原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (4)

(2) 直訳(4 悔い改め)

4. DE PAENITENTIA.― 4 悔い改めについて――

Quod praeter Baptismum sit Sacramentum Paenitentiae, quo lapsis post Baptismum beneficium mortis et meriti Christi applicatur, quare vocatur laboriosus quidam Baptismus. 洗礼のほかに(加えて)悔い改めの秘跡がある、それによって洗礼の後、キリストの死と功績の恩恵が適用される、それゆえ、ある種の勤勉な(精励刻苦な)洗礼と呼ばれること。

Quod partes Paenitentiae sint Contritio, Confessio, et Satisfactio. 悔い改めの部分は「痛悔」、「告白」、また「贖罪」であること。

Quod Contritio sit donum Dei, et impulsus Spiritus Sancti non adhuc inhabitantis, sed tantum moventis, ita quod sit dispositio. 「痛悔」は、神の贈り物(賜物)であること、また今まで住んでいない聖霊の打撃、しかし、こんな程度に〔心を〕動かせて(奮起させて)、そのように(したがって)それは〔心の〕配置(調整)である。

Quod Confessio debeat esse omnium mortalium peccatorum, etiam occultissimorum, ac intentionum: 「告白」は、罪のすべての死すべきものにあるべきである(なくてはならない)こと、さらにまた最も隠されたものに、そして意図のものに。

quod peccata quae retinentur non remittantur, at quod illa quae post scrutationem non occurrunt, inclusa sint Confessioni: 罪は、それはしまっておかれる(保持される)、赦されないこと、しかし、それは注意深い研究(熟読)の後に〔心に〕出てこない、「告白」に含まれる。

quod fieri debeat ad minimum semel in anno: 少なくとも年に一度行なわれるべきであること。

quod peccata absolvenda sint a clavium Ministris, et quod remittantur cum dicunt, “Ego absolvo;“‘ 罪は「鍵」☆の聖職者により放免(赦免)されなければならないこと、また「私は赦免する☆」というとき、赦されること。

☆「鍵」が何を意味するかわかりませんが「教皇から権限を与えられた」ということでしょう。教皇には「天の御国のかぎ」が与えたとされるからです(マタイ16:19)。

☆ 原文でabsolveとしましたがabsolvoの間違いでした。

quod Absolutio sit sicut actus judicis, cum sententia pronuntiatur: 赦免は裁判官の行為のようであること、判決が発音される(述べられる)ときの。

quod graviora peccata absolvenda sint ab Episcopis, et adhuc graviora a Pontifice. さらに重い罪は司教により放免(赦免)されなければならないこと、またさらに、さらに重いものは教皇により。

Satisfactio, quod fiat per poenas satisfactorias a Ministro ex arbitrio pro mensura delicti imponendas: 「贖罪」は、罪の贖罪(賠償行為)により生じる、聖職者により意のままに(自由裁量によって)計られたものとして過失(落ち度)の課せられたもの。

quod cum Poena aeterna etiam Poena temporalis remittatur. また永遠の罰とともに一時の(この世の)罪もまた赦されること。

Quod Indulgentiarum potestas a Christo relicta sit Ecclesiae, et quod usus illarum maxime salutaris sit. キリストによる罪の「免償」は教会に残されている(relinquo)こと、またそれらの利用は最大に(最も)救いのもの(手段)であること。

 

(3) 訳文

 4 悔い改めについて――

 洗礼に加えて悔い改めの秘跡がある、それによって洗礼の後、キリストの死と功績の恩恵が適用され、それゆえ、ある種の精励刻苦な洗礼と呼ばれる。

 悔い改めは、「痛悔」、「告白」、「贖罪」からなる。

 「痛悔」は、神の賜物であり、今まで心に住んでいなかったこれほどに〔心を〕動かせる聖霊の打撃であり、したがってそれは〔心の〕調整である。

 「告白」は、罪のすべての死すべきものに、さらにまた最も隠されたものに、そして意図のものにあるべきである。しまっておかれる罪は赦されない、しかし、それは熟慮の後に〔心に〕出てこない「告白」に含まれる。〔これは〕少なくとも年に一度行なわれるべきである。罪は「鍵」☆の聖職者により赦免されなければならないこと、また「私は赦免する」というとき、赦される。赦免は、判決が述べられるときの裁判官の行為のようである。さらに重い罪は司教により、またさらに、さらに重いものは教皇により赦免されなければならない。

 「贖罪」は、聖職者により自由裁量によって)過失として計られ課せられた罪の賠償行為により生じる。また永遠の罰とともに一時の(この世の)罪もまた赦される。

 キリストによる罪の「免償」は教会に残されており、それらの利用は救いの手段の最大のものである。

 

☆「鍵」が何を意味するかわかりませんが「教皇から権限を与えられた」ということでしょう。教皇には「天の御国のかぎ」が与えたとされるからです(マタイ16:19)。

原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (5)

(2) 直訳(5義認 )

5. DE JUSTIFICATIONE.― 5 義認について――

Quod translatio ab eo statu in quo homo nascitur filius Adami in statum gratiae per secundum Adamum Salvatorem, sine Lavacro regenerationis et fidei, seu Baptismo, non fiat. その状態からの移動は、その中に人間はアダムの子に生まれている、恵みの状態の中に、救い主の第二のアダムを通して、再生と信仰の洗うことなしに、すなわち、洗礼、生じないこと。

Quod exordium justificationis secundum sit a gratia praeveniente, quae est Vocatio, cum qua homo cooperatur convertendo semet. 義認の第二の始まりは先行する恵みからであること、それは「呼ぶこと(神のお召し)」である、それに人間は自分自身を回心させて協力する。

Quod dispositio fiat per Fidem, cum credit vera esse quae revelata sunt, ad quam libere movetur: 配置(調節)は「信仰」によって生じる、啓示されたものが真理であることを信じるとき、それへ自由に〔心を〕動かされること。

tum per Spem, dum credit quod Deus propter Christum propitius sit: なおまた「希望」によって、神がキリストのために(ゆえに)なだめた(和解した)ことを信じる時。

et per Charitatem, qua incipit proximum diligere, et odio habere peccatum. また「仁愛」によって、それによって隣人を愛することを、また罪に憎しみを持つことを始める。

Quod Justificatio, quae sequitur, non solum sit peccatorum remissio, sed sanctificatio et interioris hominis renovatio; 義認は、それは~がいえる、罪の赦しだけでなく、しかし聖別と内的な人間の更新であること。

quod tunc non reputentur justi, sed quod sint justi, justitiam in se recipientes; その時、正しい者と見なされない、しかし、正しい者であること、義(公正)を自分自身の中に受け入れている者。

et quia accipiunt meritum passionis Christi, quod ita inseratur Justificatio per Fidem, Spem et Charitatem. またキリストの受難の功績を受け取るので、そのように義認が挿入される(植え付けられる)こと、信仰、希望、また仁愛によって。

[2] Quod Fides sit humanae salutis initium, fundamentum et radix Justificationis, et quod hoc sit per fidem justificari: [2] 信仰は人間の救いの始まりであること、義認の土台(基礎)と根(根源)、またこれが信仰によって義認される(義とされる)ことである。

et quia nihil eorum quae Justificationem praecedunt, sive fides sive opera, justificationis gratiam promerentur, quod hoc sit justificari gratis, est enim gratia praeveniens: また、それらの何も、それらは義認に先行する、あるいは信仰あるいは働き〔であれ〕、義認の恵みに値しない(功績を得ない)、これはだだで(無料で)義認される(義とされる)ものである、というのは、先行する恵みであるから。

et quod usque homo ex operibus justificetur, et non ex fide tantum: また、人間は働きから義認される(義とされる)こと、また信仰からこんな程度にでなく。

quod justi in levia et venialia peccata cadant, et quod usque sint justi: 正しい者は、軽い(小さい)また容赦してよい罪に落ち込むこと、またそれでも正しい者であること。

et quod justi ideo continue laborare debeant per orationes, oblationes, eleemosynas, jejunia, ne cadant, quia renati sunt in spem gloriae, et non in gloriam. また、正しい者は、それゆえ、絶えず精一杯努力しなければならない(すべきである)、祈り、奉献、施し、断食によって、落ち込まないように、栄光の希望の中に更新されているからである、また栄光の中にでない。

Quod Justi, si exciderint justificationis gratia, rursus justificari possint per Paenitentiae sacramentum: 正しい者は、もし義認の恵みをなくす(すべり落ちる)なら、再び悔い改めの秘跡によって義認される(義とされる)ことができること。

quod per quodlibet mortale peccatum amittatur gratia, sed non fides; どんなものでも☆死ぬべき罪によって恵みは失われる、しかし、信仰〔よってでは〕ない。

☆ 原文でquodとlibetの間にスペースが入ってしまいました(訂正します)。

at quod per infidelitatem, quae est recessio a Religione, etiam fides. しかし、信仰もまた、無信仰によって、それは宗教からの離脱である。

Quod Opera hominis justificati sint merita, et quod justificati per illa, quae ab illis per Dei gratiam et meritum Christi fiunt, promereantur vitam aeternam. 義認された(義とされた)人間の働きは功績であること、また義認された(義とされた)者は、それによって、それは彼らにより神の恵みとキリストの功績を通して、行なわれる、永遠のいのちを値する(功績を得る)こと。

Quod Liberum Arbitrium post Adami peccatum non amissum et exstinctum sit, et quod homo cooperetur assentiendo vocanti Deo, et quod alioquin foret inanimatum corpus. 「選択の自由(自由選択の力)」はアダムの罪の後、失われない、また消滅されないこと、また人間は神の呼び出す(招く)ことに同意して協力すること、またそうでなければ生命のない身体になること。

Praedestinationem statuunt, dicendo quod nemo sciat num sit in numero praedestinatorum, et inter illos quos Deus Sibi elegerat, nisi ex speciali revelatione. 「予定説」を定めている、言って、だれも知らないこと、予定の数の中にいるかどうか、また彼らの間に、その者を神がご自身に選んだ、特別な啓示からでないなら。

 

(3) 訳文

 5 義認について――

人間はアダムの子に生まれているその状態から、救い主の第二のアダムを通して、恵みの状態の中への移動は、再生と信仰の洗うこと、すなわち、洗礼なしに生じない。

 義認の第二の始まりは「神のお召し」である先行する恵みからである、それに人間は自分自身を回心させて協力する。

 調節は啓示されたものが真理であると信じるとき「信仰」によって生じ、それへ自由に〔心を〕動かされる。なおまた、神がキリストゆえに和解されたことを信じる時、「希望」によって〔生じる〕。また「仁愛」によって生じ、それによって隣人を愛すること、また罪に憎むことを始める。

 義認は、罪の赦しだけでなく、聖別と内的な人間の更新であるといえる。その時、正しい者と見なされない、しかし、正しい者、義を自分自身の中に受け入れている者である。またキリストの受難の功績を受け取るので、そのように義認が、信仰、希望、仁愛によって挿入される。

 [2] 信仰は人間の救い、義認の基礎や根源の始まりであり、これが信仰によって義とされることである。また、義認に先行する信仰あるいは働きは、それらの何も義認の恵みに値しない、これは無償で義とされるものである、というのは、先行する恵みであるから。また、人間は働きから義とされ、信仰からはそれほどでもない。正しい者は、軽くまた容赦される罪に落ち込む、それでも正しい者である。また、正しい者は、それゆえ、落ち込まないように、祈り、奉献、施し、断食によって、絶えず努力しなければならない、栄光の中にではなく、栄光への希望の中に更新されているからである。

 正しい者は、もし義認の恵みをなくすなら、再び悔い改めの秘跡によって義とされることができる。死ぬべき罪のどんなものによっても恵みは失われる、しかし、信仰〔よってでは〕ない。しかし、信仰もまた、宗教からの離脱である無信仰によって失われる。

 義とされた人間の働きは功績であり、また義とされた者は、彼らにより神の恵みとキリストの功績を通して行なわれるものによって、永遠のいのちに値する。

 「選択の自由(自由選択の力)」はアダムの罪の後、失われず、消滅しない、また人間は神の招きに同意して協力する、またそうでなければ生命のない身体になる。

特別な啓示からでないなら、神がご自身に選んだ者の間に、予定の数の中に入っているかどうか、だれも知らないと言って、「予定説」を定めている。

原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (6)

(2) 直訳(6煉獄)

6. DE PURGATORIO.― 6 煉獄について――

Quod per Justificationem non deleatur omnis reatus poenae temporalis exsolvendae; 義認によって解かれなければならない一時の(この世の)すべての罪の有罪が消されないこと。

quod ideo omnes in Purgatorium veniant ut exsolvantur, antequam in Caelum patet aditus. それゆえ、すべての者は解かれるために煉獄にやって来ること、天界の中へ入り口(入場)が開かれる前に。

Quod Animae ibi detentae fidelium suffragiis juventur et praecipue per sacrificium Missae; そこに抑留された霊魂は、忠実な者の票決(投票)☆で助けられること、また特にミサのいけにえによって。

☆ suffragiumは「投票・票決」の意味ですが、「賛成」票を投ずることから、「賛成・同意・支持」の意味が派生しています。

et quod hoc diligenter docendum et praedicandum sit. またこのことは勤勉(熱心に)教えられなければならない、また説教されなければならないこと。

Tormina ibi describuntur varie, sed sunt inventa, in se figmenta. 腹痛(=拷問)がそこに様々に描かれている、しかし、捏造(でっちあげ・こしらえ事)である☆、本質的に作り事(虚構)。

☆ (もちろん)この最後の文は著者(スヴェーデンボリ)のコメントです。

 

(3) 訳文

 6 煉獄について――

 解かれなければならない一時の(この世の)すべての罪の有罪性は義認によって消されない。それゆえ、すべての者は、天界の中へ入り口が開かれる前に、解かれるために煉獄にやって来る。

 そこに抑留された霊魂は、忠実な者の票決(同意)で、また特にミサのいけにえによって助けられる。またこのことは熱心に教えられ、説教されなければならない。

 さまざまな拷問がそこに描かれている、しかし、でっちあげであり、本質的に作り事である☆。

 

☆ (もちろん)これは著者(スヴェーデンボリ)のコメントです。

原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (7)

(2) 直訳(7七つの秘跡)

7. DE SEPTEM SACRAMENTIS.― 7 七つの秘跡(礼典)について――

Quod Sacramenta septem sint, Baptismus, Confirmatio, Eucharistia, Paenitentia, Extrema Unctio, Ordo et Matrimonium: 七つの秘跡があること、洗礼、堅信、聖体、悔い改め、最期の聖油を注ぐこと(=終油)、聖職、また結婚――

quod non plura nec pauciora sint: 多くのものでも、さらに少しのものでもないこと。

quod unum altero dignius sit: あるものは他のものにさらに価値があること。

quod contineant gratiam; 恵みを含むこと。

et quod ex Opere operato per illa conferatur gratia: それらを通して働く働きから恵みが与えられること。

quod totidem fuerint Sacramenta Antiquae Legis. 同じ数の秘跡が古代の律法にあった。

De Baptismo, Confirmatione, Eucharistia, et Paenitentia, supra actum est. 洗礼、堅信、聖体、また悔い改めについて、上に扱われた。

De Sacramento Extremae Unctionis: 最期の聖油を注ぐこと(=終油)の秘跡について――

quod sit ex Jacobo, v. 14, 15:  「ヤコブの手紙」5:14, 15からであること。

quod fiat aegrotis circa finem vitae, unde vocatur Sacramentum Exeuntium: いのちの終わりの近くの病気〔の者〕に行なわれること、そこから「立ち去ること(旅立ち)の秘跡」と呼ばれる。

quod si convaluerint, possit iterum applicari: もし、病気が治るなら、再び適用されることができること。

quod fiat per oleum ab Episcopo benedictum, et per haec verba, “Indulgeat tibi Deus quicquid oculorum, sive narium, sive tactus vitio deliquisti.” 司教により祝福された油によって行なわれること、またこれらのことばによって、「神はあなたにほしいままにする(未来)、何でも、目の、あるいは鼻の、あるいは触覚の違反した欠点を」。

De Sacramento Ordinis: 聖職の秘跡について――

quod septem Ordines sint in Ministerio Sacerdotii, qui differunt dignitate, et vocantur simul Hierarchia Ecclesiastica, quae est sicut castrorum acies ordinata: 七つの階級が聖職者の職能の中にあること、それらは地位(尊厳)で異なっている、また、一緒に(総合的な視野から)教会組織(聖職者)の位階制と呼ばれる、それは刃で正規の陣営のようである。

quod inaugurationes in Ministerium fiant per unctiones, et per translationes Spiritus Sancti in illos. 聖職者の職務の中への叙階は聖油を注ぐことによって行なわれること、またそれらの中への聖霊の移動によって。

Quod ad ordinationes Episcoporum et Sacerdotum non requiratur saecularis potestas, aut Magistratus consensus aut vocatio aut auctoritas; 司教や祭司へ整えることは世俗の権力(権限)は要求されない(必要とされない)こと、または行政長官の同意(承諾)または召喚または権威者。

quod qui ab illis vocatione instituti ad ministerium tantummodo ascendunt, non sint ministri, sed fures et latrones, qui per ostium non ingrediuntur. 彼らにより制定された召喚からもっぱら(だけで)聖職者の職務へのぼる者は、聖職者ではない、しかし、泥棒や強盗〔である〕こと、その者は扉(入り口)を通って入らない。

De Sacramento Matrimonii: 結婚の秘跡について――

quod dispensatio graduum et divortiorum sit Ecclesiae: 〔血族関係の?☆〕段階(等級)と離婚の特免は教会のものであること。

☆ よくわかりませんが、たとえば「養子とする」ことなどでしょうか。

quod Clerici non contrahent matrimonium: 聖職者は結婚を結ばない(未来)こと。

quod omnes illi possint habere castitatis donum, et si quis dicit se non posse, cum tamen voverat, sit anathema, quia Deus id rite petentibus non denegat, et non patitur aliquem supra id quod potest tentari. すべての者は、彼らは貞潔の贈り物を持つことができること、またもしだれかが自分自身にできないことを言うなら、そのときそれでもなお誓う、〔その者は〕呪いである、神はそれを正しく求める者に拒絶しないからである、またある者に許さない、それを超えて、試される(誘惑われる)ことができること。

Quod status virginitatis et caelibatus anteponendus sit statui conjugiali: 処女性と独身生活の状態は結婚の状態に前に置かれなければならない(=望ましい)こと。

praeter plura. ほかに多くのもの。

 

(3) 訳文

 7 七つの秘跡について――

 七つの秘跡、洗礼、堅信、聖体、悔い改め、終油、聖職、結婚があること――〔これより〕多くも、少なくもない。あるものは他のものにさらに価値があり、恵みを含む。それらを通しての働きから恵みが与えられる。同じ数の秘跡が古代の律法にあった。

 洗礼、堅信、聖体、悔い改めについて、前に扱われた。

終油の秘跡について――「ヤコブの手紙」5:14, 15からである。いのちの終わり近くに病気の者に行なわれ、そこから「去ることの秘跡」と呼ばれる。もし、病気が治るなら、再び適用されることができる。司教により祝福された油によって、またこれらのことば、「あなたが違反した目の、あるいは鼻の、あるいは触覚の欠点が何であっても、神がよいようにしてくださいますように」によって行なわれる。

 聖職の秘跡について――七つの階級が聖職者の職能の中にあり、それらは地位(尊厳)で異なっている、また、総合的な視野から教会組織の位階制と呼ばれ、それは剣による正規の陣営のようである。聖職者の職務の中への叙階は聖油を注ぐことによって、またそれらの中への聖霊の移動によって行なわれる。

 司教や祭司へと整えることは、世俗の権限または行政長官の承諾または召喚または権威者は必要とされない。彼らにより制定された召喚からだけで聖職者の職務へのぼる者は、聖職者ではなく、入り口を通って入らない泥棒や強盗である。

 結婚の秘跡について――姻戚などの等級☆と離婚の特免は教会のものである。聖職者は結婚してはならない。彼らすべての者は貞潔の贈り物を持つことができる、またもしだれかが自分自身にできないこと言い、そのときそれでもなお誓うなら、〔その者は〕呪いである、神はそれを正しく求める者に拒絶せず、また試される(誘惑われる)ことができることを超えてある者に許されないからである。

 処女性と独身生活の状態は結婚の状態よりも望ましいこと。ほかに多くのもの。

 

☆ よくわかりませんが、たとえば「養子とする」ことなどでしょうか。

原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (8)

(2) 直訳(8聖徒・9権限・その他)

8. DE SANCTIS.― 8 聖徒について――

Quod Sancti una cum Christo regnantes orationes suas pro hominibus Deo offerant: キリストと一緒に支配している使徒は自分の祈りを人間のために神に捧げていること。

quod Christus adorandus sit, et quod Sancti invocandi; キリストは崇拝されなければならないこと、また聖徒は加護を祈らなくてはならない(呼ばなくてはならない)。

quod invocatio Sanctorum non sit idololatrica, nec adversetur honori unius Mediatoris Dei et hominum; 聖徒への呼びかけ(祈願)は偶像崇拝的なものではないこと、神と人間の唯一の仲裁人の誉れに反対もしない(対抗もしない)。

vocatur Latria: ラトリア☆と呼ばれる。

☆ カトリック用語であるラトリア(latria)は「神のみにささげる最高の礼拝」です。これはおそらく「ドゥリア」の間違いでしょう。すなわち、ドゥリア(聖人崇敬)(dulia)は「聖人に対する礼拝」です。

なおヒュペルドゥリア(hyperdulia)は「(聖母マリアへの)特別崇敬」です。

quod imagines Christi, Deiparae Mariae, et Sanctorum, sint venerandae et honorandae; キリストの、神の母マリアの、また聖徒の像は、崇敬され(崇められ)なければならない、また尊敬され(尊ばれ)なければならないこと。

non quod credendum quod in illis Divinitas et virtus sit, sed quod honor, qui illis exhibetur, referatur ad prototypa, quae illae repraesentant; 信じるべきことではない、それらの中に神性と力があること、しかし、誉れは、それはそれら〔像〕で示される、原型☆に関係する(映し出す)、それらをそれらが表象する。

☆ prototypa = proto(原始的・最初の)+typus(象徴・型)なので「原型」でよいでしょう。

et quod per imagines, quas osculantur, et coram quibus procumbunt ac caput nudant, Christum adorent, et Sanctos venerentur: また像を通して、それをキスする、またそれらの前で身をかがめる、そして頭を裸にする(おおいをとる)ことは、キリストを崇拝する、また聖徒を尊敬(崇敬)する。

quod miracula Dei per Sanctos fiant. 神の奇跡は聖徒を通して行なわれること。

 

9. DE POTESTATE.― 9 権限(権力)について――

Quod Papa Romanus sit{1} Petri Apostoli Successor, et Jesu Christi Vicarius, Caput Ecclesiae et Episcopus universalis; ローマ教皇は使徒ペテロの後継者であること、またイエス・キリストの代理人、教会と司教全体の頭(かしら)。

quod sit supra Concilia: 会議の上にある(支配している・制している)こと。

quod Illi sint claves aperiendi et claudendi Caelum, ita potestas remittendi et retinendi peccata; 彼に天界を開くまた閉ざす鍵があること、そのように罪を赦すまた保持する。

quod ideo Illi sicut vitae aeternae Clavigero, terreni simul et caelestis imperii jura sint: それゆえ、彼に永遠のいのちの鍵の運び手のように、地と天界で支配の権利があること。

quod etiam ab Illo sit talis potestas Episcopis et Sacerdotibus, quia etiam data est reliquis Apostolis, et quod ideo dicantur Ministri clavium. さらにまた彼からこのような権限(権力)が司教と祭司にあること、使徒の残りの(他の)者にもまた与えられたからである、またそれゆえ、鍵の聖職者と呼ばれる。

Quod Ecclesiae sit judicare de vero sensu et interpretatione Scripturae Sacrae, et quod qui contraveniunt, poenis ex jure statutis puniendi sint: 聖書の真の意味と解釈について判断を下すことは教会のものであること、またこれに反して( contra)行く(venio)者は、定められた法律からの罰で罰せられなければならない。

quod non conveniat ut Laici legant Scripturam Sacram, quoniam sensum ejus non scit nisi Ecclesia; 平信徒が聖書を読むことは適合しない(ふさわしくない)、その意味を教会でないなら知らないので。

inde Ministri ejus venditant quod illum sciant. ここからその聖職者はそれらを知っていることを誇示する(自慢する)。


{2}Haec sunt ex Conciliis et Bullis, imprimis ex Concilio Tridentino et Bulla Papali confirmante, ubi omnes, qui contra illa quae decreta sunt, quae in genere sunt supra allata, sentiunt, credunt, et faciunt, anathemate condemnant. これらは(教会)会議と大勅書からである、特にトレント公会議と〔それを〕確証した教皇の勅書から、そこにすべての者を、その者はそれらに反する、それらは決議された、それらの全般的に上に提示された(affero)、感じる(思う)、信じる、また行なう、〔そのすべての者を〕呪いで断罪する。

@1 sit pro “fit” 注1 「fit」の代わりにsit

@2 Haec pro “X. Haec” 注2 「X. Haec」の代わりにHaec

 

(3) 訳文

 8 聖徒について――

 キリストと一緒に支配している使徒は、自分の祈りを人間のために神に捧げている。キリストは崇拝され、また聖徒は加護が祈らなくてはならない。聖徒への祈願は偶像崇拝ではなく、神と人間の唯一の仲裁者に対抗もしない。ラトリア☆と呼ばれる。キリスト、神の母マリア、聖徒の像は、崇められ、尊ばれなければならない。それらの中に神性と力があること信じるべきはない、しかし、それら〔像〕で示される誉れは、それらが表象する原型に映し出していること信じるべきである。それらにキスし、それらの前で身をかがめ、そして頭のおおいを取ることは、像を通して、キリストを崇め、聖徒を尊ぶことである。神の奇跡は聖徒を通して行なわれる。

 

 9 権限について――

 ローマ教皇は、使徒ペテロの後継者、イエス・キリストの代理人、教会と司教全体の頭(かしら)である。会議の上にある。彼に天界を開き、閉ざす鍵があり、そのように罪を赦しまた保留する。それゆえ、彼に永遠のいのちの鍵の運び手のように、地と天界で支配の権利がある。さらにまた彼からこのような権限が司教と祭司にある、他の使徒にもまた与えられたからであり、それゆえ、鍵の聖職者と呼ばれる。

 聖書の真の意味と解釈について判断を下すことは教会に属し、これに反して行く者は、定められた法律からの罰で罰せられなければならない。平信徒が聖書を読むことは、その意味を教会でないなら知らないのでふさわしくない。ここから、その聖職者はそれらを知っていることを誇示する。


 これらは教会会議と勅書、特にトレント公会議と〔それを〕確証した教皇の勅書からのものである、そこには、決議されたもの、それらは全般的にここに提示されたものであるが、それらに反して思い、信じ、行なうすべての者を、呪いで断罪する。

 

☆ カトリック用語であるラトリア(latria)は「神のみにささげる最高の礼拝」です。これはおそらく「ドゥリア」の間違いでしょう。すなわち、ドゥリア(聖人崇敬)(dulia)は「聖人に対する礼拝」です。

なおヒュペルドゥリア(hyperdulia)は「(聖母マリアへの)特別崇敬」です。

 

◎これらが「カトリック」の教えの大要であり、このあと、「プロテスタント」の教えの大要が続きます。

これらの教えに対する「審判」が下されたことが「黙示録」述べられている、ということです。