗礼の力(美徳)、働き、実(成果)また目的であること、人間が救われるように(こと)、またキリスト教徒の交際に選ばれる(選んで入れられる、com+opto)。

quod per Baptismum offeratur victoria super mortem et Diabolum, remissio peccatorum, gratia Dei, Christus cum omnibus Suis operibus, et Spiritus Sanctus cum omnibus Suis dotibus, ac aeterna beatitudo omnibus et singulis qui credunt: また洗礼によって死と悪魔(の上)に勝利を提供される(与えられる)、罪の赦し、神の恩恵、キリスト〔と〕その方のすべての働きとともに、また聖霊〔と〕そのすべての贈り物とともに、そして信じる者のすべてと個々のものに永遠の至福を。

num fides etiam per Baptismum detur infantibus, est altius quam ut sollicite inquirendum sit. 洗礼によって幼児にもまた信仰が与えられるかどうかは、さらに高いものである、心配して(悩まされて)調べなければならないような〔それ〕よりも☆。

☆ 直訳です、「これが高度な問題であっても、調べなければならないと悩むこともないだろう」⇒真剣に取り組まなくてもよいだろう、といったことでしょう。

Quod immersio in aquam significet mortificationem veteris hominis, et resurrectionem novi; 水の中へ浸ること☆は、古い人間の壊死、また新しい〔人間〕のよみがえり(復活)を意味すること。

☆ 古くはヨルダン川の水に浸ることであった洗礼は、その後、額に水をつけることへと簡略化されています。

quod ideo vocari possit lavacrum regenerationis, ac vere lavacrum in Verbo, tum in morte et sepultura Christi: それゆえ、再生の洗うこと(たらい)と呼ばれることができること、そしてみことばの中の真の洗うこと(たらい)、なおまたキリストの死と埋葬の中での。

quod Christiani vita sit quotidianus Baptismus semel sic inceptus: キリスト教徒の生活は日々の洗礼であること、一緒に、このように始められた。

quod aqua non id efficiat, sed Verbum Dei, quod in et cum aqua est, et fides Verbi Dei aquae addita; 水はそのことを引き起こさない(生じない)、しかし、神のみことばが、それは水の中に、また〔水〕とともにある、また水に付加された神のみことばへの信仰が〔引き起こす〕。

quod inde sequatur, quod Baptizatio in Nomine Dei, quidem ab hominibus fiat, sed non sit, verum ab ipso Deo: ここからいえること、神の名前の中への洗礼は、確かに人間により行なわれる、しかし、〔そう〕ではないこと、しかし、神ご自身により〔行われる〕こと。

quod Baptismus non tollat peccatum originale, exstincta prava concupiscentia, sed reatum. 洗礼は原罪を取り去らないこと、悪い欲望の消滅で、しかし罪責感(罪)を〔取り去る〕。

Alii vero ex Reformatis credunt, けれども、改革派教徒からのある者たちは信じている、

Quod Baptismus sit externum lavacrum aquae, per quod interna ablutio a peccatis significatur: 洗礼は水の外なる洗うこと(たらい)であること、それによって罪からの内的な浄化(洗い清めること)が意味される。

quod non conferat regenerationem, fidem, gratiam Dei et salutem, sed tantum significet et obsignet illa; 再生、信仰、神の恩恵と救いを与えないこと、しかし、それだけ(こんな程度に)意味する、またそれらを印章で示す(~の印を押す)こと。

et quod illa non conferantur in et cum Baptismo, sed postea increscente aetate; またそれらは洗礼の中で、また〔洗礼〕とともに与えられないこと、しかし、その後、年齢で増えて。

quodque solum electi consequantur gratiam Christi et donum fidei: そして選ばれた者だけがキリストの恩恵と信仰の賜物を続けられる(遂げる・達成する)。

et quia salus non dependet a Baptismo, quod ideo permittatur fieri ab alio in defectu ordinarii Ministri. また救いは洗礼に依存しないので、それゆえ、他の者により行なわれることが赦されている、規則正しい(正規の)聖職者の欠如(欠乏)の中で。

@1 7 pro “VI.” 注1 「VI.」の代わりに7

 

(3) 訳文

(2) 直訳(7洗礼)

7 洗礼について――

 洗礼は単に水ではない、しかし、神の命令が取り入れられた、また神のみことばで印を押された、またこのように聖別された水である。洗礼の力、働き、実と目的は、人間が救われ、キリスト教徒の交わりに選ばれることである。また洗礼によって、死と悪魔に勝利すること、罪の赦し、神の恩恵、キリストのすべての働きとともにその方が、また聖霊がそのすべての贈り物とともに、そして信じるすべてと個々の者に永遠の至福が与えられる。洗礼によって幼児にもまた信仰が与えられるかどうかは、調べなければならないほどに悩まされような〔それ〕よりもさらに高いものである。

 水の中へ浸すことは、古い人間の死、また新しい人間の復活を意味する。それゆえ、〔それは〕再生の洗うこと、そしてみことばの中の、なおまたキリストの死と埋葬の中での真の洗うことと呼ばれることができる。キリスト教徒の生活は、このように始められた洗礼と一緒に、日々の洗礼である。水はそのことを引き起こさない、しかし、水の中に、また水とともにある神のみことばが、また水に付加された神のみことばへの信仰が引き起こす。ここから、神の名前の中への洗礼は、確かに人間により行なわれる、しかし、〔そう〕ではなく、神ご自身により〔行われる〕ことがいえる。洗礼は悪い欲望の消滅によって原罪を取り去らない、しかし罪 (罪責感)を取り去る。

 

 けれども、改革派教徒のある者たちは信じている、

 

 洗礼は水の外なる洗うことであり、それによって罪からの内的な浄化が意味される。再生、信仰、神の恩恵、救いを与えない、しかし、こんな程度に意味し、またそれらに印を押す。またそれらは洗礼の中で、また洗礼とともに与えられない、しかし、その後、年齢が増して〔与えられる〕。そして選ばれた者だけにキリストの恩恵と信仰の賜物が達成される。また救いは洗礼に依存しないので、それゆえ、正規の聖職者の欠如の中で他の者により行なわれることが赦されている。

原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (22)(直訳と訳文)

(2) 直訳(8聖餐)

8{1}. DE SACRA CAENA. ― 8 聖餐について――

Reformati qui vocantur Lutherani, docent, 改革派教会の者たちは、その者はルター派の者と呼ばれる、教えている、

Quod in Sacra Caena seu Sacramento Altaris, Corpus et Sanguis Christi vere et substantialiter sint praesentia, et quod una cum Pane et Vino vere distribuantur et accipiantur; 聖餐、すなわち、祭壇の秘跡の中に、キリストの「身体と血」が真にまた実体的に現在があること、また「パンとブドウ酒」と一緒に、真に分配される、また受け入られること。

et quod ideo verum Corpus et verus Sanguis Christi in, cum, et sub Pane et Vino sint, ac Christianis ad manducandum et bibendum dentur; またそれゆえ、キリストの真の「身体」と真の「血」が、中に、とともに、また「パンとブドウ酒」の下にあること、そしてキリスト教徒に食べるように、また飲むようにと与えられること。

et quod ideo non simpliciter panis et vinum sint, sed Verbo Dei inclusa et alligata, et quod hoc faciat quod Christi Corpus et Sanguis sint; また、それゆえ、単純に(単に)パンとブドウ酒ではないこと、しかし、神のみことばに包まれたまた結び付けられた〔ものである〕、またこのことがつくっていること、キリストの「身体と血」であること。

nam cum accedit Verbum ad elementum, fit Sacramentum: なぜなら、みことばが元素(要素)へ近づくとき、秘跡になるからである。

quod tamen non sit transsubstantiatio, qualis est Pontificiis: それでも化体☆(変質)は存在しないこと、ローマカトリック(教会)のようなものである。

☆ 「化体(説)」とは「聖餐のパンとブドウ酒はキリストの肉と血に化する」という説。

quod sit cibus animae, novum hominem alens et fortificans: 霊魂の食べ物であること、新しい人間を育てる、また強くする。

quod instituta sit, ut fides vires suas reparet atque recipiat, detur remissio peccatorum, et nova vita, quam Christus nobis meruit: 制定されたこと、信仰がその力を回復するために、そして受け取る、罪の赦しが与えられる、また新しいいのち、それをキリストが私たちになし遂げた。

quod sic Corpus et Sanguis Christi non tantum spiritualiter per fidem, sed etiam ore, supernaturali modo, ratione sacramentalis unionis cum Pane et Vino, sumantur: このようにキリストの「身体と血」はそれだけ霊的に信仰によってでなく、しかし口で(によって)、超自然的な方法で、「パンとブドウ酒」と秘跡的な結合の論拠で取られる(用いられる)こと。

quod dignitas istius Caenae consistat in sola obedientia, et in Christi merito, quod vera fide applicatur:  その正餐(聖餐)の尊厳はただ従順(服従)だけの中にあること、またキリストの功績の中に、それは真の信仰に適用される。

verbo, quod Sacramenta, Caena Domini et Baptismus, sint testimonia voluntatis et gratiae Dei erga homines; 一言でいえば、秘跡は、主の正餐(聖餐)と洗礼は、人間に対する神の意志(みこころ)と恩恵の証拠であること。

et quod Sacramentum Caenae sit promissio remissionis peccatorum per fidem; また正餐(聖餐)の秘跡は信仰☆によって(通して)の罪の赦しの約束であること。

☆ 原文ではfidemのfが落ちてしまいました。

quod moveat corda ad credendum; 心を信じること(動形容詞)☆へ動かすこと。

☆ 動形容詞は未来受動分詞とも言います。(その行為が)「行われようとしている・行なわれるべきである」をとの意味します。

et quod Spiritus Sanctus per Verbum et Sacramenta operetur: また、聖霊はみことばと秘跡を通して働くこと。

quod consecratio Ministri illa non producat, sed quod soli omnipotenti virtuti Domini id tribuendum sit: 聖職者の聖別することがそれらを生み出すのではないこと、しかし、それは主の全能の力(美徳)だけに帰されれなければならないこと。

quod tam digni quam indigni verum Corpus et verum Sanguinem Christi, sicut super cruce pependit, accipiant, sed digni ad salutem, indigni ad condemnationem; ふさわしい者もふさわしくない者もキリストの真の「身体」と真の「血」を、十字架の上にぶら下がるように、受ける、しかし、ふさわしい者は救いへ、ふさわしくない者は断罪へ向けて〔受ける〕こと。

quod digni sint qui fidem habent; ふさわしい者であること、その者は信仰を持っている。

quod nemo ad Caenam illam adigendus sit, sed quisque cum spiritualis fames urget, accedat. だれもその聖餐へ追い立ててはならない(強制してはならない)、しかし、だれでも霊的な飢えが追い立てるとき、近づく。

[2] Alii vero Reformati docent, [2] けれども、改革派教会の者の他の者たちは教えている、

Quod in Sacra Caena Corpus et Sanguis Christi tantum spiritualiter sumantur, et quod Panis et Vinum ibi sint modo signa, typi, symbola, tesserae, figurae et similitudines; 聖餐の中でキリストの「身体と血」はそれだけ霊的に取られる(用いられる)こと、またそこにある「パンとブドウ酒」は単なる目じるし、象徴(型)、象徴、しるし、形(外観)と肖像(=映像)であること。

quod Christus non corpore praesens sit, sed solum virtute et operatione ex Divina Sua essentia at quod in Caelo sit conjunctio secundum communicationem idiomatum: キリストは身体で現在しないこと、しかし、ご自分の神的な本質からの力(美徳)と働きの中にだけ〔現在する〕こと、しかし、天界の中で伝達手段の語法☆にしたがって結合がある。

☆ ここは「語法」(聖餐で唱えられる何らかの特別な言葉の用い方でしょう)ですが、より一般的に「特性・属性」と意訳してよいでしょう。

quod dignitas hujus Caenae non modo a fide, sed etiam a praeparatione pendeat: この正餐(聖餐)の尊厳は信仰にだけでなく、しかし悔い改めにもまたよる(依存する・~次第である)こと。

quod solum digni virtutem ejus accipiant, at indigni modo panem et vinum. ふさわしい者だけがその力(美徳)を受けること、しかし、ふさわしくない者は単にパンとブドウ酒を〔受ける〕。

Tametsi hi dissensus sunt, usque conveniunt omnes Reformati in eo, たとえこれらが不一致(意見の相違)があっても、それでもすべての改革派教会の者はそのこと(=次のこと)の中で一致する、

Quod omnino Paenitentiam acturi sint, qui digne volunt Sanctam illam Caenam obire; すべての点で(確かに)悔い改めが行なわれなければならないこと、その者はふさわしく、その聖餐に入ることを欲する。

Lutherani,  ルター派の者は、

Quod nisi paenitentiam ab operibus malis egerint, et usque accedant, in aeternum damnati sint; もし悪の働きからの悔い改めをもたらさない、またそれでも近づくなら、永遠に断罪されること。

et Angli, またイギリス人たちは、

Quod alioquin diabolus in illos intraturus sit sicut in Judam; そうでなければ、悪魔が彼らの中に入るであろうこと、ユダの中にのように。

hoc constat ex Orationibus praelectis ante Communionem. このことは交際(聖餐)の前に朗唱される祈り☆から明らかである。

☆ 『新しいエルサレムのための生活の教え』の5番(英文)と6番にあります。

@1 8 pro “VII.” 注1 「VII.」の代わりに8

 

(3) 訳文

8 聖餐について――

ルター派と呼ばれる改革派教会の者は、教えている、

 

 聖餐、すなわち、祭壇の秘跡の中に、キリストの「身体と血」が真にまた実体的に現在し、「パンとブドウ酒」と一緒に、真に分配され、受け入られる。それゆえ、キリストの真の「身体」と真の「血」が、「パンとブドウ酒」の中に、ともに、また〔またその姿の〕下にあり、そしてキリスト教徒に食べるように、また飲むようにと与えられる。それゆえ、単にパンとブドウ酒ではなく、しかし、神のみことばに包まれ、結び付けられたものであり、このことが、キリストの「身体と血」であることをつくっている。なぜなら、みことばがその要素へ近づくとき、秘跡になるからである。それでもローマカトリック教会のような化体☆1は存在しない。霊魂の食べ物であり、新しい人間を育て、強くする。信仰がその力を回復し、罪の赦しが与えられ、新しいいのちを受け取るために制定され、それをキリストが私たちになし遂げた。このようにキリストの「身体と血」はそれだけ霊的に信仰によってでなく、しかし口によって、超自然的な方法で、「パンとブドウ酒」と秘跡的な結合を論拠として取られる。その聖餐の尊厳はただ従順だけの中に、またキリストの功績の中にありと、それは真の信仰に適用される。一言でいえば、主の聖餐と洗礼の秘跡は、人間に対する神の意志(みこころ)と恩恵の証拠である。また聖餐の秘跡は、信仰を通しての罪の赦しの約束であり、心を信じることへ動かす。また、聖霊はみことばと秘跡を通して働く。

聖職者が聖別することがそれらを生み出すのではない、しかし、それは主の全能の力(美徳)だけに帰されれなければならない。ふさわしい者もふさわしくない者もキリストの真の「身体」と真の「血」を、十字架の上にぶら下がるように、受ける、しかし、ふさわしい者は救いへ、ふさわしくない者は断罪へ向けて受ける。信仰を持っている者がふさわしい者である。

だれもその聖餐を強制してはならない、しかし、だれでも霊的な飢えに追い立てるとき、近づいてよい。

 

 [2] けれども、改革派教会の者の他の者たちは教えている、

 

 聖餐の中でキリストの「身体と血」はそれだけ霊的に取られる、またそこにある「パンとブドウ酒」は単なる目じるし、型、象徴、しるし、形と映像である。キリストは身体的な現在しない、しかし、ご自分の神的な本質からの力(美徳)と働きの中にだけ現在する、しかし、天界の中で伝達手段の特性にしたがって結合がある。この聖餐の尊厳は信仰にだけでなく、しかし悔い改めにもまたよる。ふさわしい者だけがその力(美徳)を受け、ふさわしくない者は単にパンとブドウ酒を受ける。

 

 たとえこれらが不一致であっても、それでもすべての改革派教会の者は次のことで一致している、

その聖餐に入ることを欲するにふさわしい者は、確かに悔い改めが行なわれなければならないことである

ルター派の者は、もし悪の働きからの悔い改めをしないで、それでも近づくなら、永遠に断罪される。

 またイギリス人たちは、そうでなければ、悪魔がユダの中へのように彼らの中へ入るであろう。このことは聖餐の前に唱えられる祈り☆2から明らかである。

 

☆1 「化体」とは「聖餐のパンとブドウ酒はキリストの肉と血に化する」ことである。

☆2 『新しいエルサレムのための生活の教え』の5番(英文)と6番にある。